拒絶
翌朝は酷かった。上下の瞼がぱんぱんに膨れ、なぜか寝癖もいつもより酷いし、なにより扁桃腺が怖いくらいに腫れて唾を飲み込むことさえ痛みを伴った。
「……うわ」
思わず漏らした声さえ笑えるほど枯れていて、喉全体に強い痛みを響かせた。
一階に下りると、朝帰りの母親がリビングに入ってくるところだった。
「澪」
母が気怠い表情でこちらを見る。私は引き攣る喉から無理やり声を絞りだした。
「風邪、ひいたっぽい」
母のくっきりした二重の瞳がわずかに歪んだ。
「ママ、仕事休んで病院連れて行った方がいい?」
「いい。風邪薬飲んで寝とく」
「そう」
パーマをかけた髪を手早く結い上げ、母は薄くたわんだ首筋に手を当てた。
「じゃあ、学校には連絡しとくから」
「ありがと」
私が冷蔵庫から天然水のペットボトルを取りだし、戸棚の薬箱を漁った。すると背中から、母の声が投げかけられる。
「レトルトのお粥があるから、それ食べなさい」
振り向けば、母はリビングを出るところだった。言いかけた返事を飲み込み、私は風邪薬を手に取って二階の自室へと戻った。
水で錠剤を流し込んで、布団にもぐれば様々な後悔が押し寄せてくる。汐屋に明け渡し、拒絶された心の弱い部分が痛んだ。熟し過ぎた果実のように、自分がぐちゅぐちゅと腐っていく気がした。
頭まで布団を引き上げ瞼を閉じると、朦朧とした頭はたやすく微睡へと陥落した。目覚めたときには、身体中に汗をかいていた。不快感に上体を起こせば、喉の腫れがずいぶん楽になっている。
「よかった」
私は呟き、ベッド脇の机に手を伸ばしスマートフォンを取った。紫亜たちからのメッセージに返信し、汐屋のアカウントに目をとめた。
私が送信したメッセージひとつだけが残ったメッセージ欄を開く。寂しげに発光する画面を見ていると、また涙が溢れてくる。私は泣きじゃくりながら、画面上で指を動かした。
『風邪、つらい。お見舞い来てよ』
滲んだ視界で入力画面を見て、笑ってしまう。情けないし、馬鹿らしい。分かっているのに、どうしても汐屋に縋りたい。
震える指先で、送信ボタンを押す。怖くなって、私はスマートフォンにロックをかけ、枕の横に放り投げた。再び布団に潜り込む。
強張った体がこもった熱に弛緩するころ、私は眠りに落ちていた。それでもやっぱり熟睡できなくて、息苦しさに一時間ほどで目を覚ます。
寝起きの思考で、ぼんやりとスマートフォンに手を伸ばした。恐る恐る通知を確認し、私は息を飲んだ。
『何か欲しいものある?』
汐屋だ。汐屋からの返信だ。
衝撃に、脳が一気に覚醒する。驚いて飲み込んだ唾が変な所に入って、むせて咳き込む。
『プリン食べたい。とろけるやつ』
困惑する指先で、返事を入力する。送信すると、ほどなくして汐屋からメッセージが届いた。
『分かった。買ってく』
嘘みたいだった。汐屋が私のために何かしてくれる。私のこと振ったのに、何で? 分からない。でも、どうだっていいや。憐憫だって、優しさは嬉しい。
私は起き上がり、歯を磨いてシャワーを浴びた。清潔なスウェットに身を包み、髪を乾かすと自分が真新しく生まれ変わるように感じる。
鍋に水を溜め、コンロの火にかける。冷蔵庫から母親が話していたレトルトの卵粥を取り出した。アルミの鍋を青い炎が下から包み、透明な水の中で小さく水蒸気が沸いてくる。
底から噴き出す泡がぼこぼこと大きくなっていくのを見ていると、また泣けてきた。レトルトパウチを温め、陽光で薄明るいダイニングで食事を摂る。
「いただきます」
柔らかく、しょっぱい卵粥を少しずつ口に含んでいると、怠い体が優しさで包まれていく。レースカーテンはあんなに光が波打って、白い壁は砂浜みたいで、フローリングの木目が溶けたチョコレートみたいで、私の家に汐屋が来る。体もさっぱりしたし、腹も満ちたし、喉の痛みのあらかた取れたし、今日はいい日だ。間違いない。
