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神様を撃ち堕としたいけれど!  作者: 砂原翠
わたしを神様にしないで
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図書館

 朝、私は教室に入るとまっすぐに汐屋の席に向かい、汐屋の机にどさりとスクールバックをのせた。低く背を丸めてノートと向き合っていた汐屋が、顔を上げる。

「おはよ、汐屋」

 汐屋は頼りない視線で私の表情をさらうと、無視してノートに顔を向けた。私は内履きの先で、汐屋の机の支柱を軽く蹴る。

「汐屋。おはよ」

 私は語句のひとつひとつに迫力を込めて笑う。億劫そうに、汐屋が重い口を開いた。

「……おはよう」

 ぎぎぃ、と耳障りな音とともに前の席の椅子を引き、私はどかりと腰かけ足を組んだ。膝に、自分のスクールバックを引き下ろす。

 汐屋の机に肘をつき、手のひらで顎を支え、汐屋に笑いかける。

「ね、汐屋。手、見せてよ」

 怪訝な表情で汐屋がこちらを見つめる。私は笑みを深くして応えた。

「手だってば、手。片手出して。ねえ、早く」

 組んだ足の先をぶらぶらと揺らす。おずおずと、まるで猛獣の檻にふれるかのように、汐屋が手を差し出してきたので、私はぱっとその手を掴んだ。汐屋が眉根を寄せる。

「何……?」

「汐屋、指長いね。わ、生命線、細っ」

 人差し指で汐屋の生命線をたどると、手のひらが怯えたように跳ねる。

「ほんと、何?」

 当惑する声を無視して汐屋の手を引き寄せ、裏返し、蛍光灯に透かし、不揃いな桜貝に似た爪をきゅっと擦った。

 ふれ合った皮膚が汗ばんでいく。私が目を細めると、汐屋が唇を歪めた。

「高崎さん」

 その口元が更なる言葉を紡ぐ前に、私は汐屋の手を解放した。

 汐屋の机にぐっと身をのりだし、満面の笑みで言う。

「汐屋、放課後暇でしょ」

「は?」

「暇じゃない? 現代文の課題、一緒にやろうよ」

「どうして俺が」

「やだ?」

 私はすっと身を引く。視線を外し、組んだ足を下ろす。

「嫌ならいいよ。一人でやる」

 バックを肩にかけ、立ち上がる。汐屋の脇を通り過ぎるとき、小声で言った。

「放課後、図書室来てよ」

 汐屋は来る。勝算はあった。投げ捨てられた内履きの屈辱が忘れられない。見返してやりたい。汐屋に敗北を突きつけたい。

 でも、来なくたってどうでもいい。こんな不毛な勝負では、どんな状況でも精神的優位を保ってる方が勝ちなのだ。


 北校舎の四階、行きどまりにある図書室は、湿度のせいでいつも黴臭く、今日もカウンターに座る司書を除いて、生徒は誰一人いなかった。私は要塞の防壁みたいに立ち並んだ本棚の列を越え、窓ぎわの自習席に腰を下ろした。

 隣の席にスクールバックを置き、チャックを開ける。私はパンパンに膨らんだ、チェック柄のポーチを手に取り、中を開く。

 窓から差し込んだ白い光が照らす机の木目に、私はポーチから出したマニキュアボトルを並べていく。

 透明の容器に入れられた、紅、濃紺、薄水色、くすみピンク、無色の塗料たち。刷毛と一体になったボトルの蓋は、つややかな黒の光沢を放っている。

 私は机の上で腕を組み、頭を倒した。柔らかい日差しが眠気を誘う。瞼をそっと閉じ、微睡をたゆたっていると、起こしたいのか起きて欲しくないのか分からない声量で、汐屋が私を呼んだ。

