92-直面する限界
鳴り響く目覚まし時計を、押して黙らせる。
結局、アレから帰宅して一睡もできなかった。炎玲が路地裏で凍えている光景や、ひとりで泣いているシーンが次々目に浮かんできたからだ。そんなの見たこともないのに。
「……おはよう。眠れ……て、ないわよね」
「……おはよう」
「お、おはよ、堂本」
一階では、すでに起きている白鳥と篠原が居る。
死んだ声で挨拶して、“3つ”に増えた空席をチラ見。嫌な目覚めだ。
あの後、帰ってきた時にはすでに、直政は消えていた。“すまなかった”という書き置きだけが残っていた。
一気に、半分だ。短い期間を共にした擬似家族も、ずいぶん減ってしまった。
俺は最初からひとりだったのに、人数が減っていくことは想像以上にキツイ。
キツイが……今日ばかりは、泣き暮らすわけにはいかなかった。何故なら……。
「A-SADの健康診断。ちゃんと案内チケット、持った?」
「持ったよ。持った……」
そう。犬飼さんに呼ばれている、健診があるのだ。
本当なら全部ほっぽって炎玲や直政を探しに行きたいのに、これをスルーしたら次は自宅に公安が来る。
「わ、私は別に行かなくても良いらしいけど……し、心配だから、ついてく」
「……絶対バレるよなぁ、俺」
「あ、案外……平気かも」
これは健康診断という名の、“超人スクリーニング”。市民に潜む怪物をあぶり出して、網にかけるためのものだ。
クラリス・コーポレーションとA-SADが共同で行う今回の検査は、小手先の工夫で乗り切れるほど甘くないだろう。
「……」
そんな危機を前にしても、正直、身が入らない。
炎玲と直政のことが気がかりだ。彼らも“超人”。A-SADは必ず、この健診の網から逃れた人たちを追い詰めに行くだろう。
「い、いこう」
気付けば、篠原に手を握られていた。心配そうな彼女の顔と、玄関で待っている白鳥。
……そうだ。ともかく、自分の問題を解決しなければ。
「悪い。行くか」
「う、うん」
「ええ」
俺はどこで間違えたのだろうか。
きっと、全部だ。靴を履きながら、そんな自嘲気味の思考がかすめた。
◆
ベッドに座っていた炎玲は、ドアをノックする音に反応して立ち上がった。
「は、はい! えっと、開いてるぞ……です!」
着慣れないパジャマで、つまずきそうになりながらドアに向かう炎玲。
苦労してノブを回し、開くと、そこには深刻そうな顔のカレンが立っていた。
「おはよう、炎玲。朝からごめんなさい」
「お、おはようございます、カレン様! ……ど、どうしたの?」
「すこし話があるの。今、平気かしら」
「も、勿論!」
不安に駆られながら、それでも気丈に頷く炎玲。
カレンはドアを開けた。そして、廊下へ手招きする。
「来て。会わせたい人がいるの」
「はい。……でも、会わせたい人って?」
「……その前に、いいかしら。炎玲、貴女……“クラップロイド”と一緒に居たっていうのは、本当?」
「ほ……ほんと、です」
なぜか悪行を責められているような心地で、炎玲は答える。
その答えを聞き、カレンは悲しげに息を吐いた。
「だからね。……“あんなこと”になったのも」
「あんなこと……?」
「いい? 炎玲。少しショックかもしれないけど、気をしっかり持って」
「……」
真っ白な廊下を歩いて、たどり着いた扉の前。炎玲は、怯えた目でカレンを見上げる。
押し開かれた扉の向こうには……炎玲のよく知る、恩人の姿があった。
「い……炎玲ちゃん」
「! オバチャン……どうしたんだよ、その傷!?」
駆け寄る炎玲が、慌てて恩人の顔を見つめる。
処置はされているものの、酷い有様だ。片目が腫れて潰れかけ、頬や唇はいたるところに切り傷がある。
「なんで!? なんでこんなことに……」
「“クラップロイド”よ。そこのヤンさんを、襲ったらしいわ」
パニックに陥りかけた炎玲の背後から、カレンの声。
驚いたように振り向く炎玲は、まだ信じられないとでも言いたげな目だ。
「う、うそだ! やめてよカレン様! アイツがそんなこと……」
「……ほ、本当なんだよ、炎玲」
今度は、ヤンから声。
弾けるように振り返る炎玲。嘘であってほしいという願いが、涙になってその目に溜まっている。
そのせいで、カレンがヤンに対して飛ばした、恐るべき無感情の視線にも気付けない。
「昨日、屋台を引いてたら突然来て……い、“炎玲はどこだ”、“言わないと殺す”って。あ、アタシャ……怖くって、抵抗も……できずに……!」
「うそだ……うそだうそだうそだッ!! ねえ、うそだって言ってよ!! そんなのありえないよ!! だって、アタシ……あんなに、ずっと一緒に居たのに……!!」
「……炎玲。映像もあるの。ヤンさんが嘘をついているとは思えないわ」
小型の投映機で、“ソレ”を映し始めるカレン。
そこには確かに、クラップロイドがヤンさんの弁当屋台に押し入り、暴行を働く一部始終が映っている。
《炎玲はどこだ!?》
《ひ、ひいぃ! やめとくれ! 知らないんだ、知らないんだよぉ!!》
頭を掴み、カウンターに叩きつける映像。
煮立った湯に、腕をムリヤリ入れさせる映像。
《あの“生贄”を出せ。そうすれば助けてやる。お前だけは》
《ゆ、許しとくれ……本当にアタシャ、あ、あああああ!!》
