友達
家に着く頃には、すっかり日は暮れ、宵闇に空気が澱んでいた。電灯も点けず、私はまっすぐにキッチンへ向かった。紫亜と大声で歌った喉は枯れて乾き、疲弊している。けれど水で潤す気にもなれず、私は冷蔵庫を開けた。
白い箱の、橙の淡い光の中に、汐屋がくれたプリンが鎮座する。プリンの蓋の上にのって、すっかり冷えたビニールのスプーンも一緒に取りだす。
「……汐屋の、馬鹿」
私は冷蔵庫の扉を閉めることさえできず、そのまま床にしゃがみ込んだ。縋るように、冷たい冷蔵庫に背を預け、膝の上で包装からスプーンを取りだし、プリンの蓋を剥がす。
小さな容器の中は、白い海だった。雪白の水面にスプーンを差し入れ、柔らかな氷山を掬い取る。白いプリンの上から純白のクリームが垂れる。
「汐屋なんか、嫌い」
私は呟き、スプーンを口に運んだ。口内に冷たくなめらかな触感と、もったりとした甘さがひろがる。歯の表面と舌で押し潰すだけで溶けていく脆さ。唾液と混ざり合う過剰な甘さが胸に苦しくて、でもどこか懐かしくて心が安らいだ。
「美味しー」
へらりと笑い、冷蔵庫から漏れる光と冷気を頭に浴びる。私は疲れた喉を労わるように、ゆっくりとプリンを食べ進めた。ようやく底が見えると酷く安堵して、反面、言いようのない後悔を覚える。
空になった容器を両足の間に置き、私はプリーツスカートのポケットからスマートフォンを取りだした。暗い画面に表情の滑り落ちた真顔が映り、掻き消すようにロックを解除する。
メッセージアプリを開き、汐屋のアカウントを呼び出した。ぼやける脳が、深く考え込まないように通話ボタンを押す。
呼び出し音が五回鳴って、次で最後にしようと思っていると応答があった。
『……どうしたの』
低い問いかけがスピーカーから流れ、私は目を瞠った。
「何で、電話出たの?」
『かけてきた人が、それ聞く?』
「だって、絶対に無視されると思った」
機械音の沈黙が流れ、汐屋が小さく息を吸い込む音が聞こえた。
『……高崎さんは、もしかして俺のことを必要としてるの』
「何それ。好きだって言ったじゃん」
スピーカーから汐屋の吐息を模した掠れたノイズが響く。
『俺は、高崎さんのことを信用していなかったのかもしれない』
「……怒ってないよ」
努めて険のないように、丁寧に優しい声音で言う。
「汐屋の信用を損なったのは、私なんでしょ」
『違う、と思う』
たどたどしい声が、私の鼓膜を揺らす。
『俺は、高崎さんのことを人間だと思っていなかった』
「知ってる」
汐屋が私を神様にした。全ての始まりがそこだったのだ。
『遠くから見る高崎さんは俺には神々しくて、俺なんかが釣り合うわけないと思うから、信仰という形で弱い部分を高崎さんに明け渡して、心の均衡を保っていたんだ』
「もう、私が人間に見えるから電話に出たの? それとも私のこと、本当に嫌いになった?」
尋ねる言葉が震えた。後者なら、私は今度こそもう、汐屋に関われない。
端末越しに、汐屋の周囲の空気が揺らいだ。静かに吐かれた息は、笑いのようだった。
『嫌いなら、電話に出ないでしょ。……高崎さんを拒絶した時点で、俺は偶像を守るのに必死で、信仰を裏切っていたんだ』
私は両足に力を込め、立ち上がった。冷蔵庫の扉をようやく閉じ、そして瞼も閉じると完全な暗闇が訪れる。視覚を捨て、汐屋の声に耳を澄ませる。
『俺は高崎さんに勝手な信仰を託して、高崎さん自身を信じなかった。高崎さんを否定し、拒絶した。本当に、ごめん』
私は暗黒の視界が潤み、緩むのを感じた。頬の内側を噛み締め、言う。
「いいの。傷つけたのは、お互い様でしょ。私も汐屋の誠実な部分を踏み躙った。私のことも、許してくれる?」
『俺は気にしてないよ』
「そっか、ありがと」
深く息を吸い込む。暗く、生ぬるい空気で肺を満たした。
「汐屋は、人間の私と向き合う覚悟ができたの……?」
一瞬の逡巡。言葉を澱ませ、汐屋は声を絞りだした。
『高崎さんが望むなら、高崎さんを対等な存在だと思えるように努力したい』
それは――言いかけ、私は口を噤んだ。私が震わせた空気に気づかず、汐屋がきっぱりと言葉を発する。
『だから高崎さん、俺と友達になってください』
思わず、私は噴きだした。目を開け、腹を抱えて笑い声を跳ねさせる。
「変なの、汐屋」
笑顔に涙が滲む。付き合ってはくれないんだね、という恨み言を飲み込む。汐屋は神様の私が好きなだけで、生身の私が好きなわけじゃないという事実が重く腹部に沈み込む。
それでも汐屋は神様を捨てた。私のために。今はそれだけで十分だった。
「私、頑張るね」
唇を引き結ぶ。私は今、汐屋から信頼を手渡された。生まれたばかりで脆く柔いそれを取り落とさないように、握り潰さないようにしなければならない。
そしてできれば――汐屋に好きになってもらえる自分になりたい。
かすかに笑う、まろやかな振動がスピーカーから流れる。
『そんなのいいよ。友達付き合いを頑張るのって変だろ』
友達以上になりたいからに決まってるじゃん。
私は唇を合わせ、繋ぎ目を舌でなぞった。粘膜のとろりと甘い味がする。
夜闇に慣れた瞳は、窓から差し込む仄かな光を捉え、部屋の中の輪郭を浮かび上がらせた。淡い光の粒を水晶体から逃がさないように、私は瞼で蓋をした。
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