侵食
カーテンを透過した光が瞼の血管の赤を滲ませ、目を覚ました。毛布を剥いで体を起こせば、脱皮をしたように体調がよくなっていて、安堵と失望が胸に尾を引く。
朝の支度を済ませ家から出ると、鋭い日差しが作りだす明暗の落差があまりに激しくて、私は道端の陰翳に逃げるように身を寄せた。それでも影は狭く、半身が容赦なく日に焼かれる。
せめて、雲が太陽を隠して欲しい。
空を仰ごうとして顔を上げれば、目の前を汐屋が通り過ぎるところだった。徹底的な失恋を思い出し、心臓が貫かれる心地がする。けれど、私は汐屋に嫌われていない。自分に言い聞かせ、片手を上げた。
「汐屋、おはよ」
張り上げた声は、仄かに震えた。それでも必死に笑顔を繕ったのに、汐屋は肩を揺らすことも、一瞥を寄越すこともしなかった。ただ、黙って背を向け去っていく。
聞こえなかったのかな。
私はもう一度言葉を紡ごうとして、しかし喉がぎゅっと締まった。
分かっている。私の声は間違いなく汐屋の鼓膜を揺らして、けれど汐屋は無視をした。完膚なきまでの拒絶。日向に踏み出した足が縫いとめられたように固まった。
振ろうとした手が、力なく丸まっていく。感情がうまく体に染み込まない。そのとき、私の背後から衝撃が襲った。
「おはよっ、澪!」
盛大に背中を叩かれ、私は体勢を崩し一、二歩よろめく。振り向くと、満面の笑みで友人がじゃれついた。
「心配したんだよ、澪。元気なった?」
「紫亜……」
私は呆然とショートカットの彼女の無邪気な笑みを見つめた。紫亜は緩く首をかしげ、手のひらで私の額にふれる。
「まだちょっと熱あるんじゃない? 大丈夫?」
紫亜の茶色がかった瞳が陽光に明るく輝く。ひだまりに身を晒した彼女の輪郭が白く溶け、私の双眸を細やかな光の棘が幾重にも刺した。
「澪?」
私の額に当てられた紫亜の手のひらに力がこもる。
「どうして、泣いてるの」
紫亜の言葉に、私は表情を歪めた。
潤んだ視界で瞬くと、頬を雫が滑り落ちる。顔面が次々に濡れていく不快に両手で顔を覆うと、紫亜の細い体躯が私を抱き締めた。
「澪、泣かないで。泣かなくていいよ、澪」
小さな手のひらが私の背を懸命に撫で、私は耐えきれず嗚咽を漏らした。日向の香りがする紫亜の肩に顔をうずめ、私は目を瞑った。
瞼の裏に焼けついた白い光の残像が、ちかちかと眼球を圧迫する。
汐屋は、決して私のものにならない。どんなに愛しても、私が望む方法で応えてはくれない。
それは、どうしようもない敗北だった。惨めな敗者。絶対に叶わない、願い。祈り。
両想いになりたい。愛し、愛され、甘え、甘やかしたい。
許されないのならせめて、ただ好きでいたい。汐屋が望まなくても、好きでいさせて。
「悲しいことなんてないよ。辛いことなんてないよ」
必死に言い募る紫亜の声音にまた嗚咽が込み上げ、私は唇を噛んだ。ささやかな祈りさえ打ち砕かれる。
眩しい世界がどうしようもなく瞳に痛くて、私は閉じた瞼に力を込めた。鮮やかな色を遮断しても、紫亜の温度と蝉の合唱が神経を揺らし、私は逃げるように一歩足を引いた。すると私を囲った紫亜の腕が固く強張り、逃げ場を失った私は子どものように泣き声を漏らした。
終礼を終えると、汐屋が担任教師に声をかけられているのが私の席から見えた。視界を遮るように、紫亜がこちらへ身をのりだす。
「澪、一緒に帰ろ。カラオケ寄っていこうよ」
私の視線が紫亜を避け、汐屋を追う。紫亜がずいと顔を寄せた。
「ね、久しぶりに歌いたくない?」
相好を崩した紫亜が「ね?」と同意を求める。
「あ……」
私は顔を伏せ、机の上の自分の手を見た。指先が小さく震えている。一瞬の逡巡の後、私は紫亜と目を合わせた。
「ごめん、私、汐屋に話がある」
立ち上がり、教室を見渡すとそこに汐屋はいなかった。慌てて教室を飛びだす。
「澪!」
紫亜の声が背後から追いかける。まるで責められているような響きを振り切り、廊下を走る。職員室のすぐ近くで、汐屋の後ろ姿を見つけた。カッターシャツの背中の生地を無理やり掴み、乱れた息で「汐屋」と名前を呼んだ。
静かな双眸が振り向いた。森閑とした表情で見つめられると、ひゅっと喉が鳴る。
