私という存在の証明問題、
結論から言うと無理である。私という存在は証明出来ない。
私の意識は私の物。
では私の四肢は、手足指先、その末端は私か?
いや、私だろう。
ではそこかしこに作り出したアカウントは私か?
いや、私の物だろう。
ではざっくばらんに産み出した文章、詩、いや、それだけではない。私が所有するペン、コップ、ベッドは私の物か?
いや、私の物だろう。
ならば、公共の場を利用する、例えば図書館で本を借りるなど。これは言い換えればその空間、その瞬間にその施設を利用するということで、一時だけその空間の所有者となる。では、その空間は私の物か?
これは私の物では無いだろう。
何故ならば公共の場は不特定多数の人間による社会的所有物であり、公共という、実在はしないが存在はあるという、不可解の物である。私はあくまでもその一時を無償、もしくはある程度の代償を支払い借りるだけなのだ。
となると私が所有するペン、コップ、ベッドは本当に私の物かが怪しくなってくる。
確かに今、私はペン、コップ、ベッドを所有し使用している。では、私が所有する前は?どこかの会社が売り出す為に生産し、買い手が見つかるまで待機し続ける。その間は、その商品たちは会社の所有物だっただろう。そして、私が所有し終えた後は、破棄されるか他人の所有物となり、私は所有権を失うだろう。つまり一時の間だけ所有権があるだけであり、それもすぐに失ってしまう。ならば完全に私の物という訳では無いだろう。
では、アカウントは?これは分かりやすく私ではない。
例えば君がYouTuberだったとしよう。そこで高評価やチャンネル登録者が数多く存在したとして、その高評価で腹は膨れるか?いや、YouTubeで稼ぐ人もいるだろう。だがそれは動画につく広告収入、もしくは依頼され、その知名度で紹介するという、高評価やチャンネル登録者のもたらす副産物によって食いつないでいると言える。よって高評価だけでは君は満腹にはならないし、そのままほっとけば餓死するだろう。つまり君はアカウントを利用する立場であり、完全に別物だ。私で私を利用することはできないのだから。
では、私の四肢、手足指先、その末端は私か?
これは私『の物』だろう。想像してほしい。もし、明日、何の前触れも無く右足が狩り取られたら、君は欠けた存在になるのか。確かに体は欠ける。歩くのに不自由が生じ、今までの生活ができなくなる点では、私が欠けるとも言えるだろう。が、死ぬ訳では無い。要は我々は手足指先を利用し生活しているのであり、私という存在の完全なる喪失には程遠いだろう。それは人間性の喪失、つまり廃人になり死を待つ体になることである。
では、私の意識は?
これは怪しい。どうだろう、君は自分の意識、価値観、センス、精神は全て自分であると自信を持って言えるか?
そう言える人間は少ないだろう。我々は個人差はあれど、外的要因に影響を受ける。テレビのニュース番組、例えば医療ドラマを見て医者を志す人がいたり、幼い頃の教育が、その後の人生の価値観となる。「三つ子の魂百まで」は間違ってはいないわけだ。
勿論、それらが悪とは言わない。医者と言わずとも何かを志し、努力するのは殊勝な事だ。さらに教育も自力では変えようも無いものであっただろうからその価値観と教育が間違っているなんて言われても困惑するだけだ。
それは大昔でも変わらない。ホモサピエンスが生まれた瞬間にも宗教、というよりもその根幹をなす救いのような存在、神の存在があった。それは険しい自然に影響を受けただろうし、その意識の継承があったとも思われる。
つまりは私の意識すら他の何かの影響を受ける。そこに介入することは出来ずに受動的にならざるを得ない。
この瞬間に私が揺らぐ。
私という存在は他の何かの寄せ集めでしかなかったのだ。私という存在は無いとさえ思えるかもしれない。
が、ここで矛盾が生じる。
君は感動する映画、雄大な自然、どうしようもなく暖かい愛に触れた時、何も感じないだろうか?いや、君はそこに何かしらの感情を持つだろう。
君が何かの寄せ集めでしかないのならその感情は生じない。何故ならば寄せ集め、つまり存在する記憶と言うものは常に過去の物、つまり想い出である。ならば、どうだろう。想い出はどれだけ強く願っても再演は出来ない。つまり現在に干渉出来ないのだ。出来ることと言えばセピア色の映像を脳内のシアターに映すことだけだ。そこから感じるのは今の感情、当時とは変わった視座による感情だ。
つまり現在感じる感情があるならば、それは確かにそれを感じる者、言うなれば自分が存在するということである。
整理すれば自分は存在するが、それはどのような存在かは明らかではない。ということになる。よって私を証明することは出来ないのである。だから読点なんだ。
ならば、自分とは不安定だと思うかもしれない。そう。不安定で不確実だ。信用ならないが、そこに不可解は、確かに存在するのだから、見ないフリなんかしない方がいいと思う。
他ならぬ、あなたがいいと感じた物はいい。
他ならぬ、あなたがこれは自分だと思う物は自分だ。
自分を信じろなんて言わない。自分を見て見ぬフリをしないでほしい。
それが、個人としての、自分では無いだろうか。
私の文章は読点で終わる。君がここから先を考えるんだ。
自分とは、