決別
がん、と盛大に音が鳴って、私は思わず肩を竦めた。
「何?」
顔を顰めて教室の前方を振り返ると、慶の机が大きく傾いていた。すぐ脇を男子生徒が歩いていく。おそらく、そいつが机を蹴ったのだ。
「あー、汐屋ね」
紫亜がつまらなそうに言う。
「あいつ、終わったな」
「何?」
慶のことを無視して、一週間が経っていた。最初の数日は、慶も何度か私に話しかけようとしてきたし、スマートフォンにメッセージも入っていることもあった。だけど私が全て黙殺していると、諦めたようだった。
「何って、澪がやったんじゃん」
「だから、何を?」
にやつく紫亜に、私は声を尖らせる。怒んないでよ、とでも言いたげに、紫亜は私の肩に手を置いた。
「だって、うちのクラスでさ、澪に嫌われるっていうのはこういうことじゃん」
「こういうって……」
私は口を噤んだ。本当は、予想できたことだ。私が慶を無視するようになって、紫亜たちも私に倣った。クラス内で目立つ私たちの行動は、クラス全体に影響を及ぼす。結果、汐屋はクラスメイトから軽んじられ、侮られ、迫害される。
考えれば分かったくせに、私はその可能性に目を瞑ったのだ。
「別に澪が気にすることじゃないよ」
そっけなく紫亜が言い放つ。
「汐屋の自業自得。あいつがうまく立ち回らなかったのが悪いんだもん」
私は唇を引き結ぶ。私が悪い。罪悪感とともに、恍惚が脳髄を満たす。
慶が誰からも嫌われれば、彼が本当に私だけのものになるのではないか。
私は静観を決めた。いや、慶の境遇が更に苛烈になることを期待した。慶と関わることは拒絶したくせに、自分の影響力が慶に及ぶのをほくそ笑んで見ていたのだ。
私は、最低だ。
それからひと月の間に、慶は無視され、嘲笑され、持ち物をぞんざいに扱われ、そして今日の昼休み、机の間の通路に慶は倒れた。男子に足を引っかけられたのだ。
「汐屋、やべー!」
床を衝撃が伝い、教室に笑いの渦が起こる。私の隣で、紫亜も無邪気に笑っていた。
私は小さく息を吸い込み、ようやく自分の加虐性に向き合う覚悟を決めた。私に巣喰う暴力性。慶のことが好きなのに、派手に転んだ慶はダサかったし、這いつくばった慶の姿はおかしかった。
私は最悪の人間だ。残酷で、残虐。死ねばいい、私。
床に伏せたままの慶に、私は無言で歩み寄った。教室に緊張が走り、クラスメイトが固唾を飲んで私たちの動向を注視する。
私は慶の手を取り、彼の体を引き起こした。冷たく強張った手だった。鉛のように重く鈍い体だった。
感情を滲ませない瞳で慶は私を見た。私は顔を歪め、深く腰を折った。
「無視してごめん。傷つけて、ごめんなさい」
一段声を張り上げる。
「皆も巻き込んでごめん。クラスの雰囲気を悪くした。ごめんなさい」
顔を上げると、慶が呆然とした顔で佇んでいた。私は叱責が飛んでくるのを待ったが、慶の感情が滑り落ちた表情に、返答を受け取ることを諦め、踵を返す。
紫亜の正面に立ち、引き攣った面持ちの彼女に頭を下げた。
「紫亜も、迷惑かけてごめん」
ひゅっ、と彼女が音を立てて息を吸い込んだ。沈黙が落ち、私が観念して頭を上げようとした時、紫亜の固い言葉が後頭部にのしかかった。
「澪、ねーわ」
一蹴。見なくても、紫亜の表情は想像がついた。失望、軽蔑。私は彼女の期待に応えられなかった。
腰を折って見える視界から紫亜の足がなくなったので、私も教室から逃げる。凍りついた空気と好奇の視線に耐えられなかった。
廊下を大股で歩いていると、手首を誰かに取られた。
「澪、待って」
慶の声だった。振り向かないまま、私は自分の手を引く。すると慶の手の力が更に強まった。
「どうして謝った」
苦虫を噛み潰したような声だった。私は反射的に口を衝きそうになった言葉を飲み込み、平坦な声を繕って言った。
「悪いことをしたと思ったから」
「俺は、謝らないで欲しかった」
「そう」
可哀想だと思った。私と向き合おうとして、それなのに相手にされない慶が不憫だった。終わりだ、終わり。そんなことを思う時点で、歪んだ関係なのだ。
「もう話すのやめよ」
「嫌だ」
「話すことないし」
「俺はある」
「何? 簡潔に言って」
すると、慶が力を込めていた手を離した。圧迫が過ぎ去った手首に、鈍い痺れが残る。
「俺は、澪の何を踏み躙ったんだ」
私は振り向こうとして、首をとめた。慶の表情を見たかったけれど、私にその資格はない。
「別に大したことないよ。気にしないで」
「澪」
「私も気にしない。忘れる。慶も忘れて」
「澪!」
足を踏みだした私の前に、慶が立ち塞がった。怒ってるような、悲しんでいるような、後悔しているような、切望しているような、感情がぐちゃぐちゃに乱れた顔だった。
可愛いな。満足して私は笑った。
「まだ、私が好きなの?」
彼の顔面に苦渋が満ちる。
「君のことを、嫌いになりたいよ」
「嫌いになって」
ばいばい、慶。
私は慶をよけて、廊下を進む。闇雲にひとけのない方へ向かっていると、口の端が震え、頬が痺れた。首筋が濡れて、自分が泣いていることに気づく。潤んだ眼球は陽の光を乱反射させ、明るい万華鏡に迷い込んだみたいだった。
階段の隅で、私は蹲る。声を殺した。私の体を占める六割の水が、全て流れ出してしまいそうだった。永遠に泣ける気がしたけれど、結局喉が渇くと私は泣きやんで、頭痛をこらえて午後の授業にも出席した。
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