「ごちそうさま」
歯を磨き、もう一度ベッドに潜る。遠い眠りに引き込まれていく感覚も、もう怖くなかった。小舟に揺られているような微睡から覚め、私はマットレスの上で背伸びをした。仰向けのまま手を伸ばしてスマートフォンを掴み、画面を確認する。すると、端末が急に震えだし、私は手を滑らせた。
「痛っ」
こめかみをぶつけ、顔を顰めながら通話に応答する。
「もしもし」
『高崎さん?』
「汐屋じゃん、おはよ」
『もう夕方だよ』
「私、今起きた。汐屋の着信びっくりして、スマホ顔面に落としちゃった」
『痛そう。ごめん』
「どうしたの?」
『いや、着いたから』
「へ?」
私は腹筋のばねを使って、勢いよく上体を起こした。
「え、もう? 着いたって、うちに?」
『うん今、高崎さん家の前』
「わ、ごめん! 今すぐ行く!」
私は急いで階段を駆け下り、その途中で眩暈を感じて手摺にしがみつき、しゃがみ込んだ。弾む心音と、くらりとした感覚が心地よい。手摺に縋りついて呼吸を整え、そろそろと階段の残りを下る。
玄関の鍵を開け、戸を開いた。
「汐屋、来てくれてありがと」
夏服で立っている汐屋は、なんだか少し不安げな表情をしていて、私は焦って髪を手櫛で直した。出迎える前に、鏡を見ておけばよかったと後悔する。
それでも羞恥心よりも強く、汐屋に会いたかったのだ。汐屋が望んでいないとしても、彼に気まずい思いをさせても、己の癒えない心に爪を突き立てても、構わないくらいに会いたかった。
汐屋は翳った瞳で、ゆるりと視線を彷徨わせ、
「ごめん」
と低く零した。
その重い響きに、昨日の悲しみがフラッシュバックする。それでも汐屋は来てくれた。私と付き合ってくれなくても、汐屋は私に優しくしてくれる。それでいい。それだけでいい。
「暑いでしょ、入ってよ」
私は汐屋を家の中に招き入れた。汐屋が私の陣地に足を踏み入れると、乾いてきた傷口が再び引き裂かれる心地がする。汐屋を前に私は泣きたい気分になれなくて、だから自分の内側があえなく血を流す感覚が、清々するほど気持ちよかった。
私の弱さを守っている薄い硝子を粉々に砕くのは汐屋がいい。私が必死に繕ってきたこれまでを、汐屋に滅茶苦茶にされて、洗い立ての魂に生まれ変わりたい。
乱れた髪を必死に撫でつけて私はキッチンに駆け込んだ。食器棚からグラスをふたつ取り出し、調理台に並べる。冷蔵庫の中を覗き込み、私は背後の汐屋に問いかける。
「麦茶でいい? あ、オレンジジュースある。汐屋好き?」
私が支えていた冷蔵庫の扉を、汐屋が手で引いた。
「高崎さん、寝てなくちゃ」
背筋を伸ばし、汐屋と向き合う。
「ん、そうだね」
私はドアポケットから麦茶が満ちたボトルを取りだし、汐屋に押しつけた。
「注いで」
汐屋は手に持っていたレジ袋を腕にかけ、ボトルを受け取った。汐屋がストッパーを外した容器を傾けると、キッチンの小窓から差し込む日差しが、麦茶を澄んだ透明に揺らした。気泡がグラスの中でひろがり、弾ける。
私は口元を歪め、顔面を両手で覆った。
「汐屋、好き」
声がわななく。言葉を落としたそばから臆病な唇が震え、それでも怯えを押し込んで言い募る。
「信じてもらえないかもしれないけど、それも私のせいだって分かってるけど、本当に好きなの」
神の足元に跪き、告解しているような心地だった。酷く神聖なものを前に、自らの腹を裂き内臓を曝けだすことは、極限の緊張と倒錯的な安堵を孕んでいた。
「私、汐屋で遊んでた。酷いことしたって分かってる。だから応えてくれなくていいから、私の気持ちだけでも受け取ってよ」
強張った手で更に顔面を押さえつける。すると、汐屋の両手が私の無防備な両手首を掴んだ。長い指が、軟弱な手首を怒りのような強さで拘束し、開かせた。無様な泣き顔が、無理やり外気に晒される。
