3-“俺”と、周囲について。(2)
直帰、ではない。学校から出た俺が向かうのは、とあるマンションだ。
群れなす高級住宅の中にあって、ますます大きなタワー。塀に囲まれたそこに、一歩入れば外の音など聞こえない。
噴水や木々のあわいを歩き、エントランスに入る。居心地が悪くなるほど快適なカーペットに、磨き抜かれて輝く大理石の壁。帰りたい。
「すみません、608号室の篠原さんに……」
「プリントですね。承りました。少々お待ちください」
受付の守衛さんに話すと、やわらかな物腰で対応される。この人とも顔馴染みだ。
数秒の電話。すぐに彼は顔をこちらに向けた。
「どうぞ、左手のエレベーターをご利用ください」
「どうも……」
淡い光が溢れるエレベーターに乗ると、静かにドアが閉じ、重力がそっとあらわれる。誰もいないのに、咳払いすら躊躇いそうだ。
やがて、扉が開く。廊下を挟むことなく、すでに玄関だった。
広々とした空間は、まだ玄関だというのに俺の家よりデカい。段差のようなものもなく、ただ、靴を脱ぐスペースが示されるのみ。
「すみませーん。堂本です。プリント届けに来ました」
「はーい。少し待ってください」
奥から返答。少しして、笑顔の女性が顔を出した。
「こんにちは、堂本くん。今日も来てくれてありがとう」
「いえ、プリント届けに来ただけですし……」
「ごめんなさい、ナコなら自分の部屋にいるから。私、急に仕事に呼ばれちゃって……」
「お構いなく。ちょっと話したら帰ります」
彼女に促されるままに入室し、なにやらよく分からん高級木材の廊下を歩く。しゃらくさい暖色の間接光は、計算され尽くしたぬくもりを感じさせる。
「ナコー! 私、仕事に出るから! 少しお留守番お願いね! お父さんも今夜は帰れないから、ご飯は自分でなにかとって!」
「大変すね……」
「いつものことよ。じゃあ堂本くん、また」
声を張り上げ、篠原のママはバタバタと準備に入ってしまった。個室のドアが閉まったとたん、静けさが満ちる。
ため息をつき、俺はまた奥を目指す。キャビネットや絵を見るともなく見ながら、とうとう目的地に着いた。
プレートが打ち込まれたドアの前。『ナコ』……それが、この部屋の主の名前だ。ためらったのち、ノックする。
「おーい。俺だ。プリント届けに来た」
「……」
反応なし。聞いてないなこれ。またヘッドホンに爆音でメタル流してんだろ。
咳払いし、今度は半分叫ぶような声を出す。
「おーい! 篠原ー! 俺!」
大阪やはよ開けんかいゴラ! とは言わないが、結構な強さでドンドンと戸を叩く。
数秒後、ドア越しでもわかるほどに中が慌ただしくなった。直後に、かちゃりと扉が開かれる。
「ど、堂本……きてたんだ」
「来てたよ。お前の母さんと合わせて三度も呼んだからな」
顔を覗かせたのは、セミショートの女子だった。深い茶色の瞳を忙しく左右させて、最後に俺の顔を見る。おびえすぎだろ。
「これ、プリント。有志の企業見学のやつと、生徒会の寄せ書き」
「う、うぐっ……前半のだけでいい。寄せ書きなんてヤギの餌直行便……」
「だろうな。捨てるなら自分で捨てろよ」
嫌そうな表情になりつつ、篠原はそれを受け取った。こんなのを届けても、ちっとも出て来ないんだから意味がない。
篠原 ナコ。俺の、元クラスメイト。不登校で、引きこもりだ。1年前までは才媛で通ってたし、正義感の強さから『次期生徒会長』として見込まれていた。
それが今じゃこうなんだから、何があるかなんて分からないものだ。
「は、入ってく……? 新しいゲーム、あるし」
「あぁ……まあ今日はバイトもないし、やっていこうかな」
