白線
朝ご飯を食べに階下へ向かおうと自室の扉を開けたとき、右足の小指に衝撃が爆ぜた。
「……っ!」
私は反射的にしゃがみ込み、火照る痛みを放つ小指へ、恐る恐る目を向けた。
「うわー」
咄嗟に呟く。普段ハイソックスに包まれ陽の光を浴びない足先の、生白い爪がきっぱりと半分に折れ、先が剥がれかけていた。爪の内側が真っ赤に染まり、零れた鮮血が青白い肌を汚している。
深紅の傷口が視覚に飛び込み占拠したことで、じくじくとした痛覚が余計に叫び散らす。
「あー、最悪」
独り言ち、そして、ふっと頬を緩めた。
最悪は言い過ぎだったな。だって、今日から汐屋は私の「お友達」だし。
そう思って、こらえきれず噴きだす。「友達になって」なんて、小学生以外に言う人いるんだ。泉のように笑みが溢れ、心地よい愛おしさが胸に満ちる。
ひとしきり笑い終えると、私は痛みに耐え、立ち上がった。右足を庇い、歩きだす。
階段を降り、戸棚の薬箱を漁って絆創膏を取りだした。盛り上がった紅血をティッシュペーパーで拭い、剥離紙を剥いでガーゼを折れた爪の上から宛がう。
「痛……」
眉を顰め、疼痛を封じ込めるように絆創膏を押しつけ巻く。その上からサージカルテープを幾重にも重ねていると、頭上から声が降ってきた。
「澪?」
立ち上がると、朝帰りの母がぼんやりとした表情で私を見つめている。
「あんた、怪我したの」
「大したことない」
「そう……」
掴みどころのない調子で頷く母の脇をすり抜けようとしたとき、彼女がわずかに焦って声を上げた。
「澪、あんた、何か……」
「何?」
母は視線を泳がせ、糸が切れたように俯き、もごもごと口の中で言葉を紡いだ。
「また、熱でもあるんじゃないの」
聞き取りづらい響きに、私は首をかしげた。
「別に、元気だけど」
私の返答に、彼女は自分を恥じた様子で顔を真下に向ける。囁く声で「そう」と落とし、そのまま立ち竦んでしまう。私はしばらく母の反応を待ったが、痺れを切らしてその場を去った。
家を出る時間になっても刺すような痛みは衰えず、私はローファーを履くことを諦め、スニーカーで学校へ向かった。
右足を庇いながら歩いていると、背後から声をかけられた。
「高崎さん、おはよう」
思わず立ちどまる。聞き覚えのある声に、心臓を掴まれる。振り向くのが一瞬怖かった。けれど朝の空気を吸い込むと、私はゆっくり声の方に顔を向けた。
「汐屋じゃん。おはよ」
笑い方、ぎこちなくなかったかな。声、上擦ってなかったかな。髪、乱れてないかな。唇の皮、めくれてない?
脳内を不安が最高風速で駆け巡るけれど、汐屋はぼんやりと言った。
「歩き方、どうしたの」
ああ、と私は慣れないスニーカーに目を遣る。
「小指の爪、剥がれた」
「は」
汐屋が瞠目する。私は苦笑した。
「痛そうでしょ」
数回瞬き、口の中で言葉を数秒転がし、汐屋は声を零した。
「高崎さんの爪も、剥がれるんだ」
私は眉根を寄せる。
「はあ? どういう意味?」
汐屋は漏らした言葉の余韻に自分で呆然とするように、言い募った。
「だから、高崎さんの爪も、俺の爪と同じ構造になってるんだなって……」
ますます意味が分からず、私は首をひねる。
「は? 当たり前でしょ。爪も剥がれるし、虫歯もなるし、下痢にだってなるわ」
最後の方は言わなくてもよかった気がするが、勢いで言ってしまった。こいつの中で、私はどんな存在になっているんだ。
汐屋は難解な数式の解説を聞いたみたいに、つまりちっとも理解していない様子で頷く。
「はあ、なるんだ……」
私は段々苛立って、汐屋に一歩歩み寄り、下から軽く睨みつけた。
「人体の仕組みから説明しなきゃなんないわけ? ミトコンドリアから高崎澪までの歴史、教えようか?」
