故郷炎上1
父に復讐する機会は予期せぬ形で息子の手中に転がり込んできた。太陽祭三箇日の中日、新月の夜、西の際より迫り来たる闇の猛威が世界を覆った時分のことである。
シャマシュは中二階の柱の陰より邸の中庭を俯瞰していた。酒宴がお開きになって久しく、中庭に立てられた篝火は勢いを弱めていた。薄闇の中で青い火花の飛沫が次々に咲く。見物客が捌けた中庭で誰かが剣舞を行っているのだ。
人影が相対したまま、躍るような足取りで篝火へ近づく。剣舞の担い手が橙色の灯火に照らされて明らかとなった。
寛衣と胸当て。軽装のまま剣を振るう男はシャマシュの良く知る人物だった。ティルムダイ大藩主領の地方監督官にしてカーグの民が族長、シャマシュの父親アダトだった。彼の民の特徴である赤膚を身内より湧き立つ憤怒で色鮮やかに染め上げ、白髪交じりの蜂蜜色の髪を振り乱し、見覚えのない男と一騎打ちを繰り広げている。
父と相対する男は粗末な短衣を纏っていた。水夫崩れかごろつきのように見受けられるが、愚鈍そうな長躯は目を瞠るほど軽やかに動く。近隣地域ではとんと見かけない金色の髪が篝火に照らされ、男が剣を振るう度に刀身の如く赤光の反射を放った。
少年は異変に気づいて二階の私室から飛び出すに先立って、突上げ式の窓より都市の様子を窺っていた。夜行雲が星影を遮る暗黒の天上。太陽祭に伴って通りと云う通りに連なった篝火でさえ届かぬ高みを黒煙逆巻く炎が衝いていた。都市の港側には鉄の精製のため必要となる木材が安置されていた。もし木材が燃やされてしまったのならば、あの炎の勢いも説明がつく。生憎ながら二階建ての泥煉瓦の摩天楼がひしめき合う街の特色上、詳しい状況までは肉眼で確かめ得なかった。
しかし、それでも大方の想像はつく。卑しい賊が野晒しの木材に着火し、火事騒動が起こっている間に邸を襲ったのだろう。火消しのため人が出払った隙をついて残った人間を斬り伏し、目ぼしい宝物を奪い去る段取りのはずが、賊は二つの誤算を犯している。
一つ目は裕福層の邸が軒を連ねる中でも人気のない邸を選んだのだろうが、そこは地方監督官の邸であり、人気の少ない理由が役職の責務を果たすため邸の人間を火消しに遣わせた為であったことだ。二つ目はたとえ火事の由来が人為的なもので邸が襲われたとあれど、邸を護る武力をアダト自身が十二分に備えていたことだ。地方監督官として故郷に腰を据える以前は大藩主の側仕えとして、スサ帝国に奉ろわぬ遊牧民族を平定する為の戦に参加していた男である。剣の腕は一夕一朝で身につけたものではない。
中庭には男たち二人の影しかなかった。おそらく邸に居残った衛兵は大広間で賊の足止めをしているのだろう。金髪の賊が一味より先走った理由は知れぬが、考え得るに宝物室の在り処を一足先に探って来るよう命じられたのかもしれぬ。一階の各室に備え付けられた突上げ式の窓は人の子さえ通れぬ狭さ。大広間を通る以外、家中に侵入できる経路は存在しない。
だが、それにしては衛兵が応援に来る跫音がひとつとして聞こえないのは妙だ。奇妙と云えばアダトと剣を交える賊もそうだ。腕が立ち過ぎやしないだろうか。シャマシュが見守る最中、男たちは何十と切り結んでいるが、力量は拮抗している。どれほどの場数を踏んで鍛えたのか想像もしたくはないが、少なくとも十七年分の戦場経験に値するほど修羅場を踏んだのは確かだ。
アダトを手助けすべきだ。父の危機に際して少年の理性が声高に叫ぶ。
