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ヒーターアップ!

作者: jima

「陽射しはあるけれど、だいぶ寒くなってきたね」

日曜のある朝、僕はリビングの窓辺のソファで読書中の妻に向かって声をかけた。

師走の始まり、寒い朝だが大きな全面窓からは柔らかな陽が射している。


「そうね。12月の初旬という感じね」

妻は感想とはいえない只の事実を口にした。読書に夢中な証拠だ。

僕はというとリビングの奥のワーキングデスクで会社から持ち帰った仕事をこなしている。日の当たらないこの場所だと少しだけ肌寒さを感じる。


僕は立ち上がって部屋の中央にあるガスヒーターのスイッチを入れた。

昨年の冬、二人で話し合って購入したヒーターだ。うちにはエアコンも石油ファンヒーターもあるじゃないかと及び腰で消極的な反対票を投じたが、結局与党に押し切られた。まあ、確かにエアコンよりも温まるのが早いし、足下に温風が出るのも嬉しい。何より灯油を買いに行く習慣から解放されたのはありがたい。

「ボッ」と音がしてすぐに暖かい風が出てきた。



「そういえば」

しばらくして妻が文庫本から顔をあげ、僕の方を向いた。

「イッくんの結婚式は来週じゃなかったかしら」

妻は僕の兄の息子、つまり甥の名前を出して確認した。


「うん。そうだ。来週の土曜日になるかな」

僕はカレンダーを見ながら答えた。

妻は文庫本をテーブルに置いて、リビングの壁に貼ってある大きなカレンダーの近くまで歩く。

それから日付を確認してボールペンで『イッくん結婚式』と書き入れる。


「礼服はクリーニングに出してあるの?」

妻がそう言いながら、さりげなくヒーターのスイッチをオフにしてソファへ戻る。


「どうだったかな。ちょっと確かめて見るよ」

僕はプレゼン資料の制作を中断して寝室のクローゼットまで確認に行った。


 部屋へ戻るとまた少し寒くなってきたような気がする。

「大丈夫だ。この間のサエちゃんの結婚式の後、クリーニングにそのまま出した」

僕はそう言って再びヒーターのスイッチを入れてからデスクへ戻った。


「そう。あなたにしては要領が良かったわね」

妻は文庫本に栞を挟み込んで、また立ち上がる。僕の手はPCのキーボードの上だが、眼は妻を追っている。

妻はいったん台所に姿を消し、数分後にコーヒーカップを手に戻ってきた。

ヒーターの前で立ち止まり、コーヒーを一口啜ってからスイッチをオフにする。

それからまたソファで文庫本を開き、「ハア」と美味しそうに息を吐いた。

「ハア」じゃないよ。


「僕もコーヒーを飲もう」

僕はすっかり中断した仕事はそのままに、わざとらしく声に出して立ち上がる。

台所へ行って自分のカップを手に取り、インスタントコーヒーを入れた。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