汐屋の力ない笑い声に、私は怒りの矛先を収めた。
「てか汐屋、私が風邪ひいたの見たでしょ?」
「見たけどさ、風邪くらい神様もひくだろ」
はあ? と内心思うが、譲歩する。
「そんなもん? じゃあ神様は下痢にならないの?」
「うん。神様に大腸菌はいなさそう」
神様と大腸菌というミスマッチな単語に、私は相好を崩した。
「変なの」
汐屋のおかしな発言を笑ったら、気分が上向いてきた。私は汐屋に提案する。
「見せたげるよ。私の半分剥がれた爪」
平然とした顔で黙り込むから、断られるものだと思ったけれど、汐屋は神妙にうなずいてみせた。汐屋に歩調を合わせてもらいながら、通学路の脇にある公園に入る。
早速ベンチに座り込んだ私を前に、汐屋は所在なさげに佇んでいる。まだらに雑草の生えた砂地を風が撫で、薄く砂埃が舞う。私は乾いた空気を吸い込み、ベンチの上に右足を折り畳んだ。
靴紐を解き、傷にふれないようスニーカーを大きく開いて脱ぐ。慎重に紺のソックスを下ろし、素足を陽光に晒す。
汐屋が目を眇めた。
丁寧にサージカルテープを剥ぎ取り、ゆっくりと絆創膏をめくる。ひゅっと汐屋の喉が鳴った。
「うわ、グロテスク……」
ガーゼの中に封印されていた患部は、黒く固まった血がこびりつき、折れた爪の先が白く浮き、圧迫されふやけた肌が黄色く濁っていた。
「汚い?」
囁き声で問えば、汐屋は蒼白な顔で首を振った。
「そんなことはないけど……痛そう」
痛ましいものを見る眼つきに、私は笑った。汐屋の視線が風を纏って傷口を優しく包む。
「匂い嗅ぐ? 独特のやつ」
悪趣味な問いに汐屋は「いや」と答えたが、「絆創膏、俺が貼り直してもいい?」と申し出た。私はスクールバックから予備の絆創膏を取り、汐屋に差しだした。
「いいよ。やって」
許しを与えると、汐屋が絆創膏を恭しく受けとった。地面に膝をつき、汐屋は硝子細工を扱うような繊細な手つきで、傷口に絆創膏を巻いていく。
汐屋の手のひらが、私の足の裏にふれた。擽ったいふれ方でも、べったりとしたふれ方でもなく、ふわふわの綿を潰さぬように支えるふれ方だった。そんな風に汐屋のあたたかい手にふれていると、私の体内の空気の総量が増えたみたいで、今にも体が浮きそうな気になった。靴下とスニーカーを履き直すと、愉快で爽快な気分のまま、私はベンチを叩いた。
「汐屋、座りなよ」
私の言葉に汐屋は瞬きをひとつ落とし、静かに立ち上がる。ふれていた肌が離れる感覚は、迷子になって途方に暮れる感じに似ていた。汐屋の熱が名残惜しかった。
隣に腰を下ろした汐屋の、無造作に投げ出された手。その鈍い艶をもった小指の爪に、小指の先でふれる。つるりとした温度のない表面に走る、かすかな凹凸の線を探る。
汐屋が横目で私を見た。恨めしげにも、ねだるようにも見える視線。私は汐屋から顔を背け、そっと小指を絡めた。
「ねえ」
声を吐くと、肺が震えた。
「汐屋のこと下の名前で呼んでもいい?」
顔の横半分に、汐屋からの視線がぐにょぐにょと巡るのを感じる。
「はあ、構わないけど……」
平熱な物言いに私は小さく息で笑い、汐屋の手に指を絡めた。
「慶」
汐屋の視線の細やかな棘が、私の唇にわだかまる。
「はい」
改まった調子で汐屋は答えた。なんだか微笑ましくて、「ふふ」と頬が緩む。
「慶もさ、澪って呼んでよ」
ぱっと髪を散らしながら首を振り、汐屋の目を見た。静かな動揺が波紋のように瞳の奥にひろがるのが見えた。
「何で?」
固い声。私は首をかしげる。髪の毛が数本、首の薄い皮膚に纏わりつく。
「何でって、仲良しになりたいからじゃん」
親指の腹で、汐屋の手のひらの中央の、平たい部分を責めるように撫でた。ぴくりと汐屋が手を丸める。
「だけど、俺が高崎さんを下の名前で呼ぶのはおかしいだろう?」
