家族
慶の家を見た感想は、古くて小さい、だった。一斤の食パンを五枚切りにしたように、細い家が密集していて、その真ん中が汐屋家だった。
白い外壁や青い瓦はくすみ、道路から見える二階のベランダには、たくさんの洗濯物が干してある。家の前に停めてある錆びた自転車をよけ、慶は玄関のドアに鍵を差し込む。
「なんだか、おばあちゃん家みたい」
私が呟くと、慶は「本当に祖父母も住んでるからね」と微笑んだ。
「ただいま」
「お邪魔します」
中に入ると、やっぱりおばあちゃんの家を連想させる、懐かしいような野暮ったいような香りがした。廊下を抜け、慶が襖を開ける。
「おや慶、今日は学校短かったんだね」
和室の中央の座卓を囲んで、年配の男女が座っている。変な動物のイラストが描かれたTシャツを着た老婆に、慶は言う。
「ううん、ばあちゃん。サボったんだよ」
「まあ、不良だね」
慶が口ごもりと、慶の祖母が私を見た。
「おや、可愛らしい女の子だね」
私は慌てて頭を下げた。
「初めまして。慶君のクラスメイトの高崎澪です」
「慶の彼女?」
「違うよ、ばあちゃん」
「はい、彼女です」
「ちょっと、澪」
私の言葉に慶の祖母は豪快に笑い、座布団の上からのっそりと立ち上がった。
「ああ、もう昼ご飯の時間じゃないか。澪ちゃん食べたいものある? うどんは好き?」
「はい、好きです」
慶の祖母は満足げにうなずき、慶に言った。
「じゃあ、ばあちゃんは昼ご飯作ってくるからね。慶は澪ちゃんにお茶でも出してあげなさい」
「分かった。じゃあ澪、適当に座って待ってて」
残された私は呆然と頷き、空いた座布団に腰かけた。慶の祖父らしき男性が、夢の中にいるようにニコニコと笑いながら、膝にのった雑種の犬を撫でている。
家の中は整頓されているものの、物が溢れ雑多な印象を受ける。ここでは外界と隔絶され、時間がゆっくり流れている。
しばらくして湯飲みを持った慶が帰ってきた。
「ごめん、落ち着かないだろう」
「そう? おばあちゃん家みたいで安心するよ」
「それは、澪の神経が図太い」
やがて慶の祖母が用意してくれた昼食を終え、更に切ってもらった林檎を食べると、窓からの暖かな日差しに眠気が催される。
うつらうつらしている私を見て、慶の祖母がテレビを消した。
「澪ちゃんちょっと昼寝するかい? タオルケット持ってきてあげよう」
「えー、じゃあ、お言葉に甘えて……」
私は座布団を折り畳み、座卓の下に足を伸ばして横になった。座卓の隣の辺に座る慶が呟く。
「やっぱり、図太い……」
「どうせ、私は厚顔無恥ですよ」
ふてくされて言えば、慶は小さく噴きだした。
「違う、嬉しいんだよ。俺の家で気を許してくれてありがとう」
そう言うと、慶も座布団を枕にして寝転がった。
「ちょっと慶、足蹴らないでよ」
「澪の方が足伸ばしすぎ」
微睡の縁で慶とじゃれているうちに、意識を手放していた。目覚めたときには体がタオルケットで覆われ、和室の中に西日が差し込んでいた。重い瞼を擦りながらスマートフォンを確認し、私は「わ」と声を上げた。
「もうこんな時間。お暇します」
慶の祖母が、テーブル越しに新しい湯飲みを差しだした。
「なんだい、晩ご飯も食べていけばいいじゃないか」
「さすがに悪いので……」
すると、廊下の方から軽やかで騒がしい足音が迫ってきた。
「ただいま」
襖が勢いよく開き、ツインテールに髪を結った、小学校高学年ほど女の子が部屋に飛び込んできた。流れるように、茶色のランドセルが部屋の隅に放り投げられる。
「こら真千佳、行儀悪いよ」
「ばあちゃん、誰ー?」
女の子に指を差され、私は寝起きの頭で瞬く。慶の祖母が「指ささない」と窘めた。
「澪ちゃんだよ。慶の彼女だって」
「へー、兄ちゃんやるじゃん」
そう言うと、真千佳はまだ眠っている慶の背中を足蹴にした。
「兄ちゃん起きろよ。音読の宿題手伝って」
「真千佳、うるさい」
寝ぼけた声で慶が唸り、冬眠明けの熊のように体を起こす。
「『やまなし』聞いてよ」
「それって、クラムボンのやつ?」
私が口を挟むと、真千佳が身をのりだした。
「澪ちゃん、知ってんの?」
「私も教科書で読んだ。懐かしい、蟹のやつ」
「そう、かぷかぷ笑うやつ」
私たちは笑い、真千佳が「じゃあ澪ちゃん音読聞いて」と駆け寄ってくる。そうして慶の祖母が用意してくれたお菓子を食べながら、真千佳の宿題を終わらせ、トランプでババ抜きをして遊んだ。
窓の外に夜の帳が落ち始めた頃、今度は重く落ち着いた足音がして襖が開いた。
「おや、お客さん?」
背広姿の男性が、買い物袋を両手に抱えて入ってきた。顔つきが、どことなく慶に似ている。
「おかえり父さん。こっちは同級生の、高崎澪さん」
「慶、お前女の子と学校さぼってたのか。先生から電話あったぞ」
「う、ごめん」
「初めまして澪ちゃん。晩ご飯食べてくよね?」
「初めまして。あの、学校のことは私も悪くて……」
