痛み
食事を終え帰る俺を、澪が外まで見送ってくれた。
「急に来て、ごめん」
苦笑する俺に、澪は「ううん。来てくれてありがと」と笑う。別れを告げて俺はアパートの外階段を下り、踊り場で振り向き声を張り上げた。
「やっぱりさ、自分といると不幸になるなんてさ、そんなの思い上がりだよ。神様にでもなったつもり?」
目を見開いた彼女がこちらを見下ろす。
「澪。ねえ、澪」
祈るような気持ちで呼びかける。
「信じて」
彼女の肩がびくりと揺れた。俺は一歩足を踏みだした。
「澪が幸福な未来を信じられるよう努力する。でも、信じることは澪にしかできない。だから、信じて」
言葉は熱に溶けて揺れる。
「俺は澪を救えない。あのとき、澪が怒っていたのは、俺が澪を救おうとしたからじゃないのか」
――澪が寂しい思いをする時間が、少しでも減ればいいと思う。
そう言った後の、彼女の峻烈な怒り。今なら分かる。あのとき、俺は澪を下に見て、幸福へと引き上げようとしていた。
でもそれは間違いなのだ。俺と澪は、どこまでも水平な地上に立って、生身の体で対等に向き合っている。
「澪にしか澪は救えない。だから、澪が自分を信じてくれ」
彼女が真剣なまなざしで俺を見る。
「私にだって、自分なんか救えないよ」
彼女は怒っていた。どうしようもなく耐えてきた、全てに。
俺には彼女の怒りを正しく理解することも、怒りの原因を消し去ることもできない。
だけど俺は、澪の強さも弱さも近くで見てきた。
「できる。俺が保証する。足りないなら、俺も信じる」
「どうして信じられるの」
体を強張らせ、固い声で澪は問う。簡単なことだった。俺は笑って答える。
「だって、澪がいてくれるだけで俺は幸せな気分になる。そんな澪が、幸せになれないはずないだろ」
澪は一歩後ずさった。その声が不安に揺らいでいた。
「何で、いるだけでいいなんて言うの。私、何もしてないよ。慶に何もできてない」
俺は階段に足をかける。
「それでいいんだ。俺は、何もしてない澪を好きになったんだから」
澪が弱々しく俯いた。
「それを信じることは、怖い」
「どうして」
彼女の瞳は、車体の下に隠れる子猫に似ていた。
「幸福を信じて不幸に落ちたら、死んじゃうよ」
首が痛くなるほどに俺は澪を見上げ、言った。
「死ぬほど怖いなら、俺と一緒に死ぬ覚悟で、信じて」
唖然とした顔で、澪はしばらく黙り込んだ。衝撃はやがて呆れに変わったようで、彼女はかすかに眉間に皺を寄せたが、しかし結局、困り顔で噴きだした。
「不幸になるより、慶が死ぬ方が辛いって」
澪は笑顔で階段を降りてきた。確かにその表情は緩んでいるのに、彼女の頬にひとすじの光が伝う。
それは、俺が初めて見る彼女の表情だった。澪の心に口を開けた傷は、行き場を失くして彼女の瞳から溢れる。彼女の傷口に輝く秘められた問いを、俺はずっと探し求めてきたように思う。
濡れた顔で澪は微笑む。
「信じるよ。うん。信じる」
ずっと、傷つくのが怖かった。
俺の大切なものは、弱く脆いものばかりだ。一瞬で過ぎ去り、簡単に崩れ、手から零れ落ちる。けれど傷だらけで泣く澪を見ていると、痛みを受け入れることは、世界の全てを肯定することに思えてくる。
澪がこちらへ手を伸ばし、その手を俺が取った。夜の闇が光を吸い込んでも、澪の潤んだ瞳は星が宿ったように輝いていた。
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