夜陰の愉悦
そうやって私が絶望のふちに佇んでいると、驚くべきことに突然蜘蛛の糸が垂れてきた。
彼が、私の髪を梳くように撫でているのだ。
私は彼の手を跳ね除け、思いつく限りの罵声を浴びせたいという衝動に駆られた。嫌いと言われた相手にそんなことをされる筋合いはない。
でも、彼の手つきはあまりに優しすぎる。そのせいで私のそんな粗野な衝動はすぐにしぼんでしまった。
時が流れていき、私の心はだんだんと穏やかになっていく。
もう、いいかな。これ、けっこういい幕切れだよね。
そんな風に私は綺麗な思い出にしようとしていた。
でも、こんなことをしてくれるなら、いつかは振り向いてくれるかな? なんてね。
そうだ。諦めなくてもいい。少なくとも私が忘れられるその時までは。
私は、目の前の蜘蛛の糸を、穏やかな気持ちで愛でた――。
「お前が好きだ」
なんだとこの野郎。今までの私の素敵乙女思考回路を返せ。
がっしと髪を梳く腕を掴み、顔を彼のほうへ向ける。
「どゆこと」
彼は唖然としていた。どうやらあまりにも想定外の事態だったらしい。
「どっち?」
「えっ……あっ……」
彼は口を金魚のようにぱくぱくと動かす。
「好きか嫌いか、どっちが本当かって聞いてんの」
気まずそうな顔で目を泳がせている。
そして数秒後、蚊の飛ぶような声で、すきだ、と言った。
「本当に? 冗談じゃない?」
彼は片手で顔を覆い、今度は鈴虫ぐらいの音量で“ああ”と答えた。
私は驚愕した。しかしその驚愕はニュートリノの伝達速度よりも速く至福へと変わる。
「へー。ふーん。ほー。あんたがねー。私をねー」
そこで、どうやらやっと彼の脳は事態を飲み込み始めたようだ。
「なんで起きてるんだ」
「狸寝入りって言葉知ってる?」
「だって突いても反応無かった」
「馬鹿。狸が突かれたくらいで正体明かすわけないでしょ」
「うわ、うわー、マジか」
彼は真っ赤な顔を今度は両手で覆って俯いた。およそ私よりも乙女な反応だ。
「で、いつから?」
さっきまでの葬式のような気持ちは、今となってはどこ吹く風。
私は有頂天だった。口の端が上がるのを隠せない。頬が地面に落ちそうなほど緩んでいる。
私の問いに彼はゆっくりと顔を上げ、目線だけは逸らして渋々と答えた。
「……中一んとき」
「ウソ、そんな前から?」
「うっさい。悪いか」
一瞬こっちを見てからむくれたようにそっぽを向く彼。何こいつかわいい。かわいすぎる。
「お前覚えてるか? 中二の時、ゴミ捨て場のこと」
「えー、なにそれ、覚えてない」
もちろん嘘。当たり前だ。あれから私はあんたに悩むことになったんだから。
「俺が告白されたとき、お前……触っただろ」
「え? 何を?」
「だから! 俺の……アレだよアレ」
「あー。思い出した。私彼女のフリしてあんたのちんちん触ったんだっけ」
「馬鹿、そういうこと言うな。はしたない」
「でもあんたあの時めちゃくちゃ怒ってたじゃん」
「だってお前が俺の気持ちも知らずにああいうことするから」
それを聞いて、私は感動に似たものを覚えた。
彼も同じだったんだ、今の私と。しかも私が悩むよりずっと前から。
私の心はまるで台風の過ぎ去った早朝。全てが透き通っていた。
「それとまぁ、あれだ」
「それと、なに?」
彼が言葉に詰まる。未だ上気している顔でちらちらとこちらを見て、意を決したように言った。
「たった」
私がその言葉の意味を理解するのに少しだけ時間を要した。私の中にインプットされている漢字が、過去の因果と結びつくものを吟味しては捨てを繰り返しているのだ。
そしてしばらくした後、ほとんど使われない漢字の中に、それを見つけた。
「えっ、うそ、本当に?」
「大体お前は鈍感すぎる! 中二とか一番男が盛る時期だかんな! お前が悪い!」
彼の中で何かが吹っ切れたのか、聞いてもいないことを大声で語る。
「……で、お前はどうなんだよ」
少しだけ、空気が引き締まる。それはお互いが大事なことだと分かっているからだろう。
片や裁判官、片や被告人。
私は彼に有罪をちらつかせることにした。何年もへたれていた罰だ。
私は俯き、肩を揺らし、嗚咽を始めた。
「私、あんたとはずっと友達だって思ってたのに」
彼が狼狽する様子が肩越しでも分かる。面白くて今にも嗚咽が引き笑いに変わってしまいそうだ。
「おっ、おい、悪かったって。忘れてくれ。俺は大丈夫だ、すぐ諦めるから」
その言葉に少しムッとする。
「でっ、でっ、でっ、でも、抜いたん、でしょ」
「えっ」
「わっ、だっ、しっ、の、こと想像して、抜いたん、でしょ?」
狼狽に加えて葛藤している様子が伝わってくる。あろうことか、ぁ……ぅ……と妙な小声さえあげている。
「言っでよ、ほん、どうのこと」
あ、畜生って言った。
「抜いたよ! ホント言うと今でも、たまに」
もうだめだ。楽しすぎて耐えられない。
「バーカ。たまにじゃなくて毎日しろっての」
嘘泣きだったが、ちょっと目頭に涙が溜まっているのが自分でも分かった。
彼が一瞬驚いたような顔をし、直後、長年の付き合いでも見たこのない表情に変わる。じっ、と私を見つめる双眸がしっとりと濡れている。私は今度こそ素でドキッとしてしまった。
「なに今の、なんかヤバいんだけど」
「それ、マンガのセリフっぽい」
条件反射で出る言葉に、彼の表情は一転して面食らったものに変わった。
「お前なぁ、今すげーいい空気だったじゃん」
「うっさい。私このまま学校でするの嫌だから。してもキスまでね」
「帰るぞ。今すぐ」
「雨降ってるじゃん。あと鍵も返さないと。それにその服保健室で借りたんでしょ」
「んなのどうでもいい。こっちは非常事態だ」
「バカ。エロバカ」
「うるさい、意地悪女。お前分かっててやってただろ」
「朴念仁なのが悪い」
「お前だって同じようなもんだろーが!」
「ぷぷ。あんた夢で“結婚しようか”とか言ってたよ」
「え……マジ? お前そんな夢見たの?」
「っ、違う、忘れろ、バカ!」
私たちはいつものように憎まれ口を叩きあいながら、廊下を走り出した。
中高生って男女ともに、すごく異性に敏感な気がする。
だから微笑ましい恋愛ができるんだと思う。
少しでもお楽しみ頂けたなら幸いです。
ご読了、ありがとうございました!




