90-欠けたモノ(2)
涙も枯れた瞳で、窓から外を覗く少女がいた。
“無事に”帰ってきた彼女は、後悔ばかりが募る過去を夕暮れに見る。
理不尽だった。それでも、納得もしていた。
結局。自分を信じようとして、結果がコレなのだから——。
人の、価値なんてものは。
◆
「……いただきます」
「……」
夕飯時。リビングで、俺たちは静かな食卓を囲っていた。
席にはひとつ、空きがある。その空白が気になって、皆、あまり食事に身が入らないようだった。
「今日はホイコーロウか! ごほん、吾輩、実はこの料理にはちょっとした思い出があって……」
「……ごちそうさま」
「お、おぉ……わ、若いのに少食だな」
ムリをして話しはじめる、包帯まみれの直政。直後に炎玲が立ち去った。皿の中は、ほとんど減っていない。
白鳥は心配そうに、立ち去る炎玲の背を見つめる。だが、結局それを口に出すこともなく、食卓に向き直った。
「……今日は……皆、疲れている。そうだな」
「……そう、すね」
「無理もない。無理もないさ……」
すこし悲しげな目の直政に語りかけられ、力なく頷く。
篠原も、表情に翳りがある。その皿を箸でつつくだけで、一口も食べていない。
「……そ、それにしても、驚いた。アンタ、料理はイケる口だったんだな! 貴よ」
「えぇ。まあ。一人暮らしですし」
「わっはっは! 吾輩なんて家庭内別居でずーっと一人暮らしなのに、カップ麺暮らしよ……」
「……そういや、家族がいるんすよね。連絡とか、ちゃんとしてるんすか?」
疲れ切った笑顔の直政は、首を横に振る。
「まさか。……まさか、していない。こんな稼業に身を置いてからは、縁も切れた……」
「……そうすか」
「因果なものだ、貴。人を殺してまわって、守るのは結局他人。自分の身近なものから消えていく。これじゃ、吾輩……なんのために……いや、すまん」
その言葉が切れると、そのあとに続こうとする者は居なくなった。
結局、食器がときおりぶつかる音だけが、リビングを満たしていた。
◆
「……」
バンから降りた犬飼は、駐車場で白鳥 正一郎が待っているのを見た。
肩をすくめ、他隊員たちにうなずく。彼らはうなずき返し、署内へと入ってゆく。
正一郎は腕組みをしたまま、犬飼をジッと見つめていた。
「……報告外の出撃だ。トクタイじみたマネを」
「時間がなかったもので」
「真壁警視監も、報告されていなかったと言っている。……本当か」
「記録に無いのならそうなのでしょう」
手袋を外し、外套を脱ぎ、まとめて脇に抱える犬飼。彼は歩みを止めない。
正一郎と、すれ違う。
「……なぜ真壁の下についている」
「……」
「ヤツの動きは明らかにおかしい。キミも分かっているはずだ」
「……大事の前の小事。そんなことより、あなたはご自身の娘さんのことを心配なさった方がいい……ああして何度も現場に来られては、庇いきれませんよ」
くい、とメガネを上げる犬飼。
目の前、誰もいない駐車場を睨む正一郎。
足音が、去ってゆく。
◆
「堂本くん。炎玲がいないわ」
そう言われて、物思いに沈んでいた俺は目を上げた。
そこには、蒼白な顔の白鳥と、緊迫した表情の篠原が立っている。
「いないって……」
「言葉通りよ。家のどこにもいないの」
「け、携帯とかも……持ってない。位置情報も、わかんない」
「……」
炎玲。ずっと思い詰めた顔をしていた。まさか……。
嫌な想像をしてしまい、反射的に立ち上がる。なにも考えてすらいないのに。
「わ……わかった。手分けして探すぞ」
「ええ。でも、どこに……」
「たぶん、リトルチャイナだ。アイツの故郷だから」
「もう、放っておいた方がいいんじゃないか」
そんな声が、聞こえた。
