第一話 ほほえましくない
東京の夜景って、何万ドルだと思う? −−いや、百万ドルは神戸だからね、もっとあるんじゃない、一千万ドルとか。−−まあね、そんなに大きな金額だともうよくわからないよね。じゃあさ、僕が君と夜景を眺めながら過ごしているこの時間は、何万ドルだと思う?
「どうしたんですか、名取さん。急に気の抜けたような顔をして」
不安げな声が聞こえて、僕は正面に向き直る。潔白なブラウスを着て、主張のないチョーカーネックレスを着けた青葉は、不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「ああ宮城野さん、せっかく二人でディナーだというのに申し訳ありません。不意に恥ずかしい記憶が思い浮かんでしまって」
僕はそう言いながら、意味もなく紺色のジャケットの裾を伸ばす。テーブルの中央に置いてあるアクアパッツァの中に鯛が一切れだけ遠慮がちに残っていたので、青葉に「どうぞ召し上がってください」と薦める。何度か譲り合いの応酬になって、最終的に「それではすみません」と青葉がゆっくりと口に運ぶと同時に、メインディッシュのカラスミと九条ねぎの冷製パスタが運ばれてきた。
僕は、少し緊張していた。青葉と二人きりで会うのは、これで三回目である。過去二回のデートもかなりの好感触だったので、仕掛けるなら間違いなく今日だが、ここを失敗すれば先はない。そうは言うものの、今の青葉は「あっ、とっても美味しい」と屈託なく顔を綻ばせているところだった。
「ところで名取さん、先程の恥ずかしい記憶というのは何ですか? 差し支えなければお聞きしたいのですが」
青葉は微笑みを浮かべたまま、細長い指でグラスを持ち、半分ほど残っていた白ワインを嗜む。爪はネイルアートが施されているわけではないが、艶やかに磨かれていた。
「いえいえ、聞かせる程のことでもありませんよ。僕は小学生の頃跳び箱が得意で、軽々と八段を飛び越えていたんですが、唯一失敗したのが、よりによって当時好意を寄せていた子の目の前だったんです。そういった緊張は人を狂わせるんですね」
僕は幅の広い肩を少しだけ窄めてから、完全な作り話を流暢に話し切った自分を称えるように、グラスに入った赤ワインを飲む。本当に恥ずかしいことなど、到底言えたものではない。
「そうですよね、名取さんにもそんな若かりし頃があったんですよね。名取さんにとっては思い出したくないエピソードだったかもしれませんが、私にとっては微笑ましかったですよ」
青葉が慈しむような笑みを零しながら、グラスをコースターに置こうとする。その瞬間、手が滑ったのかグラスが傾き、瀟洒で落ち着いた雰囲気の店内に、突如ガラスが砕け散る音が響いた。間髪入れず、僕は立ち上がって青葉の足下を確認する。
「大丈夫ですか宮城野さん、お怪我は」
「いえ、私は大丈夫です。それよりも申し訳ありません、こんなお洒落なところでとんだ粗相を」
慌てふためく僕等のもとに、ウエイターが歩み寄ってきて、「お怪我はございませんか、片付けは私共で行いますので」と言いながら速やかに清掃を始める。青葉は身を縮こまらせながら、「本当にすみません」と何度も陳謝していた。
清掃が終わり、冷水の注がれた新たなグラスが運ばれてきたあと、青葉は小さく息をついた。
「お騒がせしてすみません。それにしても、名取さんはやさしいですね。すぐに私の身を案じてくださるなんて」
「いえ、当然のことですよ。宮城野さんには、今日の思い出を良いものとして持ち帰ってほしいですからね」
しかも、相手のピンチをすぐさまリカバリーするチャンスなど、逃すわけにはいかないのだ。
「ところで、デザートを頂いたら、同じフロアにあるテラスに出てみませんか。今日は天気も悪くありませんし、夜景だけでなく月もはっきり見えるかもしれませんよ」
僕の提案に、青葉は伏し目がちに頷きながら、「そうですね、是非」と答える。きっと何となくわかっているのだろう。こちらとしてもホテルの最上階にあるイタリアンでディナーを共にしている以上、そこまでついてきてもらわなければ困る。
