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雷雨の喪失

 その日の放課後。

 これは夢ではない。頬をつねったら痛かった。

 夢と似ていて、全く違う情景が目の前にあった。

 教室はまるで夜かのように暗く、外はさながらナイアガラの滝。加えてブラジル中継くらい光と音に時間差のある雷が鳴っていた。

 彼はパンツだけの状態。私は体操服を着用。今度はきちんと教室内に二人とも収まっていた。

 視線は彼のほうには向かず、背を向けて机二個分くらい離れている。

「なんで体操着もってないの」

「またそれかよ。持ってないもんは持ってないんだから仕方ないだろ」

「借りろよ」

「だから、もう誰も居ないんだって。テスト期間中なんだから」

「生み出せよ」

「俺は錬金術師か」

「錬綿術師」

「なんか不便そうだなそれ」

 びしょ濡れの服を再度着ろ、とはさすがに言えなかった。それで風邪を引かれたら寝覚めが悪い。

「保健室行ってくる」

「おお、その手があるじゃん。なんで今まで気づかなかったんだ」

 朴念仁が。私が告白しようかと隙を窺っていたからに決まっているだろう。

 寝覚めが悪いとか言っておきながらあんな格好でしばらく放置するあたり、私は彼に風邪をひかれようがひかれまいがどうでも良かったのかもしれない。

 きっと私は夢と現実に共通点を作り、この不思議な偶然を機に告白しようと思ったのだろう。まあ、実際のところ無理だと気づいて今から保健室に向かうわけだが。

 ドアに手をかけた私の背後から、神経を突き刺すような言葉が投げられる。

「お前、今ノーパン?」

 心臓が跳ねた。原因は動揺か、憤慨か、はたまた恥じらいか。私には分からなかった。

「そうだよ。だから?」

「いんや、別に。なんとなく」

 なんとなく? なんとなくだって?

「なにそれ」

 私の心に、ぼこぼことした突起が生まれ始めた。

「そうやって女の子馬鹿にして楽しい?」

「いや、別に変な意味で言ったんじゃないぞ」

 その突起はどんどんと尖ってゆく。

「それが馬鹿にしてるんだって」

「は? なんだそれ」

 突起は今にも薄い皮を突き破ってしまいそうだ。

 どうして。どうして夢のときみたいに私に興味を持ってくれないの。どうしてどうでもいい存在みたいに扱うの。どうして私を女の子として見てくれないの。

「これ!」

 思いっきり右腕を突き出した。

「この傷、なんだと思う!」

 右腕のひじ辺りの擦り傷を指差す。

「え? うーん、こけたのか?」

 正解だった。

「違う! 化学の実験のときにフッ化水素かけちゃったの!」

「え、フッ化水素って骨に到達するまで反応し続けるって先生が言ってたけど」

 馬鹿、馬鹿馬鹿、馬鹿すぎて嫌い。なんでよ。私が欲しいのはそんな言葉じゃない。

 なんだか頭がぼんやりしてきた。

「私はあんたが大嫌い! 嫌い、嫌い!」

「なんだよ突然。意味わかんねーよ」

 久しぶりに聞いた、彼の不機嫌そうな声。それがぐわんぐわんと頭の中に響く。

 そして突如、貧血のような感覚が私を襲った。あ、駄目だ。立っていられない。

 世界が回る。全身の感覚が無くなって、扉にもたれかかったのに足からくずおれてゆく。

 急速な眠りのようなものへと落ちる前に見た彼の顔は、驚愕と不安に満ちていた。



 目が覚めた。ボツボツと規則的に穴のあいた天井が目に入る。ここはどこ?

 首を回すと、仕切りと本棚が目に付いた。ここには私も一度来たことがある。文化祭の準備で、看板を運んでいる最中に階段で転んで盛大に鼻血を出したときだ。鼻血は看板にべっとりとついてしまったが、運よくうちのクラスはホラーハウスだった。その血はわざわざ赤丸で囲んで“本物の血!”と誇張された上で残されたのだった。

 こちらに誰かが来る気配がして、咄嗟に目を閉じる。

「じゃあ、先生職員室に居るから。目が覚めたら鍵閉めて私のところに鍵持ってきてね」

「わかりました。ありがとうございます」

 そう言ってドアの開閉する音が響く。程なくして誰かがカーテンの隙間から入ってくる気配がした。左隣でギッという音が鳴る。どうやら椅子に座ったようだ。

 沈黙が空間を支配する。聞こえるのは私の嘘っぽい寝息と、時計が時を刻む音だけ。

 ん? なんだか閉じた視界で光の強さがちらちらと変わっている。何だろう。

 と思った直後。頬を突かれた。

 危ない、危ない。飛び跳ねるところだった。

 私は淡く期待していた。こういうときマンガでは、男が隠していた恋心を暴露するものだ。それは相手が寝ているからこそ起こる。

 だが私は寝ていない! これは、千載一遇のチャンスだ。逃せば後はない。

 つんつんと触れ続ける彼の手が離れていった。

 そしてため息が聞こえる。

「んだよ、嫌いって」

 独り言特有の消え入るような喋り方で彼は呟いた。

 私の胸は激しく鼓動を続ける。

「俺もだし。ばーか」

 冷や水をかけられたような気分だった。この瞬間、私の望みという灯火がすべからく消えた。同時にベッドがどこまでも沈んでいくような感覚に見舞われる。どうせなら、地獄まで沈んでゆけばいいのに。


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