柔い部分に、親指の爪を立てる。
「どうおかしいの?」
地面に光が溢れ、零れた光が砂の粒を白く浮かび上がらせる。ローファーの先に小さな菫が咲いている。健康的な濃緑の葉と、折れそうな細い茎の対比が、緊張の糸を引き伸ばす。
「直感的に、違和感がある」
きっぱりと、汐屋は言った。私は指先を、汐屋の指のつけ根に押しつけた。
「そんなの慣れでしょ。呼んでるうちに気にならなくなる」
「でも……」
私は肩で、汐屋の腕にぶつかってみせた。汐屋の体がわずかに揺れ、二人の顔がふれそうな距離に近づく。
「慶は私を名前で呼べる。ね? ほら」
更に鼻先を寄せると、慌てて汐屋が身を引き、仰け反った姿勢で逃げ場がないと悟ったのが、重い口を開いた。
「澪……さん」
「いや、さんつけの方が照れくさくない?」
その時、高校の方角から、朝礼の開始を告げるチャイムが響いてきた。澄んだ空気を伝う、ぼやけた音。もう間に合わない。汐屋もそれを悟ったのか、静かに言った。
「澪」
白線を、踏み越えた音がした。
至近距離で視線が絡み、呼吸も鼓動も同期してしまった。すっかり体温の馴染んだ手を引いて、私は立ち上がった。つられて汐屋も立ち、繋いだ手を握り直す。
どちらともなく歩きだした。公園を抜け、互いの手を頼りに日常から逃げる。生活の匂いがしない方へ、人生の手触りがしない方へ闇雲に進む。
まるで、心中みたいだな。
思ったけれど、口には出せなかった。それでも不穏な気配はなく、ただ朝の柔らかな日差しに霞んで、全てが白昼夢のようだった。
二人とも黙り込んで、人気のまばらな住宅街を抜ける。繋いだ手をそのままに、改札を通り、ホームに到着した電車にのり込む。宛てのない逃避行。ドア脇に立って窓を流れる景色を眺め、私は汐屋の方を向いた。
汐屋は遠く澄んだ空を見ていた。どこにでも行けるはずなのに、どこへも行けないと分かっている顔だった。私は汐屋の腕に頭を預けた。汐屋はただそれを受け入れた。
適当な駅で降り、案内板に沿って古びた映画館に入った。過去作品の上映を行っているようで、タイトルも知らない洋画がスケジュールに並んでいる。
「観たい映画ある?」
落ち着いた声で、汐屋が尋ねた。
「どれでもいいよ」
ラインナップも見ずに答えると、汐屋が上映時間の近い映画を選んだ。
映画は字幕で、最初の方は外国語の音声に感情移入できなかったけれど、それでも主人公の人生が進んでいくにつれ、静かな涙が零れた。悲しかったわけでも、感動したわけでもなく、ただ取り返しがつかず進んでいく人生のままならなさに泣いた。
繋いだ手のひらが湿っていた。こんな日は、もう決して来ないと思った。
私たちにはそれぞれに日常があり、未来がある。全てを投げだしてお互いのために時間を捧げるなんて、今日だけだ。
映画館から出ても手を解くことはできなかった。離してしまえば、もう二度と取ることはできない気がした。
駅に向かって歩きながら、汐屋が問う。
「澪、行きたい場所、ある?」
「ない」
「食べたい物は?」
「ない」
「じゃあ、帰る?」
私は、体が硬直するほどに繋いだ手を握った。痺れに似た痛みが脳を叩く。
「嫌、帰りたくない」
汐屋が苦笑する。五体投地して泣きじゃくる幼児を見守るような、呆れと受容が入り混じった笑みだった。
「それなら、俺ん家来る?」
「慶の家?」
汐屋がそっと手を離した。私は名残惜しくて追い縋ったが、汐屋の笑顔に思いとどまる。
「うん、おいでよ」
そう言って、汐屋は再び手を繋ぎ直した。汐屋に手を引かれ、改札を抜ける。線路を通過した電車の風が前髪を揺らし、私は明るい残像に目を細めた。
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