遡行
「あー! ああー! あ、ああぁぁ……」
男は大声を上げて地面に膝をついた。それを見た周りの人々は、察したのか気の毒そうな表情を浮かべたり、笑いを堪えたりした後、再び燃え盛る炎のほうに目を向けた。
そう今宵、炎が月を挑発するかのように夜空に向かって手を振っていた。
火事が起きたのだ。それも大火事だ。自宅アパート一棟を丸々焼き尽くす勢いのその火事を目にした彼がその場で項垂れるのは当然のこと。
仕事を終え帰宅途中、進行方向から聞こえるサイレンの音、自宅アパートに近づくにつれて強まる匂い、人の話し声。まさか、いや、そんなことがあるわけが……と思いつつも、震える足は歩を速め、気づかぬうちに走り出していた。そして、アパートの前で立ち止まった彼は、自分がテレビのニュースで報じられるような事件とは無縁の人生などというのは幻想だと悟った。
――終わった。
彼は口をだらしなく開けたまま、夜空を見上げた。汚泥を混ぜたような脳みそは今、損失を計算している。
クレジットカード類はズボンのポケットの中の財布に入っている。しかし、いくらか置いてある現金はともかくとして、大事なコレクションが今、あの炎の肥しとなっている。さらに、これからの面倒事を考えると、彼の頭は次第にぼんやりとしてきた。失火か放火か誰の仕業か責任がどこにあるかなんてことはどうでもよかった。一足早く灰になった彼の中に湧き上がった感情は怒りではなく、ただただ未練だった。ああ、どうか――
「どうか、時間を戻してください……」
瞳に映る流れ星。それに願いをかければ叶うというのは、もちろんただの迷信。
しかし、遥か昔からこの現代まで言い伝えられているからには、何か根拠があったからかもしれない。願いが叶ったという事実が。それがたとえ神の気まぐれであっても。
――えっ、ここは……俺の部屋?
奇跡が起きた。彼の時間が巻き戻ったのだ。その願い通り、彼は部屋のベッドの上にいる状態に戻った。煌々と輝く光景に彼は目を細め、手を伸ばした。
ただ、戻ったのは彼の時間だけであった。
燃え盛るアパートの部屋の中で、彼はもう声を出すことすらできず、運命に平伏したのだった。