ちょっと待てと、別の存在が横槍を入れる。賊に襲われた邸。目撃者は居らず、誰もがシャマシュを疑わぬ状況。復讐の好機は今しかないぞと、別の存在は囁いた。なに、簡単なことだ。背負った箙から矢を一本引き抜き、弓に番えろ。憎い怨敵に矢の狙いを定めて指を離す。あとは矢が勝手に相手の急所に飛来し、肉を抉り命を奪う寸法。
やけに腕の立つ賊の対処は太陽祭三箇日の終日を地方都市カーグで過ごすため、山向こうに屯営している藩主たちの親衛隊に任せればいい。あれほど勢いの在る炎だ。一日にして千里を駆けると云わしめる彼らならば、既に城壁の間近まで馬足を進めているだろう。
甘い囁きは仄暗い愉悦を感じさせて、シャマシュの口端は自然と吊り上がった。背負った箙から矢を一本引き抜き、下向きの弓に番えて弦を引いた。少年の怨念滾る双眸が父親アダトを射抜く。
しかし、鏃がアダトを射抜くことは疎か、向けられることさえなかった。
シャマシュのこめかみを大粒の汗が伝う。父親殺しの大罪を犯そうと云うまさに一歩手前にして、少年は正気に戻ったのだ。
義憤の神さえ微笑まぬ親殺しの所業。何と恐ろしいことを考えたのか。その醜悪な感情を宿した我が身を嫌悪し、シャマシュは臓腑の底から込み上げる吐き気と戦った。此の世に生を受けて十二年。自我が芽生えて九年。塵のように積もった殺意の山はけれども、少年の理性を覆い尽くすことなく、悔悟の涙により儚く崩れ去った。
父を助け、神々に赦しを乞おう。俗世から隔離された清廉な神殿に籠ってもいい。シャマシュはそう考えた。
未だ拮抗を保つ二人の男が間合いを取る瞬間、シャマシュの隠れる位置より賊の男が見える好機をひたすら待つ。いつの間にか瞬きも忘れてしまい眼球の表面が乾く。シャマシュが真剣に二人の攻防を見守る最中、絶好の機会は訪れた。金髪の賊が長躯を活かしてアダトの剣を大きく弾き返し、アダトがよろめき後退ったのだ。金髪の賊が剣を振りかざす。すかさずシャマシュはがら空きとなった賊の懐目掛けて矢を放った。
刹那、予想だにしない事態が起こる。
賊より体格が劣るアダトは不利を悟るや剣を捨てて得物を懐剣に持ち替え、賊の懐へ飛び込んだのだ。シャマシュの矢は奇しくも賊の盾となったアダトの背中を貫いた。
「そんな!」
シャマシュは思わず叫んだ。
金髪の賊は振りかざした剣を一直線に振り下ろした。鎖骨から入刀した剣は骨肉を断ち、背骨を断ち切れず止まった。賊が軽やかに後退するとともに背中に生えた剣が引き抜かれ、鮮血が骨の白さを覗かせる断面図より迸る。
血色をした紗幕の向こう側で金髪の賊が物陰に隠れ、中二階の柱の傍で立ち尽くす少年を注視している。何処か冷静な部分が身を隠さねば危ういと告げるが、少年の脳の大部分は呆けており、身を隠す行動も起こせずにいた。
俯せに倒れたアダトの青褪めた横面は苦痛と無念、憎悪に彩られている。父親の黒い目と紫色の唇が動く。彼の躰の下に広がり続ける血溜まりが表すように、アダトは己の生を維持する力を残していなかった。アダトの見せた微かな動きはシャマシュの罪悪感が生んだ幻覚だったのかもしれない。しかし真実がどうであれ、少年は父親の黒い目と目を合わせ、その言葉を聞いたのだ。
「遂に父親殺しの大罪を犯したか」
確かにアダトはそう呟いたのだ。
少年が生来よりひた隠していた獣性と、高潔であろうと心掛けた日々の空しさを恰も見透かしていたかのような言葉だった。成し遂げた事への達成感はこれっぽっちも心を満たさず、罪悪感と己の賎しさに対する絶望ばかりが少年の心を締め上げる。シャマシュは喉が張り裂けんほどに絶叫した。
シャマシュの背後に大広間より上がって来た賊の影が忍び寄る。恐慌を来す少年は気づかない。首筋への衝撃が少年の意識を闇へと沈ませた。