「やった」
ガッツポーズの後、ドアが大きく開かれる。そして、雑然とした部屋に通された。
壁一面のポスターに、ベッドの上のキャラクッション。デスクトップPCには、5本の指じゃ足りないほどのモニタが付属している。
床のスナック袋が絨毯を隠してしまっているし、棚のフィギュアはアートパネルを見せない構図。
高級感あふれる外と、隔絶された王国だ。
「堂本は、そっちのコントローラーだから」
「へいへい。今度はなんだよ、格ゲー?」
「へへ、違うよ。FPS」
「あ、これ新作出たのか。前めちゃくちゃ炎上してたけど」
「うん。でも制作陣が一新されて、システムが完全新規になったから……」
こうしてゲームをしてたりする内は、コイツは饒舌になる。たぶん、余計なことを考えなくて済むのが楽なんだろうな。
篠原だって、最初からこうじゃなかった。一年前、まだ俺たちがクラスメイトだった頃は、もっとハキハキ喋っていた。
俺も、親なしで不利な状況を助けられてからはよくつるんだ。一緒に馬鹿をやって、一緒に人を助ける。気持ちのいいことだった。
だが、俺たちはラインを超えた。鮫島グループのイジメを止めようとしたのだ。
やつは、弱者に歯向かわれたと感じた。そしてその報復は、苛烈だった。イジメの切先は俺たちに変わり、日々が地獄のドン底に落ちた。
教師への告げ口は効果を見せなかった。事態はむしろ悪化した。誰かの親が弁護士だとかで、すべてもみ消された。
そして篠原は、自分が助けようとした生徒がイジメの輪に居るのを見た時、心が折れてしまったのだ。
「やった! 倒せた!」
「ヘッショが通用しないのは見抜けなかったわ……てか結構いい時間だし」
「へへ、2人じゃなきゃキツかった……!」
無邪気な笑顔のナコを見れば、俺も自然と笑みが浮かぶ。そうだ、俺が心配してもしょうがないのだ。コイツにしたって、全ての可能性が絶たれたわけじゃない。
「悪い、そろそろ帰らないと。飯の用意もあるし」
「えっ。も、もっと居ればいいじゃん……」
「炊飯器の予約スイッチいれてんだよ。宿題だってあるし」
「……」
そのデカい目で見られたらなんか悪いことしてる気になってくるんだよね。やめてね。
仕方ないので、ため息混じりに口を開く。
「また来るよ。企業見学を適当に終わらせりゃ、半日は空くしな」
「えっ……や、約束! クラリス・コーポレーションのは長いからダメ!」
「はいはい、約束な。コーポレーションには行かない……てか、お呼びじゃないだろ向こうも」
「ま、まって。行くから」
部屋を出ても、ナコはついてきた。
廊下を歩く間中、何か言いたそうにチラチラとコチラを見ていた。
結局、俺がバカでかい玄関から出るまで、コイツは無言で見送った。たぶん「やっぱりもうちょっと居たいな」待ちだろアレ。
◆
「ただいま」
長い長い旅路を経て、ようやく俺は帰宅した。
なんにもない土間で靴を脱ぎ、真っ暗な玄関の明かりをつける。
きしむ廊下を歩いて、蒸気の噴き出る炊飯器の横のソファに沈む。クセでつけたテレビは、静寂を余計に強調していた。
親はいない。親族もいない。思い出の写真ひとつだって、どこにもない。埃を被った家具が、その辺にあるだけ。
きっと、人の心配なんて、してる場合じゃないんだろうな。
篠原の部屋よりも狭いはずなのに、やけに広く感じられるその空間。
死体のように天井を見上げる俺の横で、テレビが情報を吐き出し続けていた。
『――また市警の捜査関係者は、検査結果から“ブラッドフォグ”の成分が検出されたとしています。この新型ドラッグと相次ぐ暴行事件の関連性については、……』