「高崎さん」

 重い瞼を開き、ぼやける視界で汐屋を見る。

「なんだ、やっぱり来たんじゃん」

 薄く笑うと、汐屋があからさまに顔を歪めた。私は向かいの席を指さす。

「座りなよ」

 汐屋はわずかに上唇を尖らせ、一瞬の躊躇の後に椅子を引き、腰かけた。

 私はうとうとした幸福に浸ったまま、汐屋の瞳を見てにっこり笑った。

「汐屋ぁ」

「何」

「ふふ」

「だから」

「手、出して」

 眉根を寄せる汐屋に、私は繰り返す。

「手、出してよ」

 微笑むと、予想よりも素直に汐屋は左手を差しだした。私は汐屋の手を取り、ネイルポリッシュに手を伸ばす。瞬間、汐屋が咄嗟に手を引いた。

「何?」

 問うと、汐屋は固い表情で「課題するんじゃなかったの」と尋ねた。

 唇に笑みをのせ、「もっと楽しいことしよう」と告げると、諦めたのか汐屋は手の力を抜いた。委ねられた無防備な手に、私はうっそりと笑みを作る。

 無色透明のポリッシュが満ちたボトルの蓋を開け、たっぷりと塗料が絡み、てらてらと輝く刷毛を持ち上げる。汐屋の指先を浮かせるように掬い、その人差し指の爪のつけ根に私は刷毛の先端を置いた。

 有機溶剤の鼻を突く香りが、空気に立ち込める。汐屋は「臭い」と呟き、けれどその視線を小さな刷毛に釘づけにした。

 色彩も明暗も持たない、ただ光るだけの塗料の筋が、汐屋の爪に引かれていく。

「汐屋の手、綺麗だね」

 うわごとのように私が言えば、汐屋は小さく吐息を漏らす。

 汐屋の爪が、ぷっくりと潤み、艶めく。私は液をつけ直し、次は中指に向き合った。

「汐屋はさ、可哀想だね」

 特に意思を持たない言葉が、私の唇から零れ落ちた。空気を震わせた音が私の鼓膜に届いてから、そうだ、私は汐屋を憐れんでいるのだと腑に落ちる。

 こんな、我儘な女を信仰して、挑発され、弄ばれて、それでも信仰を手放せないなんて、憐憫を通り越して滑稽でさえある。

 けれど汐屋は、固い声で応えた。

「俺には、高崎さんの方が可哀想だよ」

「何で」

 棘のない問いが口元から滑り出た。汐屋もなんてことなどないように、解答を差しだす。

「俺が、高崎さんを傷つけたのだろう」

 私は口の片側で笑い、そしてすぐ無表情に戻した。黙々と汐屋の爪を塗っていく。

 そうだ。私は確かに傷ついたのだ。

 告白されて傷つきましたなんて、言葉にすれば馬鹿らしいけれど、どれほど純粋な思いだろうが、性的なまなざしだろうが、体内から取りだされた生のままの感情を構えることなく受け取れば、否応なしに傷を負う。

 お前の告白が私を不快にさせたなんて考えは意地が悪いが、それでもコミュニケーションなんて、全てがそうじゃないか。快も不快も結局はストレスで、意思の疎通は内面への侵略を伴う。傷つける。

