第5章 推しを推すにも財力がいる〜⑥〜
異人街と呼ばれる明治時代の開港以降に外国人が居住した洋風建築が並ぶ街の一体を目指すタクシーの車内で、オジサンの話は続く。
「これは、自分のアイデンティティと対象が同一視される推し活の典型やな。そして、メフォ手形という公債を発行して、その莫大な借金で経済を建て直そうとした政治家は、議会の承認を得て総統と呼ばれる地位に就いた。いまから行くのは、そんな国で敵対視された民族の記録が残ってる場所や」
タクシーに乗って、県公館前から5分ほどで到着したその建物は、イスラム教のモスクやインド系の寺院が並ぶ一角にあった。
入口のドアの上に飾られたダビデの星のマークで、この建物が、どの宗教に関係するものなのか、すぐにわかる。
「ユダヤ教の教会?」
「そう、現地の言葉ではシナゴーグと言うらしいな」
玄関にあるチャイムを押したオジサンは、
「見学の予約をしている佐藤です」
と名乗って建物の中に入っていくので、あたしもその後に続く。
「こんにちは。ラビのシャムエル・ビシスキーです」
長いヒゲをたくわえた男性は、自己紹介を終えると教会の歴史について語る前に、自分の家族の話をしてくれた。
「私の祖母のリブカは、ロシアのルドニャという町で生まれ育ちました。そしてルドニャに1941年、ナチス・ドイツがやってきたのです」
1941年、ビシスキーさんの祖母・ブカさんの故郷ルドニャを第二次世界大戦の戦火が襲う。リブカさんは当時、ロシアのレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)にいたが、のちに家族の悲劇的な最期を知ることになった。
「ナチスは『ソ連の戦車から身を守るためだ』と言って、森に深い穴を掘るように命令しました。ルドニャの人々が中に入って、穴を掘り続けていた時に、ナチスは大きなトラクターを使って彼らを生き埋めにしたのです」
リブカさんの両親や兄弟、姉妹など一族20人ほどを含むルドニャの住民約3500人が虐殺されたそうだ。リブカさんは、一族のそうした過去についてほとんど語ろうとしないまま2021年7月、この世を去った。
「ホロコーストという非常に悲惨な体験が呼び起こす痛みを家族に味わってほしくないという思いから、私たちに語らなかったのでしょう」
ビシスキーさんの一族には、ナチスに舌を抜かれるなどして命を落とした人もいるという。祖母の亡きいま、自らが経験を語り継いでいかねばならないという思いを強くしたということで、教会の見学者に家族の過去を語り継いでいるそうだ。
「家族や同胞がたくさん殺されたことに怒りは感じませんか?」
そう問いかけるあたしに、ラビは答える。
「『600万人のユダヤ人が殺されたことに怒りを感じるか?』という問いは愚問です。怒りや憎しみという言葉では表せない『破滅』。それがまさにホロコーストなのです」
重苦しい空気が流れる中、ビシスキーさんは、穏やかな表情で、あたしたちに語りかけて来た。
「ホロコーストで大勢の人が命を落とした一方、奇跡的に戦地から脱出して、この街にたどり着いたユダヤ人がいたことはあまり知られていません」
「ユダヤ人が、戦争中の神戸の街にですか?」
「はい、1940年から翌年にかけて、少なくとも5000人を超えるユダヤ人が神戸にやって来たとされています。1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。ポーランドには当時、300万人以上のユダヤ人がいましたが、その一部は隣国・リトアニアに逃げ込み、ヨーロッパからの脱出を図ります。彼らは日本を通過するビザを得ようと領事館へ殺到しましたが、そこでビザを発行したのが外交官・杉原千畝でした」
杉原千畝――――――。
その名前は、大学の講義などで聞いたことがある。ナチスに迫害されたユダヤ難民にビザを発給してヨーロッパ脱出の手助けを行い、「東洋のシンドラー」と呼ばれた外交官だ。
「日本での滞在には身元保証人が必要でしたが、当時神戸にあった小さなユダヤ人コミュニティ『神戸ユダヤ共同体(神戸ジューコム)』が身元保証人を引き受けました。こうして多くのユダヤ人が神戸の地を踏んだのです」
ただ、その当時の日本は、ユダヤ人を迫害したナチスドイツと同盟関係にあったはずだ。
そうした状況はユダヤ人の受け入れに影響しなかったのだろうか?
「当時の日本政府は、ユダヤ人政策については必ずしもナチス・ドイツと全く一緒だったというわけではないそうです。ユダヤ系の企業や銀行とお金を借りたり、何かを売買したりというつながりもありましたし、国際政治の駆け引きの中でユダヤ人の支持を得ることが重要な場面もあったそうです」
ヨーロッパから逃れ、命の危険はなくなったものの、ユダヤ人難民の生活は恵まれたものでは無かったそうだ。大半のユダヤ人はいまの神戸市中心部、北野坂とトアロードに挟まれたエリアに滞在し、空き家やアパートで生活していたという。就労は認められず、生活費はアメリカのユダヤ人団体からの送金などに頼らざるを得なかった。
それでも、神戸にたどりついたユダヤ人のひとりは、こう証言している。
「牛乳を配ったり、空き瓶を回収したり、集金したりしました。私たちユダヤ人は小さい部屋にギュウギュウ詰めの状態で暮らしました。しかしみんな幸せだったのです。神戸は『わが家』のように感じられたのです」
最後にビシスキーさんは、ラビとして「ホロコーストの悲劇と救済」の歴史を継承していきたいと話してくれた。
「神戸の人々は、難民としてやって来たユダヤ人を敬意とあわれみを持って受け入れてくれました。この街とユダヤ人の歴史を受け継いだ立場に安住せず、その責任を果たすために、善き行いを積み重ねなければならないと考えています」
穏やかな口調で語るラビの語り口によって、幼い頃から何度も訪れたことのある異人街の知られざる歴史に触れたあたしは、複雑な想いでシナゴーグを後にした。




