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神様を撃ち堕としたいけれど!  作者: 砂原翠
わたしを神様にしないで
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熱中症

 六限目の体育ほど嫌いなものはない。私が保健室に向かう腹積もりを決め、教室を出ようとすると、紫亜が腕にじゃれついてきた。

「澪、最近付き合い悪いぞー」

 丸い大きな瞳が私を見上げる。人懐っこい笑みの中に、冷たい光が混じっているのを私は見逃さなかった。

「ごめんって、じゃあ一緒にさぼろーよ」

 紫亜が駄々っ子のように絡めた腕を振る。

「嫌だし。あたし体育捨てたらほんと内申死ぬもん。澪はいいよね、賢くて」

「全教科平均点なのは賢いって言わないですー」

 私が半笑いで言うと、紫亜はくしゃりと目を細めた。

「ねー、一緒のチームでやろうよ、バスケ」

「無理。紫亜の運動量に付き合いきれないもん」

「大丈夫、澪にはボール回さないからさ」

「じゃあさぼらせろよー」

「駄目駄目。友達サービスもしろって」

 紫亜に連れられて、体操着に着替えに戻る。熱気のこもった体育館で走り通し、授業が終わる頃には汗だくになっていた。終礼を終えて帰路についた私の頭上から、眩しい太陽が照りつける。

「暑……」

 ローファーの足取りが日陰を探してふらふらと彷徨う。朦朧とした思考に足を取られ、私は体勢を崩した。陽光に煌めくアスファルトと、くっきりと濃く浮かび上がった自分の影が迫ってくる。

 倒れる。予期する衝撃に備え、瞼を閉じた私の腕を、誰かが強く引いた。

 肩を貫く衝撃。なんとか足を踏みこたえて振り向けば、そこには焦った表情の汐屋がいた。

「高崎さん、大丈夫?」

 私は回らない頭で、ぼんやりと呟く。

「腕……痛い」

「ああ、ごめん」

 汐屋は慌てて手を離したが、その視線は私の顔に縫いとめられて動かない。いつもぶっきらぼうな声が、気遣う色をのせた。

「顔、赤いよ。体調悪いんじゃない?」

「あー、なんか暑くて気持ち悪いかも……」

 虚ろな声で応えると、汐屋は眉根を寄せ、離した私の手首を再び取った。そのまま私の手を引いて汐屋は歩きだす。

 どこに行くのか尋ねたかったが、口を動かすことさえ億劫で、私は従順に汐屋について歩く。汐屋の目的地は案外すぐ分かった。

 全国チェーンのコンビニに、汐屋は迷わず入店する。冷房の効いた、涼やかな空気に私は胸を撫で下ろす。汐屋はイートインスペースを指して、「座って待ってて」と言い残し、陳列棚へと向かった。

 私は窓際に沿って一直線に並べられた机と椅子の、一番奥を選び腰かけた。半分壁に埋まった、冷えた柱に頭を預ける。体内にわだかまった熱が発散されて、気持ちがいい。

 数分もしないうちに汐屋が戻ってきて、レジ袋から二本のペットボトルを机に並べた。どちらも同じスポーツドリンクで、うち一本は凍って全身に霜を纏っており、汐屋はそれをこちらに差しだした。

「これ、首にでも当てといて」

 私は茫然とした顔でそれを受け取り、「ありがと」と呟いた。手のひらが溶けた霜で湿り、痛いほどに熱が奪われていく。ぼんやりしたまま手にしたペットボトルを見つめていると、汐屋が私の手の甲ごとペットボトルを掴み、私の首元へふれさせる。

「ひゃ……」

 思わず私は一瞬目をつむり、汐屋の顔を仰ぎ見た。視線が絡み、何らかの感情が弾ける前に、汐屋が顔を逸らした。彼はもう一本のペットボトルを手に取り、キャップを開け、私の方へと突きつける。