汐屋は担任から頼まれたのであろう、プリントの束を抱えていた。半袖から伸びる薄く日焼けした両腕が、厚い書類を支える様は、どこか不安定な印象を与えた。
「何か、用ですか」
囁く声音に、私の表情が罅割れる。手酷い、拒絶。分かっていたはずなのに、涙が盛り上がった。軽く舌先を噛み、私は口を開く。
「汐屋やめて。私を嫌いにならないで」
「何のことですか」
「全部全部、謝るから。弄ぶようなことして、ごめんなさい。もう好きだなんて言わないから。だから私のこと避けないでよ」
汐屋が睫毛を伏せた。涙袋の下の隈に影が落ちる。
「元に戻るだけだろう。俺たち、関わりなんかなかったじゃないか」
「汐屋との思い出、なかったことになんかしたくない」
「俺は高崎さんに告白したこと、後悔している」
そう言って、汐屋は踵を返そうとした。
後悔。汐屋が言い放った言葉が鋭い刃になって、心臓の薄い膜へすっと差し込まれた。あまりにも自然な激痛。私は汐屋の貧弱な手首を掴んだ。
音を立て、プリントが廊下に散らばる。汐屋はため息を吐き、しゃがみ込もうとした。掴んだ手に力を込め、引きとめる。
唇がわななく。
「ねえ、どうしたら私と向き合ってくれるの」
汐屋は温度のない一瞥をくれ、顔を逸らした。
「俺はもう、高崎さんと関わりたくない。話しかけないでくれ」
私は手を離した。汐屋が膝をつき、書類を拾い集める。汐屋が手を伸ばしたプリントのひとつを、私は内履きで踏みつけた。紙が、乾いた音を立て引き攣れる。
勢いをつけてしゃがみ込むと、スカートの裾がふわりとひろがり、太腿を擦った。
「もっと真剣に、私と向き合ってよ」
熱い雫が頬を伝った。みっともない、こんな泣き落としのような真似。泣きじゃくって縋るなんて、幼児に戻ったようだった。
「私に思考を割いて、私の内面を考えて。不可侵の神様にしないで。間違っていてもいいから、汐屋の想像の先にもっと踏み込んでよ」
「俺に、高崎さんのことなんか分からない」
「汐屋にしか分からない言葉で、私のことを表現して」
私は汐屋の上腕に縋りついた。
「あんたの神様を、あんたが殺して。私を見て。私を欲しいと思って」
本当の、本物だけが欲しかった。だから、汐屋の欺瞞を暴いてやろうとした。でも今は、汐屋が本物じゃなくたっていいから、汐屋が欲しかった。
「澪!」
その時、紫亜の声が飛び込んで、彼女の小さな手が私の腕を掬い、引き上げた。よろめいて立ち上がり、友人を見ると、紫亜は酷く不安げな顔をしていた。
「最近の澪……おかしいよ。どうしちゃったの?」
紫亜の声に我に返る。そうだ、近頃の私はどうかしている。
馬鹿になってる。自分でも分かってる、最低だ。イタい。ダサすぎる。
冷静になると、足先から冷たい恐怖が満ちてくる。
「怖い……私が、私じゃなくなっていくみたい……」
呟き、両手で顔を覆う。怖い。つらい。どす黒い感情に浸食され、どうにかなりそうだった。
指の隙間から、書類を集め終えた汐屋が立ち上がり、去っていくのが見えた。最近、汐屋の背中ばかり見ている。この男は私の呼びかけに応えても、必ず自分から去っていくのだ。酷いやつ。そう思うのに。
「汐屋のこと、大嫌いになりたい」
湿った声が唇から漏れた。紫亜が私の背中をさする。
「なれるに決まってる。だって、最初から汐屋のことなんて嫌いだったでしょ」
違う。首を振りたかった。あれは昏い憧憬だ。私は、汐屋がずっと羨ましかった。信じるものが、信じられるものが欲しかった。
「ねえ、カラオケ行こ? 大声で歌って、忘れよ?」
紫亜の人懐こい声に、首肯して洟を啜る。
汐屋と出会って、私は塗り替わった。もう元には戻れない。その不可逆性が汐屋にもたらされたものだと思うだけで、暗闇に小さな恍惚が灯る。もう手遅れだ。それを知っていながら、私は紫亜に手を引かれ、教室に鞄を取りに帰った。
拙作をお読みくださり、ありがとうございます。
続きが気になる方は、ぜひブックマークをお願いします。
また、少しでも心に残りましたら、ページ下部にある評価欄を
☆☆☆☆☆→★★★★★のように色を変えて評価していただけると、とても嬉しいです。