第三話 脱糞刑事
長年追っていた犯人を、ついに追い詰めた。
今は互いに銃を突きつけ、いつ引き金が引かれてもおかしくない──そんな緊迫した状況だ。
警察官になって、すでに四十年。
定年を目前にした今、この男を偶然見かけたのは、まさに奇跡としか言いようがない。
だが──。
こんな状況の中で、私はクソをしたくてたまらなくなっていた。
絶対に気を反らしてはいけない──そう思っているのに、意識がお腹とお尻へ、ついつい向かってしまう。
排泄物が今どこにいて、どんな状態なのか──手に取るようにわかるのだ。
危険度で言えば、まだレベル五。
しかし、このまま睨み合っているうちに、危険度は徐々に上がり、やがて耐えきれなくなるだろう。
長年生きてきたからこそ、私にはわかる。
命を奪われる危機と、汚物を漏らす危機。
その二つに板挟みにされた私は、このままでは奴に撃たれ、汚物を垂れ流したまま最期を迎えることになる。
そうなれば、『脱糞刑事』として後世まで語り継がれることになる。
私はキャリアではない。
それでも、地道に努力を重ね、ここまで登ってきた。
そんな汚名を着せられたまま、最期を迎えるわけにはいかないのだ。
「……もう、諦めろ。……お前に逃げ場などない」
まだ余裕のある私は、いつもの冷静な口調で奴を追い詰めていった。
しかし──。
ケツからプスプスと屁が出ていることには、奴どころか誰も気付いていないだろう。
音は出ていない。
匂いも微か。それほど強烈ではない。
この程度なら、まだ大丈夫だ。
「うるせー! 俺はこんなところで……ん? ……なんか臭くねぇか?」
しかし、奴はこの微かな異臭を感じ取った。
考えてみれば、奴は逃亡中から勘が鋭かった。
血眼になって追い続ける警察の目を、幾度となく掻い潜ってきたのだ。
ほんの些細な変化さえ見逃さない──。
そんな男だからこそ、今まで逃げ延びてこられたのだ。
「き……気のせいじゃないか。……私は何も感じないぞ」
奴の言葉に私はとぼけてみせた。
ここで弱みを握られるわけにはいかない。
だが、こんな緊迫した状況だというのに、私の視線は泳ぎ始めていた。
それを見た途端、奴の表情がゆっくりと険しくなる。
何かを感じ取ったのだ。
そして、そこから何かを探ろうとしている。
「あんた、様子がおかしいなぁ……。なにか隠してるだろ?」
切迫していた奴の顔に、少しだけ余裕が生まれていた。
それを見た瞬間、私は立場が逆転したような錯覚にとらわれた。
「ふざけるな! 今、おとなしく捕まれば罪は軽い!」
私は我を忘れ、思わず叫んでいた。
そんな口車に乗せられ、真実を語るわけにはいかない。
(クソをしたい!)
そんなことを知られれば、狡猾なコイツのことだ。
それに付け込んで、この場からまんまと逃げおおせてしまうだろう。
危険度で言えば、まだレベル五。
まだまだ余裕はある。
だが、叫んだことで危険度は一段階上がり、レベル六に達していた。
腸内の最終兵器は、出口に向かってじわじわと進軍している。
私はその流れを食い止めようと、懸命にケツへ力を込めた。
「ブーッ!」
だが、力んだことで屁が漏れ、屈辱的な音が周辺に響き渡った。
その瞬間、奴はニヤリと笑った。
「あんた……もしかして……」
ダメだ。
完全に、クソを我慢していることを悟られてしまった。
「クソ漏らしたな!?」
しかし、奴の口から出たのは、思いもよらない言葉だった。
「違ーう! ……まだ、漏らしてない!」
何ということだ。
私は、自らクソを我慢していることを白状してしまったのだ。
しかも、もうすぐ、それが出そうだということまで。
奴は絶好のチャンスだとでも思ったのか、その言葉を聞いた瞬間、口元を綻ばせた。
小馬鹿にするようなその態度に、私は頭に血が上っていた。
「勘違いするなよ! ……確かにクソは出そうだ。だが、まだまだ余裕はある!」
向かい合った銃口は、月の光に照らされ、キラリと輝いている。
夜風が吹く、寂れた工場跡地に、私の大見得が堂々と響き渡った。
「お前を捕まえることなど、造作もない!」
しかし──この啖呵が、ますます私を苦しめることになるとは思わなかった。
気張ったせいで、危険度はついにレベル七へ達した。
下腹部に、一気に強い違和感が走る──。
まだ、我慢はできる。
だが、通常の私なら、少し余裕を持ってトイレへ向かっているレベルだ。
なぜなら、私は昔からお腹が弱い。
人前で大々的に漏らしたことはない。
だが、トイレに駆け込む前に少しだけ漏らし、こっそり下着を取り替えたことなら何度かあった。
だからこそ、慌てる前にトイレへ向かう。
それが、私の鉄則なのだ。
「へぇ~。……そうなんだ」
