見舞い
今月から制服が夏服に衣替えしたが、梅雨入りのせいで気温が下がり、上着と傘が手放せない。放課後のざわめく空気の中、湿気の満ちた廊下を歩き、俺は澪のクラスへ向かう。開け放されたドアから教室を窺うと、ゆったりとしたキャメル色のカーディガンを着た澪の姿が見えた。
彼女は浅く椅子に腰かけ、頬杖をついて周囲に集まった友人たちと談笑している。男子とも女子とも臆せずに笑い合う澪は、華々しい雰囲気を放っている。それを見ると、やはり彼女は自分の隣にいるよりも、クラスの目立つグループの友達に囲まれている方が相応しいと思ってしまう。
俺が澪に声をかけられず教室の入り口に佇んでいると、彼女の方が先に俺に気づき、友人に手を振って輪から抜けだしてきた。
「ごめん、おまたせ。帰ろ」
昇降口で俺が傘をさすと、澪は当然のように俺の傍らに滑りこんでくる。彼女の鞄には折り畳み傘が常備されているそうだが、俺の隣でさしているところを見たことがない。
雨に濡れた髪の毛先を撫でつけ、澪が俺を見上げた。
「慶は進路調査、もう書いた?」
「……書いてない」
俺は傘を澪の方へ傾ける。薄手のアウターを羽織った俺の肩に雨が染みてくるが、気にするほどでもない。澪が湿った指先を、傘を支える俺の手に重ねた。
「私、県外行くかも。もし遠距離になったらさ、自然消滅とかするのかな」
彼女は、俺の柔い部分に平気でふれるくせに、不躾に線を引くのもためらわない。本当に酷い。悪辣だと思うのに、それでも彼女の手の温度に縋ってしまう。
「……澪」
「ん?」
鼻にかかった声で返事をし、小首をかしげる恋人に、決死の思いで打ち明ける。
「俺のばあちゃんさ、癌になったらしくて。胃癌だって」
「え……」
澪が足をとめたのに合わせ、俺も立ちどまった。傘を叩く雨音が一層大きくなった気がした。
「情けないけど、俺、どうしたらいいか分かんなくて。ばあちゃんのこと避けちゃって、そしたらあっという間に入院しちゃって……ほんと馬鹿だって思うんだけど……」
呆然とした表情で澪は首を振った。
「慶は悪くないよ。今からでも、おばあちゃんと向き合えばいい」
俺は待ち受ける悲しみに耐えきれず、澪の顔を覗き込んだ。
「澪、またばあちゃんに会いにきてくれる?」
狡い問いだと自分でも思う。一人で持てない荷物を、澪にも手渡そうとした。本来ならば、自分で背負うべき痛みなのに。
澪は唇を震わせ、視線を逸らした。
「私は……会わない方がいいよ。もう慶の家族には会わない」
鋭い言葉が胸に突き刺さる。
確かに、俺たちはまだ家族ぐるみで付き合っていくほど、深い関係ではないのかもしれない。それでも、澪が俺の家族の輪に入って笑っていた過去があるから、拒絶されるのが辛かった。
「何で。会ってよ」
躍起になって澪の手首を掴むと、彼女は痛ましげに顔を歪める。
「会えないよ。私、駄目だもん」
「何がだよ」
「私、周りの人を不幸にするから」
「はあ?」
思いもよらぬ言葉に俺は眉根を寄せた。聞き間違いじゃないよな? 澪が誰を不幸にするって? どういう意味だ? どうしてそんな思考になる?
「澪……」
問い詰めようと力を込めた俺の手をぱっと払い、澪は鞄から折り畳み傘を取りだした。傘をひろげ、彼女は俺の傘からするりと抜けだす。煙る雨粒のカーテンの向こうで、澪が俺に微笑んだ。
「ほら、慶は今からでもお見舞い行ってきな」
「澪」
行かないで。
手を伸ばしたが、彼女は身を翻し、雨の中を駆けていく。澪のローファーが蹴った水たまりが、ばしゃりとアスファルトに打ちつけられるのを、俺はただ見送ることしかできなかった。
雨に一人残された俺は、傾けていた傘を持ち直し、覚悟を決め病院へ向かった。バスをのり継ぎ、市民病院へ到着する。清潔な白い廊下ですれ違うと、患者も医師も看護師も見舞客も、誰もが途方もない問いを胸に抱いているように見えて眩暈がした。
四人部屋の通路側のベッドに、祖母は眠っていた。
「慶、来たの」
ベッド脇でタオル類の交換をしていた母が顔を上げた。ベッドを挟んだ向かいでは、認知症の祖父が丸椅子に座って、眠る祖母の手をじっと握っている。
俺はドア付近に佇んで、やがて母に「帰ろ」と声をかけられるまでずっと、皺まみれの手が相手を慈しむ様子を眺めていた。帰る頃には雨脚も弱まり、雲の向こうから陽光が滲み、鈍く光る空が駐車場の水たまりを白く照らした。
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