第2章 新人お笑い尼崎大賞への道〜③〜
いつもどおり、書店でのバイトを終えて自宅に帰り着くと、午後10時を過ぎていた。
バイト先のショッピングモールの最寄り駅である猪名寺駅から自宅のある草津駅までは、各駅停車と新快速を乗り継いで、およそ一時間の道のりだ。その草津駅から徒歩5分の場所にあるマンションの一室が、ボクが中学生の頃から住んでいる我が家である。
大学生になるまで、自分が住んでいる滋賀県から京都府と大阪府をまたいだところにある兵庫県という土地は、ボクにとって、まったく未知の場所だったが、二年半以上、通っているいまとなっては、すっかり馴染みのある場所になっていた。
その場所で行われる、お笑いの賞レースとは、どんなものなのだろう―――?
気になって、帰りの電車の中で検索してみると、『新人お笑い尼崎大賞』は、次回で開催26回目を迎える歴史を持ち、過去の受賞者には、友近、ゆりやんレトリィバァ、エルフなど、テレビでも良く目にするお笑い芸人の名前が記されていた。
(侮っていたけど、なにげにスゴい賞なのか?)
そんなことを考えながら、帰宅し、いつものように遅い夕食のテーブルに着くと、ダイニングでテレビを観ていた母と姉が話しかけてくる。
「おかえり、今日もお疲れさま」
「おかえり、ノブ。今日は、なんか面白いことあった?」
バラエティー番組を観ながら語りかけてくる二人に、
「面白いって程のことじゃないかもだけど……最近、知り合った人とお笑いの賞レースに出るかも……」
と返答すると、姉と母はテレビ画面からこちらに向き直って、さらに問いかけてきた。
「なに? ノブ、あんたMー1に出るの?」
「まあ! あなたに、そんな度胸があるなんて思わなかったわ。大丈夫なの?」
「いや、Mー1なんて、そんな大規模な大会じゃないけど……誘われたのは、この大会」
そう言って、オッサンから受け取ったチラシをカバンから取り出して見せると、そこに書かれた文字を目にして、姉はプッと笑みをこぼす。
「『新人お笑い尼崎大賞』って……尼崎って、たしか、ダウンタウンの出身地だよね? まだ、お笑い芸人を輩出しようとしてんの? ウケる〜」
「ボクも、聞いたことない大会だと思って、正直、軽く見てたんだけど……歴代の受賞者には、友近とか、ゆりやんレトリィバァとか、エルフがいるんだって」
そう言って、今度はスマホに表示させたウィキペディアの『新人お笑い尼崎大賞』のページの歴代受賞者の項目を見せると、二人は、声を揃えて「ほぉ〜」と唸った。
「色んなウワサを聞くけど、流石だわ……尼崎って、南に向かって線路を越えるごとにケンカの強いヤンキーがいて、最強クラスになると、拳銃の弾も避けられるんでしょう?」
姉の突拍子もない発言に思わずツッコミを入れる。
「拳銃の弾を避けるって、どんな都市伝説だよ! その情報、どこ発信なの?」
「たしか、何年か前に、じゅんいちダビッドソンがテレビで言ってた」
さすがは、尼崎出身のお笑い芸人……という感じの話の盛り方だが、本当にそんな伝説がまことしやかに語られていたのだろうか? たしかに、尼崎市には、北から阪急電車、JR、阪神電車と東西に三本の鉄道路線があって、いまでも、南部に行くほどカオスな状況が広がっているとウワサされたりしているのだが……。
なお、自分の通う王手前大学のキャンパスは、隣の伊丹市にあり、
「在学生からは、敷地は伊丹市なので、ギリ、セーフ」
という謎の評価を自分たちで下している。
他にも、尼崎から西宮に抜ける市境に「この先、安全」と書いた看板がある、という都市伝説も存在している(本当は、国道2号線で武庫川を渡って西宮市に入ると「安全都市西宮市」という交通標識があるだけだそうだ)。
このように、我が家がある滋賀県とはまた違ったカタチではあるが、尼崎市もまた、近隣地域の住民から、時には恐れられ、またある時は良くイジられる土地であるということが、二年半の学生生活で良く理解できた。
そんな感じなので、ボクの中で、不安な気持ちが大きくなってくる。
(こんな笑いに厳しそうな場所に、ボクみたいな素人がノコノコ出て行って大丈夫なんだろうか?)
そんなボクの心配を読み取ったのか、母が声をかけてきた。
「どうしたの、難しい顔して……お母さんは、面白そうだから出てみたら、良いんじゃないかと思うわよ。来年は就職活動もあるんだし、楽しむなら今のうちよ」
「そ、そうだね……」
本当なら、秋になるこの時期でも、企業研究やOB・OG訪問、可能ならインターンシップの参加をしておかないといけないんだけど……まだ、危機感の薄いボクは、そうした活動に向けて、重い腰を上げることが出来ていなかった。
こんな感じで就活という現実と向き合わなければ……と、考えるボクに、姉はチラシに目を落としつつ、気楽に口を開く。
「この大会は、予選会と本選会があるみたいだけど、本選は、実際にステージに立つみたい。本選の当日は、日曜日だって! お母さん、もし、ノブが本選に出場したら一緒に見に行こうよ!」
「そうね! 結局、大学の入学式も行けなかったし、尼崎ってどんなところか興味があるわ。一度、行ってみたいわね」
「ノブ、どんな人とコンビを組むか知らないけど、がんばりなよ! 応援してるから」
こうして、本人の揺らぎかけた決意は、星野家の女子二名の後押しにより、建て直されることになり、ボクは、ショッピングモールでの話し相手に過ぎなかったオッサンと、お笑い賞レース出場のためにコンビを組むことにした。




