告白3
日曜の朝十時ごろ、私は汐屋家のインターフォンを押した。
安いブザー音が外に漏れ、足音が室内から近づいてくる。玄関戸を開けたのは、慶の祖母だった。
「澪ちゃん。よく来たね」
皺だらけの笑みが、私を家に迎え入れた。玄関で靴を脱ぐとき、爪を折った小指の痛みが消えていることに気づいた。あの日から、それだけの時が過ぎた。
居間に通されると、そこには慶以外の汐屋家の人間が揃っていた。慶の祖母に促されるままに座布団に腰かけると、神妙な空気が流れる。私は震える喉を叱咤し、口を開いた。
「慶君が学校休んでいるの、きっと私のせいなんです。酷いことしたんです」
静寂が落ち、私は身を強張らせた。どんなに責められても構わない。覚悟をしてここに来たものの、それでも心を武装できたはずもなく、ただ怯え、貫かれる痛みを待った。
私の前に、湯気の立つ湯飲みが置かれた。慶の祖母が、緑茶を淹れてくれたようだった。
「謝りに来てくれたの?」
柔らかい口調で問われ、私は正座の背筋を伸ばす。
「はい。私なんかが会っていいのか分からないですけど……」
弱々しく消えた語尾の余韻を、真千佳のあっけらかんとした声が掻き消した。
「痴話喧嘩は、二人で勝手にやりなよー」
慶の母が、座卓に頬杖をついて気怠げに言う。
「まあ、子ども同士の話だからね。自分たちで解決したらいいよ」
小さく息を吐き、慶の父が額に手を遣った。
「親としては、息子を傷つけた相手を許したくない気持ちはあります。でも、許すか許さないかは慶が決めることだから。慶と話しておいで」
視線が交わる。真摯であたたかいまなざしに私が唇を引き結ぶと、背中に厚く優しい手がふれた。背後に顔を向けると、慶の祖母が目元の皺を一層深くして笑っていた。
「私は慶に謝りに来てくれた澪ちゃんを信じるよ。あんたはいい子だ。きっと慶と仲直りできる」
彼女は私の背筋から手を離し、皮膚のたるんだ手で私の頭をそっとふれるように撫でた。頭髪越しに伝わる体温に、胸が詰まる。脳裏に行き交った感情を飲み干し、私は微笑んだ。
「……はい」
狭く急な階段を上ってすぐの部屋が、慶の自室だった。ドアをノックすると、小さな声が応えた。
「どうぞ」
慶の部屋は、子ども部屋と呼ぶのがぴったりだった。小学校入学から使っていそうな、勉強机とベッドと青いカーペット。大きな本棚には絵本や学習漫画から、文庫本や新書までぎっしりと詰まっている。
ベッドの上の布団がもぞもぞと動き、慶が上体を起こした。
「澪、会いに来てくれてありがとう」
私は首を振り、ベッド脇のカーペットの上に腰を下ろした。
「体調……悪いの」
「少し。でも澪に心配して欲しかっただけかもしれない」
「……そう」
「怒る?」
私は再び首を横に振った。「私は怒る立場にないから」と言うと、「俺は澪に怒って欲しかった」と慶は寂しげに笑った。
「俺は澪をずっと信仰してて、でも澪と向き合うためにやめなきゃと思って、だけどやめ方が分からなくて間違った。澪に同情することで、ようやく対等になれたように錯覚したんだ。ごめん」
私は瞠目し、「違う!」と声を放った。
「違う。……怖かったの。私の形が慶に規定されて、どんどん変わっていくのが怖くなった。慶が可哀想だと思えば、自分が可哀想な人間になると思ったの。だから慶から逃げた。避けて、無視して、ごめんなさい」
慶がベッドから腕を伸ばし、私に手を差しだした。私は恐る恐る、その手にふれた。布団の中でぬくまっていた、高い温度に心がほどけていく。
「ねえ、もうやめようか。私、駄目だよ。慶には幸せになって欲しいから、私は相応しくない」
瞼を閉じると、陽だまりの匂いがした。人を愛すれば、愛するがゆえに、手放さなければいけない瞬間が来る。そのことが、痛いほど分かった。
「私、慶のことを思い通りにしようとしてた。自分のことだって思い通りにできないのに、何やってんだろうね」
慶のあたたかで、仄かに湿度を持った手に頬を寄せた。私はこの手を離すべきであり、そもそもこの手は元から私のものではなかったという事実が、身を引き裂かれるほどに辛かった。
私は、慶のことを自分の分身みたいに思っていたのだ。私たちは正反対で、噛み合わず、衝突してばかりだったけれど、この世に生まれるときに失った半身をやっと見つけたような気がしていたのだ。でも結局のところ私たちは他人で、運命の相手なんかじゃない。生身のひとりとひとりだ。
滲んだ涙を押し潰すように瞼に力を込めたとき、私の額に柔らかな感触が当たった。
「何で?」
涙も引っ込んだ。慶がキスしたのだ。呆然とした顔で問う私に、慶が困惑した様子で答える。
「えっと、可愛かったから」
私は眉根を寄せて声を尖らせた。
「話、聞いてた? 私もう、慶のこと好きでいるのやめるってば」
慶が笑う。呆れるような、抱擁するような笑顔だった。
「やめようと思ってやめられるなら、俺たちこんなことにはなってないんじゃない?」
私は唇をわななかせ、言葉を飲み込んだ。反論なんかできない。私たちはもう引き返せない所まで来てしまった。繋いだ手に、慶はもう一方の手を重ねた。
「いいじゃん。こうなったら行ける所までとことん行こうよ」
彼の熱が、私を包む。
「澪。好きです、俺と付き合ってください」
私は逡巡して、視線を彷徨わせた。期待、不安、羞恥、恐怖、様々な感情が胸中に去来し、その果てに凪いだ。私は、諦めたように微笑む。
この人を好きでいるのに、疲れた。だけど、私はもっと苦痛にまみれてから死にたい。地獄に落ちたって、怖くないくらい。
「私の負け。好き。付き合って」
縋るように合わせた唇は、表面は乾いているのに、内側がじっとりと湿った熱を持っていて、なんだか変な感じだった。二人の呼気が溶け合って、あたたかい唾液に飲み込まれた。
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