《キメラセラムの! 適合体だ!! どこに! いる!!》
殴打。打擲。投げ倒し、掴み折り、腕を捻り指を叩き涙と絶叫と脅迫と暴力と……。
「もうやめて!!!」
涙声の、その叫びが響いた。
耳を塞ぎ、目からとめどない涙を溢れさせながら、炎玲がよろよろと壁にもたれかかる。
「あ……あ、あ。も、もうやめて……もう……やめてよお……いやだよお……」
そのまま、うずくまって啜り泣きはじめる炎玲。
彼女の脳裏に、自己防衛じみて、温かい言葉がいくつも浮かぶ。
(((お前には、お前だけの価値がある。生贄も、キメラセラムも、関係ない価値が)))
(((ずっと信じてる。人って、そこに居るだけで、信じられないほど価値があるんだって)))
(((お前も、俺に世界をくれたよ。こうして出会って、話して……お前の世界を、見せてくれた)))
それも、消えてゆく。冷たい針を突き立てられ、弾ける泡のように。
その肩に、そっと手を置くカレン。慈愛と、深い悲しみと、崇高な怒りに満ちた視線で、炎玲の小さな背を見つめる。
「……辛いわね。苦しいわね……でも、“クラップロイド”も、貴女を道具としてしか見てなかった……だから、こんなことを」
「だって……アイツ、みんなに価値があるって……なんでえ? なんで、アタシ……」
「……わからない? “生贄”“適合体”って……貴女を、利用するつもりだったの。最初から、“みんなの価値”なんて嘘」
ぴくりと、炎玲の背が震える。その涙で濡れそぼった顔が、上がる。
カレンは頷いた。完璧な、使命感に満ちた顔で。
「貴女を狙う勢力は、次々現れるわ。言ったでしょう? 貴女は、特別なの」
「……どう、すればいいの?」
「……ねえ、炎玲。貴女自身も自分を守れるようになって、生贄として適格になって……みんなを守れる。そんな手段が、ひとつだけあると思わない?」
映像の中では、一通りの暴力を振い終えた“クラップロイド”が、不随意の震えを押し殺していた。
◆
「よろしいのですか」
フードを被った影龍が、震えを抑え込みながら、背後から声をかける。
鼻歌まじりにワインボトルを開けていたカレンは、チラと振り向いた。
“アレ”から数分。部屋には、カレンと影龍以外に誰も居ない。
「いいのよ。今すぐ打たなくても、アレは必ず“アバターセラム”を打つわ」
「……それもありますが。“健診”への強襲に、同行させるなど」
「いいじゃない? たとえ炎玲が何もしなくても、共犯意識は植え付けられる。一度、他のヤツでやったでしょう?」
「……」
グラスに真紅の液体を注ぎ、香りを堪能するカレン。上機嫌だ……心底から、上機嫌。
その微笑みが、歪む。
「今日は気分がいいわ。親気取りの弁当屋の、化けの皮を剥がしてやった。炎玲も可哀想にねェ」
「……」
「貴女も、迫真の演技だったわよ? 褒めてあげる」
「ありがたいお言葉です」
演技。……言うまでもない。まだ影龍の両手には、ヤンを拷問した時の血がついている。
変身能力。カレンの懐刀たる影龍の異能を知る者は、あまりにも少ない。
……いや。
「傑作よ。あの弁当屋、わざわざ全部能力を明かしてやってもなお、自分可愛さに炎玲を地獄に突き落としたんだもの」
「……」
「だから人の善意なんて信じられないのよ。特に、家族の絆なんて。信じたヤツがバカなのよ……くっ、くくく」
ひとしきり笑ったあと、ふと真顔になった悪魔が振り向いた。
「……貴女も、油を売ってないで行きなさい。この“健診”での投薬実験は失敗できない。分かってるでしょう?」
「……御意に」
「ええ。信頼してるわ」
そのまま、じわりと影に溶けて消える暗殺者。
カレンはまた、笑いだした。狂気の笑いだった。
◆
「AWBのトミフシです! 一言お願いします! 今回の健診、どんなお気持ちで受けに来たのですか?」
「“イカロス”という単語を耳にしたことがありますか?」
「実際には“超人”をあぶりだすための、国の施策という話もあります! もし自分が“そう”診断されたら、どうですか?」
「一言!」「お願いします!」「インタビューさせてください!」
流れる人々の群れに、メディアたちが食らいつく。カメラとフラッシュに押されるように、人々は“校門”へ。
「もしもし。……ええ、吾輩です。……ええ。シュルツのことは、残念です。はい……」
アワナミ高校近く。多くの受診者がひしめく中、公衆電話ボックスに男がいた。
無精髭に、疲れ切った目。彼はどこか遠くを見ながら、受話器と会話を続ける。
「……はい。情報を入手しました。この健診が狙われるそうです。元ゲートとして、連絡を」
《……、……?》
「見返り? 要りません。ただ、ひとつお願いが。……“クラップロイド”は、見逃してやってほしい」
《……、……。……》
「……分かっております。吾輩の悪癖です……」
受話器の向こうの声は、あまり機嫌が良くなさそうだった。通話する男は、力なく返答するばかり。
「……はい。必ずや、紅龍堂を滅ぼします」
《……、……》
「はい。それでは」
受話器が、置かれる。四角いガラスの箱の中、その男は……直政は、曇天を見上げて笑った。
「……なあ、貴。すまんなぁ……信じたヤツが、バカを見るんだ……」
彼はまた、鼻をすすった。




