転生
意識が浮かび上がるとき、人は普通、眠りから目覚めたような感覚を覚える。だが今回のそれは、どこか違っていた。まず最初に感じたのは、体がひどく重いということだった。腕を動かそうとしても、命令はすぐには届かない。まるで遠くにある何かを無理やり動かそうとしているような、奇妙な遅れがある。脚も同じだった。体のどこにも力が入らない。
視界は曖昧で、光がぼんやりと滲んでいる。目は開いているはずなのに、世界はまだ形を結ばない。ただ、頭の上に何かがあることだけは分かった。木の梁のようなものがぼやけて重なり、天井らしい構造を作っている。
そのとき、すぐ近くで女性の声がした。
「……本当に、生まれたのね……」
声は弱く、息が混ざっている。それでも、その声の奥には抑えきれない喜びがあった。
「大丈夫か、ミリア。無理するな、まだ横になってろ」
低い男の声が続く。
「平気よ……見て。ほら……この子」
ミリアは腕の中の赤ん坊をゆっくり持ち上げた。
「泣いてないわ。静かにこっちを見てる」
男は少し驚いたように眉を上げる。
「普通はもっと泣くもんだろ」
「そうね……でも」
ミリアは小さく笑った。
「この子、目が……なんだか不思議なの」
二人の声は耳に届いている。しかし意味は分からない。音としては聞こえるが、言葉として理解できない。外国語を初めて聞いたときのように、ただ音の流れが耳に残るだけだった。
そのとき、ふと視界の端に自分の手が入る。
小さい。
あり得ないほど小さい。
指は短く丸く、皮膚は柔らかく膨らんでいる。握ろうとしても力が入らず、指がゆっくり曲がるだけだ。開くときも同じだった。動きはぎこちなく、まるで初めて使う機械のように頼りない。
それだけで十分だった。
赤ん坊の手だ。
思考が一瞬止まる。
頭の中で何かが崩れるような感覚がした。今見えているものと、記憶の中にある自分の姿がまったく一致しない。
記憶の中の自分は、もっと大きかった。
もっと重かった。
もっと、どうしようもなく惨めだった。
狭い部屋の光景が浮かぶ。六畳ほどの部屋。カーテンはいつも閉めたままで、昼なのか夜なのか分からない。机の上にはコンビニの弁当容器がいくつも積み重なり、空のペットボトルが転がっている。床には服が脱ぎ捨てられ、どこを踏んでも何かに当たる。
部屋の中心にはパソコンの机があった。そこに座っているのが、自分だった。
体は椅子に沈み込むように丸まり、腹は服の上からでも分かるほど膨らんでいる。腕は太く、顎の下には肉が重なっていた。鏡を見るたびに、目を逸らしたくなる体型だった。
高校には行っていなかった。
最初からそうだったわけではない。入学したばかりの頃は、まだ普通だった。授業を受け、教室に座り、周りと同じように過ごしていた。
だが、少しずつ空気が変わっていった。
最初は軽いからかいだった。
「おいデブ」
笑い声。
「走れよ」
体育の時間、わざと聞こえるように言われる言葉。
最初は笑ってごまかした。だがそれは次第に露骨になっていった。
机の上に落書きが増える。
靴が消える。
ロッカーの中にゴミが入れられる。
教科書がなくなる。
周りは見て見ぬふりをする。教師も気づいていたかもしれないが、何も変わらなかった。
やがて学校へ行くこと自体が怖くなった。
一日休む。
次の日も休む。
「今日は行く」と決めても、玄関まで行くと足が動かない。心臓が早くなり、吐き気がする。
そして部屋に戻る。
それを繰り返すうちに、教室という場所は完全に自分の人生から消えていた。
家にいる時間が増える。最初はゲームをして時間を潰した。ネット動画を見て夜を過ごした。昼夜が逆転し、外に出ない生活が続く。食事はコンビニか宅配ばかりになり、体はどんどん重くなっていった。
外へ出る理由はもうなかった。
両親の声は聞こえていた。心配していることも分かっていた。だが顔を合わせることができなかった。何を言われるか怖いというより、何も言われない沈黙のほうが辛かった。
だから部屋に閉じこもった。
時間だけが過ぎていく生活だった。
将来のことは考えなかった。考えたところで、どうにもならないと思っていたからだ。
そして――
その先の記憶はない。
どうしてここにいるのかも分からない。
ただ、今分かることが一つある。
ミリアが赤ん坊の頬を優しく撫でる。
「ねえ、この子の名前」
男が頷く。
「決めてただろ」
「ええ」
ミリアは静かに言った。
「リオン」
男は小さく笑う。
「リオン・アルトか」
「いい名前でしょ」
「悪くない」
男は赤ん坊を見ながら言う。
「元気に育てばそれでいい」
ミリアも頷いた。
「そうね」
赤ん坊は二人の腕の中で静かに揺れていた。
言葉の意味は分からない。
だが声の響きから、それが喜びであることだけは感じ取れた。
かつての人生は、暗い部屋の中で止まっていた。
だが今、体は小さく、何もできない。それでも確かなことがある。
人生が、もう一度始まっている。