「飲んで」

 私は首をかしげ、汐屋の硬い表情を見つめ、「飲ませて」と言った。

「はあ?」

 汐屋は声を尖らせる。しかし病人には強く出られないのか、渋々といった様子で「……口開けて」と指示した。

 私は唇を開き、目線で汐屋の動作を待った。汐屋はこちらへ上体を屈ませ、ペットボトルの飲み口を私の下唇にふれさせた。それが徐々に傾けられるのに合わせて、私も首を逸らせる。

 飲み口から冷えた薄甘い水が流れだして口腔を潤し、勢いよく喉奥を打った。口の端からスポーツドリンクが零れ、顎を伝って喉へ落ちる。汐屋が慌ててペットボトルを離したが、胸元が一気に冷たくなった。

 濡れた唇で笑う。

「……美味しい」

 中身の減ったペットボトルを持つ汐屋は、なぜか傷ついたような表情をした。この期に及んでこの男は、私のことを信頼していたのか、と思う。

 私が、こいつの信頼を踏み躙ったのか。

 何かどうしようもなく取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、私の顔面から笑みが消えていく。

 私はなんだか切ない気持ちになって、「汐屋」と小さく呼びかけたが、それに被せるように汐屋が固い声で言った。

「もう君と話したくない」

 心に罅が入る音がした。

「僕の中の美しい君を汚さないでくれ」

 汐屋は私を見てすらいなかった。こうべを垂れ、懇願のように言い募る。

 それがまるで、神に祈るようで。

 私は顔を歪め、汐屋のワイシャツの胸元を掴み上げた。

「目を覚ませ」

 私の声音も、まるで哀願するように響いた。

「現実を知れ。幻想に浸るな。神様なんか、最初っからいなかったんだよ。私を見ろ」

 無理やり上を向かせた汐屋が瞠目し、眉根を寄せ、そして視線を下へ逸らした。血色の悪い唇がわななき、汐屋の恐怖が知れる。汐屋はぽつりと、言葉を落とした。

「なまの君は……怖い」

 私は泣いてしまいたい気分だった。必死の願いは、あっけなく手折られたのだ。

 熱っぽい頭で、汐屋の襟元を掴む手に力を込める。

「ねえ、あんたの信仰はそんなもんなの? あたしがあたしとして生きることが耐えられないのなら、そんな信仰捨ててしまえよ」

 汐屋は両瞼を閉じた。瞼の裏でしばらく悩み、沈痛な声で言う。

「捨てたら、俺はもう高崎さんと話せなくなる……」

 は?

 私は口を薄く開き、固まった。意味が分からない。

「何でだよ?」

 呆然と問えば、汐屋は閉じた目元に力を込め、いくつもの皺を寄せた。

「高崎さんと俺が対等であることを、俺が信じられないからだよ。受け入れられないんだよ」

 冷房に、濡れたブラウスに、私の体温が下げられていく。私は汐屋の服を掴んだ手を弱め、しかし決して放さずに顔を寄せた。囁くように問いかける。

「じゃあ、どうやったら、信じられる?」

 梅干しに似たしわくちゃの顔で、汐屋が答える。

「俺が、高崎さんを嫌いになったら……だから、無理なんだよ」

 私が両手を離しても、汐屋は断罪を待っているみたいに顔を上げて震えていて、私はなんだか優しい気持ちになった。

 汐屋の信仰はあほらしいけれど、なぜか今はそれが愛おしくて大切なものに思えた。

 引き結んだ唇が小さく引き攣っているのが滑稽で可愛らしくて、私はふっと微笑み、顔を寄せた。汐屋の形を、温度を、肌触りを一番敏感なところで確かめるためだけに、自分の唇をくっつける。おかしなことに、私にはそれ以上の意図はなく、理性が思いとどまるには切実すぎる理由だった。