直政だ。椅子に座ったまま、ぼうっと“空席”を見ている。
それが信じられなくて、思わず詰め寄る。
「何言ってんだよ……放っておいていいわけないだろ」
「あの子が望むか? ここに戻ることを。……吾輩は、そうは思えんよ」
「そんなわけ……」
「ないと言い切れるのか、貴。ならなぜ、あの子は出て行った?」
やっと、直政がこちらを見る。……この人が重ねてきた“人生”の疲れが、顔に出ていた。
「なあ、貴。ムリだ。あの子は“フォールン”で……連中が崇拝する神を追って、シュルツは死んだ」
「……そんな……」
「最初からムリだったんだ。共存など……吾輩も、信じたかったが」
「じゃあ、シュルツがあの子を助けようとしたのもムダだったのかよ!!」
その言いぐさに、カッときて机を殴ってしまう。
皿が浮き、騒音が過ぎ去る。それでも、俺の頭の中はグルグルしていた。まとまらなかった。
「アイツがナイフを教えて……頭を撫でてッ……ほんの少しの間、一緒にいたことも!!」
「……」
「……全部ムダなら、俺たち、なんのために……!」
「……」
直政は何も言わずに、俯いている。俺も、言葉が続かない。
続けたら、信じてきたモノが、壊れてしまいそうな気がしたから。
「……俺たちは行くよ。直政さんは、好きにしてくれ」
「……すまんなぁ」
背を向け、白鳥と篠原を連れて玄関から出てゆく。
背後から、鼻をすするような音が聞こえた。
◆
夕暮れるリトルチャイナを、あてもなく歩き回る影があった。
観光客に混じって、背丈の低い彼女はブラブラとさまよう。
燃えるような赤毛。炎玲だ。喧騒に混じることを心地よさそうに、歩いて、回る。
ここに来たのも、大した理由ではなかった。ただ、心の整理をつけたい時、彼女はしばしばこうしていただけ。
そのうち、見覚えのあるベンチを見つけて、彼女はそこに腰掛けた。堂本と仲直りした場所だ。
(((お前は、お前なだけで価値があるんだ)))
「へへ。うそつき」
炎玲は分かっていた。あんなの、うそだ。
人は、人であるだけで価値なんてない。
もしそうなら、なんでシュルツは居なくなった?
(((人は! 守るものができたら弱くなる……! ガキを抱えた、お前の落ち度!!)))
((笑えるなぁ。繰り返しだ……))
(……ごめん、無理だ……)
なんで。
そんなの分かりきってる。それが、あの心地よい家に居られなくなった理由なのだから。
「大丈夫? お隣、いいかしら」
「あ……ああ、ゴメンナサイ。大丈夫だよ」
ベンチを空けて、端に寄る炎玲。そこに、日傘をさした女性が座った。
シルクのロンググローブが、夕日に光る。覗くパールのイヤリングに、炎玲はポケーっと見惚れてしまう。
「……小さいのに、ひとりなの?」
「え? う、うーん……ひとりっていうか。まあ、今はひとりだぞ……です」
「そう。親御さんは?」
「そ、そんなの居ないよ。へへ」
誤魔化すように笑う炎玲。女性は日傘を傾け、そのグロスを塗った唇を見せる。
「なんて可哀想に……あなたはどこの子?」
「え……こ、この辺、だけど……」
「この辺りの子? ……それなのに、こんなところでひとりなんて。私が居ながら、ひどい話だわ……」
「えっ……と。お、お姉さん、誰だ……ですか?」
「……ふふ。もしかしたら、知らないかも?」
日傘が、傾ききる。その優しげな微笑が、あらわになった。
炎玲は目を見開く。テレビや雑誌で見慣れたその顔……! 雲上人のような、憧れの対象。
「か、カレン様!?」
「こんにちは。……私の可愛い子」
驚きと憧憬に流され、思わず立ち上がってしまう少女。それを見て、ニッコリと笑うカレン。
ひとつ外れた通りでは、堂本たちが必死に炎玲を探していた。