友情
翌日、慶が学校を休んだ。
翌々日も、慶は学校に来なかった。
次の日も、その次の日も慶は休みで、慶が登校しないまま二週間が過ぎて、私は頭がおかしくなりそうだった。
「どうして……?」
私は女子トイレの洗面台の前で顔を覆った。何で? 担任は体調不良だと言ってるけど、本当に? 私のせいじゃないの?
薄暗い洗面台の鏡には、化け物みたいな形相が映っている。
私が慶の心を徹底的に傷つけたんじゃないの? だから慶は学校にも来れないんじゃないの?
両手で髪をぐしゃりと握り潰した。私は、自分の昏い心が、慶の不登校を悦んでいないと誓える? 彼の不在を、完璧な独占だと、完全な支配だと、愉悦を感じてはいない?
「嘘、嘘……」
呆然と譫言を漏らす私の肩に、誰かが手を置いた。
「澪、ちょっと大丈夫?」
「紫亜……」
私が振り向くと、彼女はわずかに小首をかしげ笑った。
「汐屋なら、もう来ないよ。よかったじゃん」
紫亜の口元から覗く八重歯に視線を奪われ、その言葉の意味を理解するのが一拍遅れた。
「紫亜、慶に何かしたの?」
脳内に警報が鳴り響く。紫亜が笑みを歪めた。
「慶? うわ、汐屋のこと? 何かしたのは澪の方でしょ」
声が詰まり、私は眉根を寄せた。
「そうだけど、それならどうして紫亜が『もう来ない』なんて言うわけ? 慶と何かあったんじゃないの」
紫亜の目線が揺らぐ。私は彼女に迫る。
「ねえ、紫亜!」
弾かれたように、紫亜が顔を上げた。丸い瞳に力が込められ、潤んだ涙が盛り上がる。
「……澪はさ、あたしのこと友達だと思ってる?」
普段の彼女とは違う、か細い声音だった。私はたじろぎ、呆然と答える。
「は? 当たり前でしょ」
「澪はさ、あたしのことなんて本当は好きじゃないでしょ」
震えながらも、はっきりとした意思を持った声だった。
「何言ってんの、紫亜」
「ガキでレベル低いって、馬鹿にしてんじゃないの」
「そんなわけないって」
紫亜が拳を握り、私の胸を叩くように振りかぶったが、結局どこにも振り下ろすことなく胸元で握り締めた。
「だったら澪は、あたしに本当の気持ち話したことある? その場をやり過ごしたり、盛り上げたりする言葉じゃなく、汐屋に話したようなこと、あたしに言ったことある? ないよね?」
私は何も言えなかった。反射で否定する言葉なら幾らでも浮かぶ。だけどそれを、内側の自分が問い質す。
本当に? 本当に紫亜の前で自分を、言葉を、表情を繕わなかったと言えるの。私たちは、自分の中にひろがる大海の浅瀬に立って、上澄みの水をかけ合っていただけじゃないの。慶と一緒に深海の果てへ潜ろうとしたように、紫亜に向き合ったことはあるの。
静寂に、紫亜は弱々しい笑い声を漏らした。
「……ごめん、あたしダサいね。忘れて」
「紫亜!」
呼びとめようと声を張るが、その手を掴むことはできなかった。私は女子トイレに一人残される。
壁の薄緑のタイルが、一気に冷たく排他的に感じられる。別のクラスの女子がトイレに入ってきて、放心して佇む私を訝しげに一瞥する。すると急にトイレの空気を吸うのが一秒でも辛く感じられて、私は廊下へ飛びだした。
人を避けて廊下を進むたび、罪悪感が募る。
紫亜を責めたこと、八つ当たりじゃなかったと言えるだろうか。慶を失うかもしれない不安を、紫亜への怒りに転化させて発散させただけじゃないのか。
紫亜に言われたことが図星なら、私が彼女に言えることなどあるだろうか。一度亀裂が入った関係は、もう元に戻らないのかな。
教室のドアに手をかけたとき、私を呼びとめる声があった。
「なあ、澪」
「侑真?」
渋い顔で、侑真が髪を掻いて立っている。隣には無表情の暁人の姿もあった。彼らと言葉を交わすのは久しぶりだった。
侑真は濃い眉をせわしなく動かしていたが、やがて小さく息を吸い私に向き合った。
「澪、もっと紫亜に構ってやれよ」
私は続きを促すように目を眇めた。
「あいつ見てるとさ、なんか痛々しいんだよ。可哀想っつーかさ」
声をつかえさせながら、侑真は必死に言う。
「先週もあいつ、汐屋にすげー噛みついてて、焦ったから」
「紫亜が?」
「ああ。『澪を返して。あんたのせいで澪はおかしくなった。澪はあんたなんかと釣り合わない』って。しまいに泣き出したから、汐屋に掴みかかってるのを引き離してさ、大変だったんだからな」
私は目を瞬いた。
「それ、本当?」
「嘘じゃねーよ」
「侑真いいやつだね」
思わず噴きだした私に、侑真は情けない呻き声を漏らして天井を仰いだ。
「笑い事じゃねーって」
大袈裟な動作に、私は更に笑い声を漏らす。くふくふとした笑いが収まった頃、不意に暁人が口を開いた。
「まあ、俺は紫亜の好きにさせてればいんじゃねって思うけどさ」
「暁人お前なー」
侑真が背中をはたいた衝撃に、暁人は眉根を寄せた。
「だってあいつ、楽しんでんじゃん、多分。一人で暴れてるんだから気が済むまでやらしてやればいい」
「何で楽しんでると思うわけ?」
私が問うと、暁人はわずかに顎を突きだした。
「自分に直接関係のないことに首を突っ込んで、喜怒哀楽を撒き散らす理由に、楽しいから以外にあんのか?」
「澪のことなんだから関係なくはないだろ」
「そうか?」
きょとんとした顔で尋ねる暁人に、私は頬を緩める。
「うん、でも私も関係ないじゃんって思ってた。そういうところが紫亜は嫌だったんだと思う」
私の言葉に暁人は目を細め、少し照れくさそうに「ま、なんだ、澪も好きにやればいいって」と言った。
「うん。好きにする。ありがと」
安心した風に、侑真が肩を撫で下ろす。
離れてしまった距離を取り戻すのはきっと簡単ではない。それでも、彼らが気まずさをのり越えて一歩向き合ってくれたように、手を伸ばすことはきっとできる。
教室に入ると、私に刺さる視線はまだ冷たい。鋭利な感情が、私とクラスメイトを分け隔てている。それでも私たちは、この水槽の中で同じ酸素を吸っている。歩いて、手を伸ばせばふれられる距離で生きている。白熱灯の清潔な光が私の味方でなくとも、今はまだいい。自然な心でそう思えた。
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