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神様を撃ち堕としたいけれど!  作者: 砂原翠
きみの戒律を破らせて
19/28

水族館

 白い春の日差しを浴びて、ワンピースの裾が軽やかに揺れる。澪はいとけなく体重を預けるようにして俺の腕を引き、目を輝かせた。

「慶! 見て、ペンギンが歩いてるよ!」

 澪の弾んだ声に、俺は手元のパンフレットに目を落とす。

「えーと、『ペンギンとことこお散歩ショー』だって」

「ねえ、ペンギンと写真撮ろうよ! ほら、走って!」

 彼女につられて俺も走り出す。俺たちは休日の午後、水族館に遊びに来ていた。屋外に設置されたペンギン水槽付近に人だかりがあり、その先の細い通路をペンギンの群れが飼育員に先導され歩いていく。

 目の脇から顎のあたりまで白い半円模様があるフンボルトペンギンが、短い水掻きのついた足でよちよちと進んでいく。その愛らしい姿に、心があたたまる。

 人だかりが途切れたあたりに澪が体を滑り込ませ、俺を手招きする。

「慶の方が腕長いでしょ。撮ってよ」

 澪に促され、自撮り用にスマートフォンを構えるが、どうやっても俺か澪のどちらかが見切れてしまう。しかも、慣れていないので画面が安定しない。

「うわ、自撮り下手か! いいよ、私が撮る」

 澪がさっとスマートフォンを取りだし、慣れた手つきで構える。ちょうどその時、俺たちの背後にペンギンの行進がやってきた。

「ほら、慶、笑って」

 俺の腕を軽く肘で小突き、澪が囁く。

「笑ってるよ」

 弁明するが、画面に映る澪の笑顔と比べ、俺の笑みはどう見てもぎこちない。

「引き攣ってるよ! もっと自然な笑顔!」

 口元の筋肉に力を入れると、唇が不自然に震えた。

「こう……?」

「もー、下手! うりゃ!」

 澪が小さく声を上げ、空いた手で俺の脇腹を擽った。細かく蠢く指先に、擽ったさが込み上げ、思わず笑い声が弾けた。

「うわ、ははっ」

 笑った反動で上体が跳ね、隣にいた澪にぶつかり、彼女の体が揺れた。

「あー!」

 澪が悲鳴を上げた。彼女の手からスマートフォンが滑り落ち、それを慌てて拾い上げ再び構えた頃には、ペンギンの群れが既に通りすぎた後だった。

「行っちゃった……」

 悲しげに呟き、澪が軽く俺を睨んだ。

「もう、慶のせい!」

「え、俺のせい?」

 首をひねる俺を澪がきっと睨み上げ、スマートフォンをショルダーポーチにしまうと、両手で俺の脇腹を擽ってきた。

「うわ、ちょっと、やめ、ふはっ」

 俺の口から情けない笑い声が飛びだし、庇うように引いた俺の腹を、澪の手が容赦なく攻め立てる。

「澪、こら、もう!」

 防戦一方だった俺は、澪の攻撃を弱めない両腕をすり抜け、彼女の腹に腕を伸ばした。

「えっ? 馬鹿、ちょっと、あははっ」

 澪の柔く薄い腹を両手で擽ると、彼女は体をくねらせ笑い声を上げる。仕返しに俺が擽り続けると、澪が俺の手を押さえ、目尻に滲んだ涙を拭った。

「もー仕方ない、エアペンギンと撮ろ」

 スマートフォンを構え、澪が笑う。

「ただの通路じゃん」

 俺が指摘すると、彼女は頬を膨らませ、「ペンギンが歩いた栄誉ある通路なんだから、いいの」とおどけて言った。

「撮るよ! にこっ!」

 溌溂と、澪がカメラアプリの撮影ボタンを押す。撮られた写真は満面の笑みの澪と、片頬を引き攣らせた俺が映っていた。

「笑顔、へたー!」

 澪が腹を抱え、大笑いする。穏やかな陽光が彼女のきめ細やかな肌で弾け、光の粒が彼女の笑い声にのって、ぱちぱちと甘い春風に舞った。


 水族館の中は、海とは似て非なる命の気配で溢れている。青にくすんだ通路を歩くと、潮風を思わせる生と死の香りと、生活の匂いが入り混じって全身を包む。

 水槽の青を纏って泳ぐマイワシの大群の上で、照明から零れる白銀が、水面に反射してたわむ。透き通って差し込む光芒が、水中を舞うカラスエイの背に波打って、軌跡を引いた。

「けーい、手!」

 たゆたう光の中をバンドウイルカたちが優雅に飛び交うトンネル水槽の先で、澪が俺の方へ手を伸ばした。開かれた薄い手のひらに吸い寄せられるように手を重ねると、澪がわずかに眉根を寄せる。

