同情
生ぬるい夜風を浴びると、肌の表面が闇に溶けだしていく感覚がした。
夜空は薄雲に煙り、月明かりが淡い輪を描いている。街灯が等間隔に照らすアスファルトを、慶と横並びに歩く。
「また、いつでも来てよ。家族、喜ぶから」
声音に慈愛を探してしまう。言葉以上の意味を求めてしまう。
「慶は? 来て欲しくないの?」
茶化して彼の顔を覗き込んだ。穏やかな視線が、私の顔面を包む。うわ、眩しいな。私が目を眇めると、慶が微笑んだ。
「俺も、澪が寂しい思いをする時間が、少しでも減ればいいと思うから」
ん? 私は首をかしげ、足をとめた。
寂しいって誰のこと? そりゃ、私のことだろう。
私、寂しいの? 確かに私の家は荒んでいて、一人で過ごすことが多い。だけど今更あの両親に愛されたいかっていうと別にって感じだし、友達は結構多い方だと思うし、現状にさほど不満があるわけじゃない。
でも、慶にとって私は寂しい人間なんだ。
「慶、今、同情した?」
私につられて立ちどまった慶を凝視する。暗闇に紛れて、彼の表情のわずかな揺らぎを拾い損ねることのないように、目線で射抜く。
「え、私のこと、可哀想だと思った? 救ってあげようとか思った?」
口角が薄笑いの形に引き攣っていく感覚がする。嘲りじゃなくて、困惑だった。
「違うよね? 否定してよ」
声が震える。慶が割れ物を見るような目をこちらに向ける。私は拳を握り締めた。
「違うって言えよ」
好きなのに。慶のこと、大好きなのに。
「は、何様?」
どうして好きなはずなのに、許せないの。
「神様気取り?」
だって慶は、私のこと心配してくれたんでしょ。大切にしてくれたんでしょ。いいじゃん、寂しいって思われたって。可哀想だって見下されたって。
傲慢にも、救ってやろうと思われたって、別にいいじゃん。
「冷めた」
嘘。好きだから、信じてたから許せない。今、激烈に虫唾、走ってる。
慶の瞳の奥で感情が爆ぜたけれど、その正体を見届ける気はなかった。顔を背け、夜道を大股で歩き出す。背後の気配と足音に、冷たく言い放つ。
「ついてこないで。絶対に」
拒絶したのは私なのに。どうして血の滲むような思いがするんだ。心の柔い部分を刺し殺した気がするんだ。何で何で何で。
早足で逃げる私を月輪が追いかける。ついてこないでよ。叫び出したかったが、泣きたかったのかもしれない。アスファルトを蹴る爪先から伸びた暗い影が、私の足元をもつれさせた。
「澪、おはよう」
翌朝の教室で、慶からの挨拶を無視して、脇を通り過ぎる。そのとき沸き上がったのは、倒錯した高揚と達成感だった。
大事にしていた硝子細工を、床に打ちつけ粉々にしたような爽快感と、一抹の背徳。私は、価値のあるものを壊してやった。愛したものでも壊すことができる。歪んだ万能感が、私の全身に漲っていた。
慶と関わるようになって、慶が私の人生を構成する不可欠な存在になったと思っていた。でも今は、慶の存在が目に入ったゴミみたいに、痛みや苛立ちとともに違和感を放っている。
邪魔だ。いらない。私の人生から退場して欲しい。
「澪、どしたん?」
紫亜が私の肩に腕を回し、尋ねる。
「何が?」
「汐屋だよ、汐屋。最近構ってたじゃん」
「ああ、飽きた」
「だよねー」
悪い顔で紫亜が笑う。
「やめて正解。澪、悪趣味だなーって思ってたもん」
うわ、気持ちいい。私は頬を緩める。
風呂上がりの冷水に似て、紫亜の存在が私に心地よく沁み入ってくる。肌に馴染む、慣れ親しんだ雰囲気。
軽薄と享楽。ぬるい歓びに浸って、私はやっと息ができた。じゃれ合う私たちに、暁人と侑真が合流する。
「賭けは?」
乏しい表情と抑揚で暁人が問いかけた。
「んなの、澪の圧勝に決まってんだろ」
侑真が腕を組んで、大きく笑う。
「あー」私は目を逸らし、唇の片端を吊り上げた。「もう、どうでもいい」
「澪、正解!」
紫亜の笑い声が弾け、私は瞼を下ろした。どうでもいい。それでいいんだ。これが正しい。
だけど私は、自分ひとりの選択がこの教室においてどんな意味を持つのか、正確に理解できていなかった。
拙作をお読みくださり、ありがとうございます。
続きが気になる方は、ぜひブックマークをお願いします。
また、少しでも心に残りましたら、ページ下部にある評価欄を
☆☆☆☆☆→★★★★★のように色を変えて評価していただけると、とても嬉しいです。