 想像通り汐屋の唇は渇いていて、けれど薄皮の下から血管の温度と湿度が伝わってくる。

 こいつは喋るからいけないんだと、私は思った。余計なことを言わなければ、唇はこんなにも素直に私のことを受け入れ、馴染む。

 一瞬の接触で私は満足し、顔を離すと笑った。

「汐屋って、馬鹿だよね。だけどあんたのそういうとこ、なんか尊敬するよ」

 瞼を開けた汐屋は驚愕の表情をし、けれど何を言うでもなくただぼんやりとしていた。私は熱が収まった体で立ち上がる。

「アイス食べたい。奢ってあげるよ。汐屋どれが好き?」

 汐屋は私を見たが、呆然とした顔のまま何も言わない。

「クリーム系のアイス好き? それともシャーベット?」

 汐屋が反応を示さないので、私は仕方なく「じゃあ、私が勝手に選ぶからね。後から文句言わないでよ」と言って陳列棚の方へと向かった。

 適当にバニラアイスとソーダアイスを購入してイートインスペースに戻れば、汐屋はまだその場に突っ立っている。

「何やってんの? 座ろうよ」

 私はさっさと椅子に腰かけ、カップのバニラアイスを汐屋の目前に置いた。

「汐屋、バニラ好き? 私ソーダがいい」

 汐屋が微動だにしないので、私は諦めて棒アイスの袋を破った。ひとくち齧ると、甘い氷が口内で溶け、歯先と舌を痺れさせる。

「美味しー」

 独り言ちて、私はぼうっと立ち尽くす汐屋を見た。齧りかけのソーダアイスを汐屋の口元へ近づける。

「何? 汐屋もソーダがよかった?」

 私が笑えば、汐屋はようやく「いや……」と口を開き、椅子に座った。ぎこちない手つきでカップアイスが開かれていくのを、私はアイスをかじりながら見つめた。

 透明なスプーンが、なめらかな乳白色のアイスクリームを薄く丸めるようにこそいでいく。 スプーンが汐屋の口へ運ばれていくとき、乾燥した唇の内側に濡れてひかる歯、赤い舌がのぞいた。私は思わず、アイスが飲み込まれていく様を凝視してしまう。

 すると、私の棒アイスを持つ手が冷たく濡れているのに気づいた。

「あー」

 私は嘆息する。齧りかけのソーダアイスが無残に溶けている。私は汐屋を見た。

「汐屋、上向いて」

「は?」

「口、開けて。あーってして」

 言われるがままに上を向き、口を開く汐屋がまるで燕の雛みたいで、なんだか微笑ましかった。私は零れないように、棒アイスを汐屋の口の上へ運ぶ。

 水色の氷が、ほろほろと崩れていく。それが汐屋の舌を、唇を濡らして、てらてらさせる。アイスが全部なくなったら、私は濡れた自分の指を汐屋の唇に当てた。

「舐めて」

 汐屋が唇を固く閉じ、拒絶を示す。私は甘い指で上唇と下唇の境を、押し込むように撫で、汐屋を解放した。

「手ぇ洗ってくるね」

 お手洗いから戻ると、汐屋のカップアイスは縁が丸く溶けて、島のようにアイスが浮いていた。

 私は元の椅子に腰かけ、テーブルに肘をついて汐屋を見た。

「食べないの?」

「……うん」

 ぼんやりとアイスに視線を落とし、汐屋は頷く。

「もったいないなぁ」

 私は腕を伸ばし、カップアイスを引き寄せた。そのまま半液体と化して甘ったるさが増したアイスを頬張る。汐屋が私の唾液と溶けたアイスで白濁したスプーンを見つめているのに気づき、私は微笑んだ。