私の言葉を聞き、奴は余裕たっぷりの態度でそう言った。
こっちは必死だというのに、そのにやけた顔が憎らしくてたまらない。
「でも……あんた、切羽詰まった顔してるぜ」
そんなことなど百も承知だ。
妙に落ち着き、わざと間を置きながら話すその口ぶりは、私を焦らして楽しんでいるようにしか思えなかった。
「私はもともと、こんな顔だ!」
額からダラダラと脂汗を流し、お尻を閉じようと必死になっている私の顔は、まるで鬼瓦のようだろう。
しかし、緊迫したこの状況だからこそ、それも誤魔化せる。
だが、奴はフッと笑うと、思いもよらないことを言い出した。
「だったら……そこでピョンピョン跳ねてみなよ。……余裕なんだろ?」
その一言は、今の私には死刑宣告に等しかった。
今、少しでも腸に刺激を与えれば、危険度は八まで上がってしまう。
飛び跳ねる──。
それは、まさに腸を刺激する行為だ。
だが、ここで躊躇ってしまえば、さらに奴に弱みを握られ、逃がすことにもなりかねない。
私は、まさに断腸の思いで口を開いた。
「……わかった」
私はそう言うと、奴に銃口を向けたまま、ピョンピョンと跳ねてみせた。
地面に足が着くたび、思った以上の衝撃が身体を突き抜ける。
その振動が腸を激しく揺さぶり、危険度を一気に押し上げていく。
しかし──
「それじゃあ、軽い屈伸じゃねぇか!? ……ちゃんと跳ねろ!」
お腹を気遣ったジャンプは、とても「跳んでいる」とは言えないものだったようだ。
私は知らず知らずのうちに、すっかり臆病になっていたのだ。
だが、今の衝撃ですらかなりヤバい。
これ以上の刺激を与えれば、どんなことになるか想像もできない。
それでも、ここで止めるわけにはいかないのだ。
私は意を決し、高く跳び上がった。
「……うっ!」
着地した瞬間、私は銃を地面に落とした。
危険度は八を通り越し、一気にレベル九へと跳ね上がっていた。
もはや、奴のことなどどうでもよくなっていた。
今にも出そうなクソを食い止めることに、頭がいっぱいだった。
思わず尻に両手を当て、必死に押さえ込む。
身体を反らせながらケツを懸命に押さえるその姿には、長年培ってきた威厳など微塵も残っていないことだろう。
目の前のすべてのものがぐにゃりと歪んで見える。
状況どころか、ここがどこなのかすら分からない。
私は辛うじて動かせる視線だけを頼りに、トイレになりそうな場所を必死に探していた。
「ハハハハハ……やっぱり、クソ漏らしそうだったんじゃねぇか?」
その時、奴の笑い声が響いた。
銃を向けたままの、余裕たっぷりなその姿は、完全に私を見下している。
しかし、今の私には、そんなことに構っている暇はない。
汗を垂らしながら、藁にもすがる思いで、最後の力を振り絞る。
「……と……トイレが、どこか分かりませんか……?」
もはや、奴が誰なのかなどどうでもよかった。
この窮地を脱するためなら、なりふりなど構っていられない。
震える手を奴に伸ばし、涙目になりながら決死の覚悟で返事を待つ。
そんな私を見て、奴は哀れむようにフッと笑った。
「そこでしてきなよ……」
そう言いながら、奴が目を向けたのは大きなドラム缶だった。
その時、私は奴の人間としての優しさに、ほんのりと胸が熱くなっていた。
ケツを押さえながら、内股でそろりそろりと歩く私。
もう少しで、すべてを解放できる──。
そう思うと、ほんの少しだけ心にゆとりが生まれた。
しかし、三歩目を踏み出した時──。
ついに、危険度はレベル十に達した。
その瞬間、静まり返った工場跡地に、轟音が鳴り響いた。
今までせき止めていたダムが、押し寄せる濁流に耐えきれず、ついに決壊したのだ。
履いている下着が、ずっしりと重くなっていく。
辺りには、たちまち悪臭が立ち込めた。
奴は青ざめ、向けていた銃を下ろし、しかめっ面で鼻を摘まんだ。
「やっちまったのか? ……哀れだなぁ」
そう言ってはいるものの、その顔に哀れみなど微塵もない。
一刻も早く、この異臭漂う場所から逃げ出したい──まさにそんな顔をしていた。
「俺は、もう行くぜ。……臭くて堪んねぇ」
その言葉を残し、奴は鼻を摘まんだまま、そそくさとこの場から立ち去っていった。
残された私は、崩れるように膝をつき、天を仰いだ。
この歳になって、恥も外聞もなく涙をボロボロとこぼして──。
刑事として今まで積み上げてきたものが、音を立てて崩れ去っていた。
何も考えられない。
ただ呆然と天を見上げながら、今までの刑事人生を振り返っていた。
そしてその日から、私は二度と同じ過ちを繰り返さないため、自らを『脱糞刑事』と名乗るようになった。
END