「いい、いい。そういうのは後から慶にみっちり聞くからさ」
慶の父は、満面の笑みで私を見る。
「澪ちゃん、何食べたい? あ、でも今日はもうハンバーグの材料買ってきたんだった」
「好きです、ハンバーグ」
「そっか、よかった。じゃあ今から作るから待っててな」
「やった! パパ、デミグラスソース作ってー」
真千佳が父の足にじゃれつき、慶の祖母が「脂っこいのは年寄りにはなあ」と独り言ち、その隣で慶の祖父がニコニ歩微笑んでいる。私は床に置かれた慶の手に、自分の手のひらを重ねた。
「慶ん家、楽しいね」
「ごめん澪、うるさいでしょ」
「ううん、なんかテーマパークみたいで楽しい」
「なに家でイチャイチャしてるの?」
突然の声に、私と慶は飛び退いた。
「母さん!」
慶が引き攣った声を出し、私はスーツ姿で悪戯な笑みを浮かべる女性に頭を下げた。
「はっ、初めまして。あの私、高崎澪といいます」
けれど、慶の母はもうこちらを見ておらず、畳にパンツスーツの足を投げだし「はー、疲れた」と天井を仰いでいる。真千佳が母に駆け寄る。
「ママ、澪ちゃんは兄ちゃんの彼女なんだよ」
「えー、こんな可愛い子が? 慶、騙されてるんじゃない?」
「ちょっと母さん。俺にも澪にも失礼だろ」
慶の苛立った声に私は肩を跳ねさせ、慶の母の顔色を窺ったが、彼女はあっけらかんと「あー、そうだね。ごめん」と謝った。
「澪ちゃんもごめんね。気分悪くした?」
慶の母がこちらを向き、ばつが悪そうに笑う。私は首を振った。
「いえ、そんなことないです」
「ねえ、慶のどこが好きなの」
「母さん!」
私はかすかに首をかしげた。
「澪、答えなくていいから」
慌てる慶の声に、私は更に首をひねる。
「うーん、混じり気のないところ、ですかね……」
「は?」
「えー、どういう意味?」
身をのりだした慶の母に、私は頬を掻く。
「純粋で可愛いっていうか、眩しいっていうか……えへ、恥ずかしいですね」
「可愛いだってよかったじゃん。うわ、あんた真っ赤だよ?」
「もういいから、母さんは喋らないで」
「慶、照れくさいの?」
私が尋ねると、慶は言葉を詰まらせ、囁くような声で「当たり前だろ」言った。
「可愛い~」
私と慶の母が声を揃えると、慶の紅顔は顰め面に変わり、私たちは笑い声を弾けさせた。それを見て慶の表情はますます険しくなったので、私は追い打ちの「可愛い」をすんでのところで飲み込んだ。
しばらく居間で休むと慶の母はハンバーグを作る夫を手伝いに行き、残された子どもはトランプで時間を潰し、そうしている間に夕食ができあがった。座卓に白米が山盛りよそわれた茶碗と、大きなハンバーグがのった平皿が並べられる。
グラスに入ったお茶を配る手、箸を取る手、皿を手前に引き寄せる手、白米にふりかけをかける手、たくさんの手が座卓の上を交錯する。
「お醤油取って」
「あれ、ポン酢は?」
「あー、冷蔵庫だわ」
「真千佳、デミグラスソースがいい」
「あ。ごめん、忘れてた。ケチャップで我慢してくれ」
「パパ酷い! 裏切りじゃん」
「真千ちゃん、ポン酢もついでにお願い」
「えー、ばあちゃんずるいよ」
弾丸のように飛び交う会話に私が放心していると、慶が私の肩を指でつついた。
「澪、大丈夫?」
「うん、なんかアトラクションのった後みたいな気分」
「のりもの酔い的な?」
「そう。だけど、すごく楽しいよ」
いただきます、と皆で手を合わせ、夕食が開始する。活気に満ちた食堂のように、話し声や他人が食事をしている気配が舌に彩りを添える。
「こんなに大勢でご飯食べるの初めてかも」
隣に座る慶に囁く。
「そうなんだ」
「家では一人で食べるから」
「……そうなんだ」
慶は私の反応を窺うように、じっと覗き込んだ。
「賑やかな方が好き?」
「分からない……でも、新しいのはいいことな気がする」
「どうして?」
「新しいものにふれると、心が生まれ変わるから、かな」
「それは……」
言い淀んだ慶の言葉を待つ間もなく、隣に座る慶の母が身をのりだした。
「なに二人で内緒話してるの」
私は気恥ずかしくて、笑ってごまかす。
「えへ、ハンバーグ美味しいです」
慶の父が、箸を伸ばしかけた手をとめ、こちらを見る。
「本当? おかわりあるから、たくさん食べてね」
不意に、胸が軋んだ。忘れていた、懐かしい部分を、優しい手に撫でられた気がした。私は茶碗を持つ手を震わせて、ただ瞬きを落とすことしかできなくて、なぜか絶望的な感情になった。ふいに一人、遠く、遠くにいるような心地がする。
「澪?」
慶の声が私を呼ぶ。私の心を繋ぎとめる。泣きたいのをこらえて私は笑った。めちゃくちゃな笑顔だったと思うけれど、食卓はあたたかい香りに溢れ、口内は優しい味に満ち、胸中を穏やかな波がたゆたった。私は茶碗を持つ手を胸元に引き寄せ、静かな熱に寄り添った。
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