押し花
日没後の暗がりを背負いながら玄関の戸を引くと、廊下から祖母がこちらを見た。
「おかえり、慶」
彼女の皺だらけの手には、夕暮れ色を煮詰めたような、鮮烈な花弁が数枚のせられている。
「どうしたの、それ」
靴を脱いで問うと、祖母が靴箱の上の花瓶に目を遣った。仄暗い玄関で咲き誇る花の群れは、沈みゆく太陽に似ていた。
「隣の佐伯さんにもらったポピーの花びらが落ちちゃったから」
皮膚の突っぱった指が、花瓶の周囲に散った花の欠片を拾い上げる。
「捨てんの?」
「気になる?」
にやりと口元の皺を深くして祖母が笑う。
「いや、別に」
わずかに身を引いた俺に、祖母が背を向けた。
「いいから、見においで」
俺は苦笑し、先導されるままに祖母の部屋へと入った。ただでさえ狭い家の彼女の自室は、衣装棚やら大きな人形やらが密集し、更に窮屈に感じる。
祖母が床に並ぶテディーベアを越えて本棚に手を伸ばし、横倒しに積まれた辞典の上から仏和辞典を手に取った。
鏡台の上で皺にまみれた手が辞典を開くと、重ねられたティッシュペーパーが現れる。それを一枚剥ぎ取ると、中には桜の花が挟まれていた。
「押し花?」
「そう」
祖母が、整列した桜のひとつを摘まみ上げた。薄く押しひろげられ、セピア色に褪せた花は、それでも春の儚さを纏っている。今にも風に飛びそうに繊細な花を眺め、祖母が微笑む。
「私にとって押し花はね、タイムカプセルなんよ。お花の美しさとね、楽しかった記憶を一緒に未来へ運べるの」
「へえ、なんかいいね」
俺が相槌を打つと、祖母は鏡台の上にポピーの花弁をのせた。
「慶もするかい?」
「俺、不器用だからなあ」
首を振る俺の横で、祖母は辞典のページをめくり、ティッシュペーパーを被せる。その上に、鮮やかな朱色の貝殻に似た花弁を並べていく。
祖母の繊細な手つきを眺めながら、俺は静かに口を開いた。
「ばあちゃんはさ、どうしてじいちゃんと結婚したの?」
美しい花びらから目を離さないまま、彼女は言う。
「優しそうな人だと思ったからだよ」
「じいちゃん、優しかった?」
小さく噴きだし、祖母は悪戯がばれた子どもみたいに笑った。
「まあ、だいたいね」
夕陽の欠片を、ティッシュペーパーが覆い隠す。
「結婚して、幸せだった?」
「あんたからは、どう見える?」
「そりゃあ……」
半笑いで、俺は一瞬言い澱んだ。ばあちゃん、幸せだったよね? 違うの? 違ったら、どうしよう。
仏和辞典のページを閉じ、祖母が俺に向き合った。感情の凪いだ、静謐な表情だった。
「ばあちゃんね、癌だって言われたの」
瞠目し、俺はかすかに唇の合わせ目を開いた。息を吸ったのか吐いたのか分からないが、喉がひゅっと鳴った。
「……父さんと、母さんは……」
違う。そんなことが言いたいんじゃない。それだけは分かるのに、何を言いたいのか、何を言うべきなのか、祖母はどんな言葉を期待しているのか、何もかもが一瞬で分からなくなって、ただつまらない質問を零して口を噤んだ。
「うん、二人とも知ってるよ。真千佳にもこれから話すつもり」
祖母のまっすぐな目が怖かった。思わず視線を逸らすと、たしなめるように、なだめるように、「慶」と名前を呼ばれる。俺は顔を上げることができず、ただ身を固くして彼女の声を聞いた。
「ばあちゃんは幸せだよ。あんたたちと出会えて、幸せじゃなかったことがない」
確かに祖母の声は肉親へのあたたかみを帯びているのに、どうしてか俺の鼓膜には、死刑宣告みたいな冷たさが響いた。全身が強張り、ぬいぐるみが放つ埃の匂いがやけに鋭く感じられて、目頭が熱くなる。ただ、仏和辞典に閉ざされた落日が恋しかった。
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