両親
窓から明かりが漏れる自宅に帰るのは久々だった。少し息を詰めながら玄関に上がる。
電灯のついたリビングには他人の家のような、見知らぬ気配が漂っていた。訝しみながら洗面所へ向かおうとドアの正面に立つと、独りでにドアが開いた。
「わっ」
私が驚いて仰け反るのと同時に、ドアを開けたスーツ姿の男も目を瞠った。
「何でいるの」
呆然と私が尋ねると、やつれた表情の男、半年ぶりに顔を合わせた父が仄かに笑った。
「澪。また背が伸びたか?」
いやそれ、たまに会う親戚のおじさんの台詞だから。もしくは単身赴任してる父親の台詞。
私が黙って半眼で見つめると、父は口元を引き攣らせて私の脇をすり抜けた。そのまま父は玄関に向かう。
上がり框で革靴を履く背中に、私は声をぶつける。
「ねえ、どうしてお母さんと別れないの」
背広に張りつめた皺に問いかける。
「私が邪魔なの?」
父が動きをとめ、ゆっくりと振り向く。
「違う、澪が大切なんだ」
私は鼻で笑った。
「嘘が上手だね」
「嘘が下手だから、こんなことやってんだよ」
言われなくても知ってる。私は言葉を飲み込み、父の顔を見た。彫りの深い、疲労の濃い顔。肌とかこんなに萎れて弛んでいたっけ?
目元に皺を集めて、父は微笑む。
「澪は、俺らみたいになるなよ」
「言われなくてもならないから、安心して」
突き放すように言えば、一瞬父は口を噤み、けらけらと力ない笑い声を漏らした。むっとして眉根を寄せる私に、彼は笑いかける。
「澪は昔からしっかりしてたからなあ」
はあ? 私は顔を顰めた。
――澪の好きなようにやりなさい。だけど、パパやママをがっかりさせないでね。
そう言ったのは、あんたじゃないか。私を一切認めず、真綿で縛って引きずり回したのは、あんたじゃないのか。
それを、どの口で。私は両手の拳を握り、そして緩めた。
「お父さんは昔からいい加減だったもんね」
父は煙を吐くように細く笑い、玄関を後にした。薄暗い三和土には、まだ薄らと他人の空気が流れている。
こんなもんか、と私は思う。こんなに馬鹿で、だらしなくて、下らなくても生きてていいんだ。いいのか。
それなら、愚かで取るに足りない私だって、きっと生きていてもいいんだろう。
制服のスカートのポケットで、スマートフォンが振動した。取り出して画面をつけると、眩い明りが一瞬眼球を焼いた。
慶からのメッセージが届いていた。
『もう一度話をさせてください。ちゃんと向き合いたいです』
私は発光する画面を見つめ、瞼を閉じた。暗がりに残光が淡く浮かぶ。
慶。私は息だけで呟き、スマホを胸に抱き寄せた。静寂が鼓膜を揺らし、鼓動が走った。
自分以外がつけた電灯でリビングが明るいことが、こんなにも心強いのが不思議だった。その事実が屈辱でも救いでもあるように思えて、睫毛が震えた。
翌朝は土曜日で、普段よりも遅めに階下に降りると、一階は甘い香りで満ちていた。
「おはよう、澪。そろそろ起こしに行こうかと思ったの」
私はまだ眠気が貼りついた目を擦った。
「急にどうしたの」
ダイニングテーブルの上には、卵色に輝くフレンチトーストが並べられている。母が、二人分のマグカップの中に電気ケトルのお湯を注ぎながら言う。
「澪に、今までのことを謝りたくて」
私は目を見開いた。母に促されるまま、テーブルに着く。
母がマグカップの中に、紅茶のティーバックをゆっくりと沈み込ませた。水面が揺らめき、紅い煙が滲みでる。かぐわしい湯気が立ち上った紅茶を、母は私に差しだした。
「何? かしこまって怠いんだけど」
受け取りながら眉を顰めると、母は乾いた声で笑い、まっすぐに私の瞳を見た。
「あなたを置いて、自分勝手に生きていたでしょう。本当にごめんなさい」
「別に、今更……」
私は反射で飛びだしそうになった言葉を飲み込み、静かに呟いた。
「……お母さんたちも、何が正しいか分からないまま生きてるんだね」
唇に笑みを湛えながら、母はそっと睫毛を伏せた。彼女は自分のマグカップの中にティーバックを沈め、紐で繋がれた持ち手を摘まみ、水中で揺らす。
「未来が分かる人はいないでしょ。皆、生きるのが怖い。だから、お母さんもお父さんもこの家から逃げたの」
紅く染まったマグカップの中からティーバックを持ち上げ、彼女は滴る濃い雫を見送り、ティッシュペーパーに包み屑籠へ捨てた。
「昨日、恋人と別れてきたの」
私の喉がひゅっと鳴った。淡々と話す母が、言いようもなく怖かった。
「どうして、好きにすればいいじゃん。この家にいるより、その人と一緒にいる方がいいんでしょ」
母は丁寧な動作で蜂蜜のボトルの蓋を開ける。
「私もそう思っていたけど、違った。人生から目を逸らした先にあの人がいただけだって分かったから」
彼女は腕を伸ばし、私の皿に盛られた熱気を纏うフレンチトーストに、蜂蜜を垂らした。マスクメロンの網目のように、黄金色の糸が入り組んでいく。
「彼女をやめて、もう一度お母さんをやるの?」
私の問いに、緩く首を振って母は答える。
「お母さんをやれるか分からないけれど、澪の保護者をやる」
蜂蜜のボトルを自分の皿の上で傾けた母に、私は詰め寄った。
「別に私のことなんて好きじゃないのに?」
ボトルの口から粘度をもって垂れる蜂蜜を眺める母の瞳に、傷ついた色が浮かんだ。けれど彼女は自分の感情を恥じるように、小さく微笑む。
「私は、人を愛することが致命的に下手だった。だからこれから勉強し直す。保護者の仕事は愛することばかりではないし、できることからやる」
「ふうん」
私はマグカップの紅茶に口をつけた。熱い。舌先が鈍い痺れを放つ。私は恨めしい気分で、母の細い指先が蜂蜜のボトルの蓋を閉めるのを盗み見た。
「まず、明日からあなたの弁当を作ろうと思う」
「えー、コンビニの方が美味しいよ」
「じゃあ、捨ててコンビニ弁当買ってもいいよ」
「や、重いって」
声を荒げた私に構うことなく、母は涼しい表情で紅茶をひとくち飲み下した。
「私は今日からできるだけ澪にいろんなものを手渡そうと思っている。でもその中には澪にとって不要だったり害になったりするものもあるでしょう。自分で選り分けて捨てなさい」
「捨てる時の罪悪感は?」
「罪悪感なんて、すぐに慣れるから安心して」
私は鼻を鳴らし、蜂蜜を纏ったフレンチトーストにフォークを突き立てた。大きな口を開けて齧ると、膨らむほど卵液を吸ったパンの柔らかさと、蜂蜜の暴力的な甘さが口内で混ざり合う。
「お母さんが言うと説得力あるね」
軽く母を睨んだが、甘さにやられた顔では説得力がなかったのだろう、母はほっとしたようにフレンチトーストを頬張った。
私は悔しさとも照れくささともつかぬ感情のまま、マグカップの縁に唇をつけた。伝導した熱に薄い皮膚が痺れ、芳醇な香りが鼻腔を満たし、脳漿をくゆらせる。私はそのまま一思いにカップを傾け、匂い立つ液体を薄く口内へ注ぎ込み、熱さと香りが甘い舌に絡まっていく感覚に目を細めた。
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