険しい表情の汐屋と視線がかち合う。憤怒、悲嘆、懇願、祈り。どれとも断定できない厳しさが、汐屋のかんばせに浮かんでいた。
「まだ分からないの。それとも、分からないふりをしているの」
切なく、痛ましげな声に問い詰められても、私は幼子のように放心して汐屋を見つめることしかできない。汐屋の苦しみを拭い去ってあげたい。それなのに、彼を追い詰めているのは他でもない私だ。
「君は、自分の心と体を使って、賭けをしていただけだろう。俺の高崎さんへの想いを否定することで、自分の世界観の正しさを証明したかったんだ。君は賭けに勝った。だけど、だからこそ、俺は君のものにならない」
どうして、私を断罪する汐屋が、泣きそうな顔をするの。
「これが、汐屋の復讐なの」
悲しみを受けとめきれなくて、馬鹿みたいな笑みが浮かぶ。汐屋がぐっと眉根を寄せ、重い動作で首を振った。
「違う、俺には好きな人を傷つける趣味はない」
そんなこと言って、汐屋の言葉の欠片のひとつひとつが、どんなに私の心を破裂させるか知らないなんて、許されるの?
私は俯き、汐屋に掴まれたままの腕を小さく引いた。緩く解放された手首には、汐屋の温度と、くっきりとした手枷が残っている。
汐屋がびくりと腕を体に引きつければ、その肘から下げられたレジ袋が音を立てた。腕から持ち手を抜き取り、汐屋は私に袋を突きつけた。
「プリン、ちゃんと買ってきたよ。これ食べて治して」
私は受け取ることを拒否するように、胸の前で指先を丸め、かぶりを振った。
「今、甘いものなんて食べたくない。失恋したのに、そんなもの食べられない」
汐屋が私の手を取る。焼死体みたいに固く握り込まれた指をひとつひとつ解き、レジ袋の持ち手を包み込ませた。
「高崎さんは失恋なんかしてないし、変わらず俺に好かれてる。だから、食べて」
私を徹底的に否定する、残酷な言葉だった。私は瞳を潤ませ、ぼやけてポップになった視界で汐屋を見つめる。
「食べさせて」
汐屋が視線を揺らめかせ、唇の端を大きく引いた。私の手を、突き放すように私の心臓へと押しつける。
「自分で、食べるんだ」
固い言葉は、宣誓に似て響く。
「俺たち、もう関わらないでいよう」
瞠目すると、下睫毛にとどまっていた雫が耐えかねて頬を伝った。
「やだ。そんなこと言わないで」
汐屋の腕に追い縋ろうとした。けれど、それを撥ねつけるように汐屋は一歩後ずさった。
「一緒にいたって、いいことなんてない」
孤独な声に、宙に浮いた指先がかすかに震えた。泣き笑いのみっともない顔を、私は剥きだした。
「辛いことばっかりでも、汐屋といたいよ」
汐屋といると、苦しい。今までどんなに冷たい水中でも容易く泳げていたのに、海岸に打ち上げられて酸欠に藻掻いている魚みたいだ。それでも空を、海の中からは見ることのできなかった青空を、海の深碧とは全く異なる澄んだ色を忘れられなくて、自ら凶暴な空気に身を晒してしまう。
しかし、汐屋はきっぱりと顔を逸らせた。
「俺はもう、耐えられない」
絶望に浸ると、涙を零す体力もないことを知った。口内が一気に乾燥し、喉がつかえた。肺があっけのない音を漏らす。
汐屋が踵を返し、玄関へと立ち去っていく。去り際に残された「お大事に」の一言が呆然と悲しくて、私は床にへたり込んだ。ひんやりとなめらかなフローリングが、裸足から熱を奪う。
蛇口から水滴がシンクに垂れる音が聞こえると同時に、玄関の扉が閉められる音が響く。この期に及んで、汐屋に裏切られた心地がするものだから、己の傲慢に笑いが込み上げるが、横隔膜が引き攣って真顔になった。陽光を吸って淡く発光するキッチンの白いタイルに、私の陰影が黒く濃く映り込み、更に失意を加速させた。
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