58-
終わった。
断末魔のような、憎悪の叫びと共に閉じゆく上空の裂け目。
グッタリと力失せた大蛇が、人間に戻り始める。ヴェニーノへと。
辺り一面で散る火花。甲板の一部は炎上している。
動く者はいない。やったのだ。脱力して、膝をつく。
(オイルエンプティ。オイルエンプティ。給油してください)
『あぁ……ガソリン探して……飲まねえと』
重力が倍増したような感覚。回る毒、残るダメージも手伝って、全身にのしかかるような疲労感。
コレが勝利なら、ずいぶん余裕のないものだ。
「……く、クク。やって、くれたぜ」
徐々に狭くなる“裂け目”を見上げ、腹部から血を滲ませるヴェニーノが呟く。
その顔の鱗が、引いてゆく。人間に戻りゆく。
「これで、万策尽きた。ただの、武器の密輸に……ムキになって、かかってきやがって……」
『……それは、お互い様だろ。武器の密輸に、あんなもの、出しやがって』
「は、ハッハッハ……あぁ。これが……失敗か。手痛い、経験だなァ……」
ヴェニーノは痛快に笑う。
恨みの響きは、カケラもなかった。
「……お前の……ドクターを殺したことは、後悔してねえぜ。人を喰って、成り上がる。それが、人間だ……怪物じゃない、人間の業さ……」
『……』
「弱い奴が、強い奴に敗れ……そして死ぬ。素晴らしいことだ……そうやって、勝利を重ね続けられることこそが、“価値”。俺の価値が、お前の価値に……及ばなかった、だけのこと」
プロペラ音が、降りてくる。報道ヘリが、律儀に迎えに来てくれている。
垂らされるロープラダー。近くに展開されたソレを感じながら、俺は動けないでいた。
プロペラ音。サーチライト。照り返す血。
その時、タンカーが大きく揺れた。
散々打ち据えられた船体が限界に達したのか。いや、違う。
奇妙な揺れだった。まるで巨大な……手が。掴んで、揺すっているような。
『これは……!?』
「……“クァーラ様”は、失敗を許さない」
ヴェニーノは落ち着いていた。己の結末を知っている目だ。最後の晩餐を済ませた死刑囚に似て。
ガ、ゴン。船体が、折れた。ヴェニーノと俺の間の甲板が、引き裂かれてゆく。
「あばよクラップロイド。テメェのくだらねえ足掻き……あの世で見ててやるとするぜ」
『……!』
タンカーの半分が、海に飲まれてゆく。ヴェニーノが見えなくなる。
最後まで、腹立たしいほどの笑み。それすら、沈む。
「ちょっとアンタ! 早く乗れっての! 呑まれるわよ、渦潮に!」
タンカーを飲み込む海は、巨大な渦を描く。蛇の口じみたそこに、ヴェニーノを乗せた船の切れ端が沈んでゆく。
ヘリから絶叫。オイル切れの表示。
俺は。
俺は、駆け出した。鉛じみて重い足を動かし、切れ落ちたタンカーの端めがけて!
「何やってんの……やめなさいバカな真似は!! 戻ってきなさい!!!」
トミフシさんの声。だが俺は止まれなかった。
揺れる甲板を蹴り、渦潮の中へと!!
一瞬、巨大な手のようなものが見えた。
それは海中から海面に伸び、タンカーを一掴みにしようとしているようだった。
すぐにその幻は去った。海に叩きつけられるように潜り、音の遠い世界へ放り込まれる。
降り注ぐ破片が、気泡をまとう。海底へと引きずり込まれるタンカー。
その先に、見えた。ゆっくりと、闇の中に消えてゆくヴェニーノ。
血がたなびく海中を、手足をばたつかせて必死に進む。破片をあやうく躱し、コンテナを力無く蹴り、その手を掴む。
ヴェニーノの目が、ゆっくりと見開かれた。最初に驚愕が。次に困惑が。最後に、笑いが現れる。
そんな奴を肩に担ぎ、海面へ上がろうと、感覚の失われ始めた足でもがく。
ただ、癪だった。こんなやつの価値観通りにことが運ぶのは。
クァーラだろうが、イグだろうが、その目論見通りに人が死ぬのは。
俺は、負けたくなかった。ただ、それだけの話だった。
海底から、地響きのような怒りの声がのぼってくる。骨の髄を震わせ、肺を麻痺させるその憤怒。
海中の様相が、一変する。潮のうねりが、意志を持ったように暴れ出す。まるで巨大な存在がのたうつたび、海流が俺たちを引き込もうとするようだ。
ヴェニーノが、俺を突き放そうとしている。それがいかなる感情に由来する行動か、推しはかることなどできない。する暇もない。
だから俺は、余計にしっかりとやつを抱えた。意地のまま。
やめろ、このクソ悪党野郎。最後まで生き汚くあれ。せっかく助けようとしてるんだ。あんなやつに、殺されるんじゃない。
手を伸ばす! もがきながら、渦を裂き、海面を……突き破り……そこ、までだった。
海流が一際強まり、オイル切れの手足が麻痺してゆく。
水が凍てついた鉛のように、全身を絡め取り、沈めようとする。
毒が回る。
戻るべき理由たちが、朦朧としてゆく。
篠原の涙。
白鳥の心配そうな声。
鉄巻さんの叫び。
島善さんの励まし。
どれもが。霞んでゆく。
誰にも届かない謝罪すら、ほんの小さな泡となって消える。
視界の端から、暗闇が、忍び寄る。
突き出た手首も、やがて波に飲まれかけ――その瞬間。
何かを、掴んだ。
それは、ロープラダー。
顔を上げれば、海面を切り裂く、サーチライトの白い光。
海中で、俺は笑った。
結局、あれだけカッコつけて。
俺たちを救ってくれたのは、毎日を必死に生きる人々だったのだ。