インスタントで充分だ。コーヒーメーカーの購入が妻に却下されたから悔し紛れに言っているわけではない。

カップを持ったままリビングに行き、カレンダーの側で立ち止まった。

それからボールペンで『イッくん結婚式』の横に『15:30集合』と書き加える。

さらに横へじわりと移動してヒーターのスイッチを入れた。ついでに設定温度も1度高くしてやった。フン。

「式の当日、君はアルコールはどうする」


先ほどから妻も文庫本を読んでいる振りをしながら、僕の動きをチラチラと追っているのがわかった。

「私は少しだけお酒をいただこうと思っているわ。あなたは?」

妻は読んでいない文庫本を一ページめくって僕に尋ねる。


「車で行きたいから止めておくよ。君は飲んでも大丈夫だ」

僕のプレゼン資料も『第1章 このプロジェクトの社会的な意義』から一歩も進んでいない。新しいカップ麺に社会的意義なんてあるわけないけれど。


「でも寒くなってきたし、お酒を飲むと風邪を引きそうな気がするわ」

飲酒すると身体が暑くなるのか、上着を羽織わなくなる自分の姿を想像したらしい。


「暖かい格好をしていくといいね。まあ、君は暑さや寒さを感じにくいタフな体質らしくて羨ましいけどね」

僕が言うと、妻の眉がピクリと動いた。僕はあさっての方向を向いて知らんふりをした。


妻が立ち上がったので僕はあからさまに顔をあげて注目する。

「ありがとう。あなたはいい旦那さんね」

妻はにっこりと笑って文庫本をテーブルに置いた。

「暑いだの寒いだのメンドくさい…いいえ、センシティブなところも魅力的よ。ホホホホ」

…「メンドくさい」って言ったな。


それから彼女はゆっくりとヒーターの近くに進んで、僕の方に人差し指を向ける。

何の真似かと思ったらその指を大きく天井に向け、それからこれ見よがしにヒーターのスイッチをオフにした。

「いい陽射しだわ。ウフフフ」

何がウフフフフだ。寒いじゃないか。


僕も顔の引き攣りを隠しながらニコニコ笑う。

「君は夏のエアコンが嫌いだし、冬のヒーターも好きではない。本当に経済的だね。君のようなエコな奥さんをもらって幸せだよ。妻DGs(スマディジーズ)だ」


妻は一瞬無表情になってから、またにこやかに微笑んだ。

「意味がわからないけど褒めていることにしておくわ。あなたこそこれからS旦那Gs(エスディンナジーズ)になれるように頑張りなさいね」

二人で顔を見合わせて「ハハハハ」「オホホホホ」と笑い合う。

お互い同じくらい意味不明で不毛だ。


まだヒーターの近くに立っている妻の側に僕も歩む。正面から妻の眼を見てニヤリと笑ってやった。

そして設定温度をさらに2度あげてスイッチを目の前でオンにした。

「ご祝儀の準備はまかせていいだろうか」


彼女は僕が設定温度をいじるのを見てほんの少し眉をひそめたが、ニコリと笑って答える。

「大丈夫。もう包んでバッグに入れておいたわ」

そう言いながらスイッチをオフにし、さらにコンセントを引き抜いた。

「いつもどおりの額でいいわよね」


さすがにコンセントを引き抜くとは思っていなかったので驚き、表情に出たかもしれない。何て女だ。

それでも僕は穏やかに会話を続ける。

「本当は少し倹約したいところだけれど、他の兄弟よりも減らせないからね。ご祝儀も暖房も高めの設定が間違いない」

そう言いながら身体を低くし、コンセントを入れつつヒーターをオンにする。さらにカウンターの上にあるエアコンのコントローラーをいじって、こちらの暖房も設定30度で作動させた。


妻はそれを見て、ウフフフと笑いながらソファに戻る。あきらめたのだろうか。

しかしやりすぎた。

これはさすがに暖かすぎる。いや、暑いくらいだ。しかし引っ込みがつかない僕もデスクに戻り仕事のふりを始めた。



「爽やかな天気ね。いい結婚式になるといいわ」

妻が楽しそうに笑って大きな窓をガッと全開にした。冬の冷たい風がひゅうとリビングに流れ込む。

もはや暑いんだか寒いんだかよくわからない。


「まったくだ。甥や姪がどんどん結婚するのはめでたいが懐には厳しい。自分のところの息子殿はまだまだ気配がないけれど」

息が白いのに汗ばむ。僕はコーヒーカップで手を温めながら、ほてった顔は外気で冷やす。


「そうね。でもこんな時代よ。一人で生きていく選択肢があっても全然いいと思うわ。暑いも寒いも自分の責任よ」

何を言ってんだ。

妻も震えながら足をヒーターの方に向け、額の汗はハンドタオルで拭う。

それから次の瞬間、読んでいた文庫本を僕の方に勢いよく投げつける。

「ホホホホホ。ご免なさい。あんまり風が爽やかなんで手が滑ったわ」


顔に文庫本をぶつけられ、はずみでコーヒーが資料にこぼれた。何ということを。

「…ハハハ。気にしなくていいよ。最近の文庫本はよく滑るらしいね。司馬遼太郎先生もそんなことを」

僕はゆっくりとソファに向かい、本を妻の背後から丁寧に返した。同時にデスク下の日陰に放置してあって、よく冷えたスマホを彼女の首筋の後ろに当ててやった。


「ひゅう」

妻が声にならない声をあげてソファから立ち上がる。

「ごめんよ。手が滑った。あんまり陽射しが穏やかで手が滑った。ぷっ」

僕は笑いを堪えつつ窓を閉めた。


「…ふーん。なるほどね。そういうことね。わかりました」

妻が立ち上がった。僕はまだ笑いを噛みしめながら妻を見て、そして息を吞んだ。目が据わっている。

これはヤバい。やりすぎたようだ。

僕は慌ててエアコンとヒーターのスイッチをオフにし、それからリビングから退散する方向にじりじりと後ずさる。


オホホホホホホと妻が笑いながら台所に向かっていった。僕の方は見ようともしない。

怖いにも程がある。

キッチンからガス湯沸かしの「シュボッ」「ゴーッ」「ガボガボガボ」という音が聞こえてきた。

これは妻が熱湯を作ってボウルに溜めている音である。きっと多分。

アホな。ぶっかけられたら大やけどだ。


僕は台所に走り込みスライディングするように土下座した。

「申し訳ございませんでしたったった。今後ヒーターやエアコンのオンオフ権はすべて君に有するということでいいと思いますです。そうだ、今日の昼ご飯は僕が作る。いや、作らせていただきまっす。何がいい?」


妻は湧かした熱湯をシンクに半分ほどこぼして微笑む。

「あらそうなの?ペヤングでも食べようと思ってお湯を沸かしたのだけれど」

ペヤング食べるのにバケツ一杯の熱湯が必要なもんか。

それでも僕はホッとして立ち上がる。


妻がいつも通り微笑んでいる。

ただし微笑んでいるはずの妻の眼がちっとも笑っていない。

「昼はペヤングでもいいから、夜は少し贅沢しようかしら」


「何でも言ってくれ」

僕は眼を合わせず小声で言った。


「まず窓を開け放して」


「冬の夜にそれは少し寒くないか」


「コタツを出して、お鍋にしましょう」

 妻が買い物のメモを書き始める。これを買ってこいという指示書きだ。

「そのうえでキンキンに冷やしたビールを飲みながら、熱々のおでんを食べることにするわ」


…それは最高かもだ。

「熱いのと冷たいのと…僕と君の相性のようだな。それでいいバランスがとれるという…」


僕が言いかけると妻は真顔になって低い声で遮った。

「いいこと言った感じででまとめようとしているのでしょうけど」

それからまたすぐ穏やかないつもの顔に戻る。

「場合によっては熱々のおでんの用途が変わってくるわよ」


「買い物に行ってくるよ」

僕は指示書を受け取りながら決意した。

もうヒーターのスイッチには一切触らない。





読んでいただきありがとうございました。

33%は実話で、33%実話をアレンジし、33%がフィクションです。

またも身と魂を削りました。

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