「やっぱ食べたい?」

 呆然と汐屋が目を瞬かせる。私は笑みを深くし、「駄目ー」と言い放って結局、溶けたアイスを完食した。

 食べ切ったアイスの残骸たちをレジ袋に入れ、持ち手を縛った。私はスクールバックを肩にかけ、立ち上がる。

「行こ。帰ろ」

「うん」

 汐屋ものろのろと立ち上がる。レジ袋をコンビニのゴミ箱に突っ込み外に出ると、日は翳ってきたものの蒸し暑い空気が全身を包んだ。

「やっぱ外、あっついねー」

 黙って私の斜め後ろを歩く汐屋を横目で眺める。淡い夕日に照らされた汐屋の輪郭が、透き通った茜色に浮かび上がる。逆光に赤茶けた表情の汐屋に私は言う。

「ねー、暑いから髪、縛ってよ。できる?」

 眠たげな目を見開き、汐屋が口を開く。

「やったことない」

「てきとーでいいからさ」

 そう笑って私はスカートのポケットの中から髪ゴムを取り出し、汐屋に突きつけた。渋々と汐屋は受け取り、私の背後へと近づく。

 汐屋の指先が、私の後ろ髪を掬う。「擽ったい」と首を竦めると、私の髪を握って汐屋が固まった。

「ごめん。気にしないで」

「……ああ」

 汐屋の手が私の髪を梳き、ときおり頭皮を掠める。「ふふ」と私が身をよじると、汐屋が私の髪から手を離した。

「できない」

 きっぱりとした汐屋の声に、私は唇を曲げ大きく頭を振った。

「うわっ」

 長い髪の毛先が暴れ、汐屋の顔を打った感覚がする。振り向き、「酷い」と抗議する汐屋に向き合う。

「汐屋に髪結んで欲しかったな」

「それは……ごめん」

「私も意地悪してごめんね」

 私は耳元から髪を掻き上げた。そのまま自分の耳朶を引っ張る。

「ね、見て。耳」

「それが?」

 首をかしげる汐屋に、私は笑いかける。

「ピアス開けたいの。ねえ、どのへんに開けたらいいかな」

 建物を赤く燃やし沈んでいく夕日に目を眇めると、汐屋がこちらに手を伸ばした。私が腕を下ろすと、代わりに汐屋の指が私の耳朶を挟んだ。

「柔らかい」

「普通でしょ」

「どうだろう」

 そう言って汐屋は反対の手を自分の耳朶に伸ばした。眉根をわずかに寄せ、「俺のが柔らかいかも」と言うので「なんだあ」と私は笑う。

「汐屋、見た?」

「何を?」

「私うなじのところに、ほくろあるの。見た?」

「うん、見た」

 目を細め、汐屋の手から逃れて、彼の背後に回る。

「私も汐屋のほくろ探したいー」

 指先で汐屋の髪の襟足を撫でると、汐屋が両手で首を隠した。

「おっきいの探す。見せろよー」

 汐屋の手首を掴んで軽く揺らすと、汐屋が恨めしげに後ろの私を見遣り、おずおずと首筋を晒した。

「あ」

 私は笑う。人差し指の先を、汐屋の制服の襟よりかすかに内側の肌へ押し当てる。

「ほら、首のここんところに、ほくろがある。知ってた?」

「知ってる」

「なんだ、つまんない」

 私は汐屋の隣に並んで歩きだした。汐屋も私に歩みを合わせる。

 私は汐屋のことなんかどうでもよくて、だからこそ汐屋の前では一番自然に笑える。言いたいことを言って、好きなように振舞える。

 こいつは、どんな私を見せても結局は嫌うことはないと知っているから。

 三叉路で汐屋と別れ、私は一人で家路を辿る。誰もいない両脇がなぜか物足りなくて、速足で住み慣れた一戸建てへ帰ると、誰もいない屋内が暗くひろがって見えた。瞳を焼く茜色に顔を上げれば、ブラインドの隙間から夕映えが差し込んでいた。

 凶暴な夕陽を睨みつけ、ぼんやりとした視界で足元に目を落とすと、赤や金の鮮やかな残照が影に舞って、ああ、私は汐屋のことが好きなんだろうと思う。どうしようもなく自覚する。

 私はきっと、汐屋のことがものすごく欲しい。

 ちかちかと線香花火のような火花が散る視野を、私は両手で覆った。

拙作をお読みくださり、ありがとうございます。

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