「違う、こう」

 細い指が、俺の指の股に滑り込む。

「えへ、恋人繋ぎ」

 悪戯な笑みを浮かべた彼女に見惚れていると、「反応うすーい」と澪が唇を尖らせた。

「照れてるんだよ」

 正直に申告すると、彼女は蝶のように睫毛を瞬かせ、顔を顰めた。

「ちょっと、こっちが恥ずかしいじゃん」

 円筒型の水槽を、ゴマフアザラシがゆったりと尾をはためかせ登っていく。揺らぐ水流の影に添わせるように、澪が指先でアクリルガラスにふれた。

「ねえ、慶ってどうして友達いないの?」

 突然の鈍器を思わせる問いに俺が呆然としていると、「どした?」と澪が覗き込む。

「いや、予想外のところから殴られたから……」

 緩く首をかしげた彼女に、苦笑して言う。

「えっと、それは俺に人間的魅力がないからじゃないかな……」

 俺の返答に、澪は目をまるめて声を張り上げた。

「えー? そんなことないよ、慶は面白いって」

「それは恋人の欲目じゃない……?」

 苦々しく目を細めると、澪が繋いだ手に力を込める。

「違うって。慶に魅力がないんじゃなくて、慶が閉じてるんだよ」

「はあ。俺、閉じてる?」

 淡々と言葉を繰り返すが、思い当たる節がない。

「うん、なんか周囲を拒絶してるじゃん。心、閉じてるよ。何で?」

 澪の問いかけに、一瞬手のひらの上で冷たく伸びたハムスターの姿が浮かんだが、泳ぎ去るアザラシの影に幻を霧散させる。

「うーん、閉じてるつもりはなかったけど……」

 展示はクラゲのエリアに移る。暗い部屋の中で、クラゲが揺らめく球状の水槽だけが、青白いライトで照らしだされていた。

 あくびのようにふわふわと繊細な触手をなびかせ、ミズクラゲが水中を漂う。半透明な傘がゆったりと開いては窄まっていく様は、花の一生を繰り返しているかに見える。

「二年になってクラスも離れちゃったしさ。どうせ一人でご飯食べてるんでしょ、心配だよ」

 幻想的な水風船を眺めて、澪が笑う。澪と一緒のクラスだったときは、彼女が無理やり俺を自分のグループに引き込んだので、俺は半ば存在が浮きながらも賑やかな日々を過ごしていた。

 実際、俺が今のクラスでひとり昼食を取っているのは図星だったので、俺は黙ってカラージェリーフィッシュのぴょこぴょこした拍動を見ていた。小さなクラゲが水槽を行き交うさまは、まるで綿雪がめいめいに跳ねているみたいで微笑ましい。

「もっと心開いて話してみれば、慶のこと好きになってくれる子も、いっぱいできるのにな」

 青白いライトが反射した恋人の横顔に、俺は口ごもり、「いっぱいは、できなくていいけど」ともごもご応える。アカクラゲの華麗にたなびく触手を目で追いながら、澪が言った。

「ほら、慶はいいパパになりそうじゃん。結婚相手、どんな人かなー」

 それはあまりにもあっけらかんとした声だったので、俺は一瞬思考をとめ、口を半開いた。

「え?」

「優しくておっとりした人かな? それとも、慶のママみたいに自由な感じかな?」

 俺を見て笑いかける澪の姿が、酷く遠く感じた。

「……澪は?」

 辛うじて問い返した俺の言葉は、掠れていた。

 確かに、澪と必ず結婚するなんて夢見がちなことを考えてはいないけれど、それでも終わりを見据えた関係だと明言されるのは辛かった。俺の決死の問いを、しかし澪は笑い飛ばした。

「私? 無い無い。だって私、結婚向いてないよ、多分。興味も無いしさ」

 手を繋いだまま、クラゲエリアを抜ける。ふれた手のひらは間違いなく彼女の温度を知覚しているはずなのに、なんだか体の芯から冷え切って、現実味が薄れる。

 絡めた手を幼い仕草でゆらゆらと揺らしながら、澪が口を開く。

「この前さー、うちの親離婚して」

「そうなんだ……」

 明るい通路の先には、ペンギンのエリアに続いていた。プール際で、エンペラーペンギンがぐるりと首を回し、甲高い鳴き声を放った。

「うん。だから私、もう高崎じゃないよ。津島澪だから。変な感じでしょ」

「澪は、澪だよ」

「ありがとー。うちの親見てるとさ、結婚に希望持てないっていうか。慶ん家は仲良くていいよね」

 大きく胸を膨らませ、エンペラーペンギンが羽を素早くはばたかせた。細い嘴で天をくいくいと突く様子は、なにかを探しているようにも見える。

「そうかな」

 俺がぎこちない声で言うと、澪は「あ、ごめん。楽しくない話したね」と声のトーンを落とした。

「そんなことない。話してくれてありがとう。力になれることがあったら言って」

 プールから上がったペンギンが、プール際のペンギンに近づいていく。水中のなめらかな泳ぎとは程遠いよたよたとした歩みで、寄り添うように距離を詰める。

「平気。気にしないで」

 澪は繋いだ手をぱっと解き、ペンギンのプールに背を向けた。そのまま迷いなく出口へと向かって行く。

 館外へ出ると、空は夕焼けの赤に燃えていた。水槽の青に慣れた瞳を、鮮烈な夕陽が容赦なく焼き尽くす。

 逡巡を押し殺し、俺は澪に向かって手を伸ばした。言葉で馴れ合うことはできなくとも、皮膚同士がふれれば、神経から何らかの感情が混じり合えるのではないか、と思った。

 けれど、二人の熱が重なる前に、こちらを見た澪の双眸にさっと怯えが走った。不自然さのない、しかし決定的に俺と調子の噛み合わない動作で、澪が身を翻す。

「今日は楽しかった。ありがと」

 彼女の表情は笑みを象ったまま、一歩俺から後ずさる。

「いつ別れるか分からないしさ、思い出作れてよかった」

 逆光が目に染みて、俺は顔を歪めた。

「また、来ようよ」

 思いのほか弱々しい声を出した恋人を憐れんだのか、澪が再びするりと手を絡めた。

「うーん、次は遊園地がいい」

 かすかに身を竦め、蠱惑的に微笑む澪の横顔が夕映えに翳るのを、俺は見ていることしかできなかった。畳んでいるはずの瞼の裏で、クラゲの触手が流されるようにはためいた。

拙作をお読みくださり、ありがとうございます。

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