「汐屋は、私の加害者だったんだね」

 小指の塗布を終え、親指に取りかかりながら言えば、「だから、高崎さんは俺を被害者に仕立て上げたかったのか?」と囁くように尋ねられた。

 汐屋の左手の全ての爪を塗り終え、私は顔を上げた。意思の読めない双眸と視線が絡み、私は目を眇めた。

「そう」

 声音は冷たく響く。

「私は汐屋に、私の言動によって傷つけられて欲しい」

 仕返しだとか、おあいこだとか、そんな見せかけのバランスの問題じゃなくて、汐屋が捧げた信仰に、私は私の信仰で応えただけなのだ。

「反対の手、出して」

 命じれば、言われるがまま汐屋は右手を差しだした。今度は親指から順に、汐屋の爪を透明な光で満たしていく。

 ――女の子は、おしとやかな方がいいから。

 私の家では両親が絶対神で、彼らの言うことが正義だった。

 ――もちろん、青色や緑が好きでもいいのよ。でもママ、澪にはピンクや水色が似合うと思うな。

 ――澪の好きなようにやりなさい。だけど、パパやママをがっかりさせないでね。

 両親は私を否定せず、それでも緩やかに私の首を真綿で絞めた。

 ――澪は元気がいいな。だけどパパは、女の子らしい行儀のいい子が好きだな。

 清く正しかったはずの両親は、それぞれ外に恋人を作り、家に帰らない。

 なんだ。神様なんて、ぜーんぶ嘘だったんじゃん。

 悟った後も、私は信仰を捨てられず、殉じる覚悟もなく、持てあましている。

「ほら、できたよ」

 汐屋に言うと、彼は無感動に己の爪へ目線を落とす。

 私は私に絡みついて離れない宗教を、呪いを、裏返して投げ捨てたくて、暴発させている。

 だから何だ。私の足掻きが私を殺すなら、望むところだ。私を切り裂け。

「乾くまで、どこにもふれさせたら駄目だよ」

 唇の端を吊り上げる。

 私はなめらかに整えた指先で、マニキュアボトルをひとつ摘まんだ。汐屋の目前にことりと置く。厚い硝子に閉じ込められた、ワインレッドのリキュールネイル。

「綺麗でしょ」

「……うん」

「見たくない?」

「え?」

「爪に塗ったの、見たくない?」

 乾燥して皮のめくれた唇を、汐屋は引き結んだ。密集した睫毛が影を作る。

 汐屋は決して是と言わない。なぜなら、認めた瞬間に私たちのこの歪で不安定な関係は、脆く崩れ落ちるからだ。そして決して戻らない。

 私は椅子の座面に、右足を折り畳んでのせた。スカートから零れる私の白い太腿に、汐屋の黒い眼が縫いとめられる。

 踵を浮かせ、内履きの履き口に指をかける。埃にすすけた内履きを抜きとり、床に落とした。ぺしゃり、という乾いた音が静謐な空気に響く。

 汐屋に一瞥をやって、その動揺を薄く笑い、私は紺のソックスを引き抜いた。

 生地に覆われていた生足が、空気にふれ皮膚の神経を敏感にする。私は足をそっと椅子から下ろし、腰を前にずり落とし、向かいに座る男の元へ足を伸ばした。

 足先が、汐屋の膝にふれる。

 椅子に浅く腰かけ下がった目線で、汐屋を見る。

「どう」

「へ」

「爪、綺麗でしょ」

 私の足先の、澄んだワインレッドに彩られている五つの爪に、汐屋の視線が注がれる。

 靴下と靴に隠れ、日焼けひとつない薄い肌が、汐屋のつぶさな観察に晒される。

 私は踵でぐっと汐屋の膝を押した。冷徹な瞳が私と向き合う。

「俺は正直、マニキュアのよさなんて分からない」

「は」

「爪が赤いのなんてどう考えても不自然だし、美しいとも思わない」

 私は汐屋を睥睨する。私の視線に臆することなく、平然と彼は口を開いた。

「俺のために塗ったの」

「あ?」

「高崎さん、俺に見せるために塗ったの」

 私は瞠目し、表情を凍りつかせた。誰が、あんたのために。前のめりに喚く心を、「本当に?」と押しとどめる声がする。

 陰気な調子で、汐屋は続ける。

「高崎さんが綺麗だと思って自分のために塗ったマニキュアなら、俺はいいと思う。それは高崎さんの一部だから。だけど、俺に見せるために塗ったのなら、それはもう俺の信仰する高崎さんじゃないから、やめて欲しい」

 私は小さく舌打ちを漏らし、汐屋の膝から足を下ろした。座面の腰の位置を正し、落とした靴下と内履きを拾い、淡々と身につけていく。

 並べたマニキュアボトルを乱雑にポーチへ押し込み、引っかかりながらもチャックを閉める。ポーチを鞄に入れ、私は足を組んだ。

「あんたがどう感じようが、私の選択が全部私だから。遠回しに命令してんじゃねーよ」

 汐屋がわずかに眉間に皺を寄せる。私は机の上にノートとペンケースを乱暴に置いた。

「汐屋が何を尊んで、何に怯えているか知らないけどさあ、神様を否定するのが信仰とか、笑わせんなよな」

 私はノートをひろげ、シャープペンシルを取りだす。俯き、手を動かしながら言った。

「汐屋は爪、乾くまで課題したら駄目」

 言いつけ通り、汐屋は机の上で中途半端に両手の指を開いたまま、微動だにしない。私は有機溶剤の匂いが気になって、立てつけの悪い窓を開けた。薄橙と薄紫が滲んだ空から、初夏の風が吹き込んで、汐屋の重苦しい髪を揺らした。毛先が細かく肌を擦っても、汐屋の指はかすかに揺らぐことさえしなかった。

拙作をお読みくださり、ありがとうございます。

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