デザートにマロンのティラミスを堪能したあと、レストランを出てテラスへと足を運ぶ。今でこそもう慣れてしまったが、初めて光が街の輪郭を淡くなぞる景色を見た瞬間は、きっと大層興奮したのだろう。夜空を見上げると、満月は半ば雲に隠れているようだった。
「本当に綺麗な景色ですね、名取さん」
一足先にテラスのいちばん奥まで辿り着いていた青葉が、弾んだ声で僕に呼びかける。淡い水色のロングスカートが、そよ風に吹かれていた。僕は「そうですね」とだけ返事をしながら、青葉の横に並ぶ。
二人の間に静寂が流れる。眼前の美しい夜景は、つい見惚れてしまったと言うにはちょうど良い言い訳になっていたが、それもそろそろ限界だろう。僕は青葉のほうを見ないまま、「宮城野さん」と口を開いた。
「はい」
青葉も夜景から目を離さない。
「僕も、重々承知してはいるんですよ。もうすぐ30代も後半に差し掛かろうとしている中、起業家なんて安定したステータスではありませんし、今はそこそこ豊かな生活を送れていても、それがいつ崩れ去るかなんてわかりません。でも、宮城野さんのことを想う気持ちが、どうしても止まらない」
そこまで言って、僕は青葉のほうを向く。それを見た青葉も、僕と相対する。
「釣り合うわけもないのはわかっています。でも、どうか、結婚を前提とした交際を、始めさせてもらえませんか」
僕はそう言うなり、深々と頭を下げる。そして三秒ほど経ったあと、くすくすという笑い声が頭上から聞こえてきた。
「もうすぐ30の女にそんなことを申し込むなんて、名取さんも変わり者ですね。ほら、頭を上げてください」
青葉の声に、僕はゆっくりと頭を上げる。青葉は、満面の笑みを湛えていた。
「ええ、是非始めましょう。結婚を前提とした交際を」
僕は沈黙した。あまりにもうるさい沈黙だった。身体中に溢れる高揚感に、僕はただ浸りきっていた。
「…すみません宮城野さん。僕、言葉が出なくて。大袈裟かもしれないですけど、今の僕は、世界で一番幸せだなんて、本気で思ってるんです」
僕の言葉に、青葉は笑顔を浮かべたまま、首を横に振る。長い黒髪の間から、小ぶりなピアスが一瞬だけ煌めいて見えた。
「そんなことないですよ。私も今、名取さんと同じように、世界で一番幸せですから」
マンションの入り口のオートロックを解除し、エレベーターに乗り込んで、24階のボタンを押す。深夜のエレベーターは同乗者もいないまま指定の階に到着し、僕はいちばん奥にある自分の部屋に向かう。そして暗証番号を打ち込み、僕は部屋の中へと入っていった。
リビングに入ると、高校時代の体操着を着た岩沼が、二人掛けのソファーで足を伸ばしながら、腿に載せたパソコンの画面を凝視していた。その小柄な背中越しに画面を見ると、ちょうどアサルトライフルが敵を撃ち殺したところだった。
「お前またゲーム実況見てんのか。暇くせえな」
僕が声をかけると、岩沼がイヤホンを外してこちらを振り返る。
「なんだ帰ってたのかよ、別に俺が何見ててもいいだろ。てかだいぶ遅かったな」
「まあレストラン入ったのが割と遅かったからな。そこからも時間かけたし」
僕はそう言いながら、無理矢理岩沼の足をよけて、ソファーに腰を下ろす。このソファーも座り心地が悪いわけではないが、近いうちにもっとしっくりくるものに買い換えよう。
「そうか。で、どうだったんだ今回は」
岩沼がもともと出ている歯をさらに剥き出しにして、下卑た笑みを浮かべる。僕もつられて口角が上がった。
「喜べ。成功だ」
それを聞いた瞬間、岩沼は立ち上がり、自分のことのように声を上げて喜んだ。まあ刺激のない日々を送っているのだから、仕方あるまい。
「いやーよかった。明日は鴨肉パーティーだな」
「恒例のやつな。あーでもその前に、そろそろ僕の免許証作っといてほしいんだけど」
僕がにやにやしながら岩沼を見ると、先程までとは一転、あからさまに肩を落としていた。
「えーめんどくさ。まだ作ってなかったっけ」
「そうだよ、それがお前の仕事だろ。サボろうとすんなよ」
僕はそう言いながら、シャワーでも浴びにいくか、と立ち上がる。
「はいはい。ちなみに、今回はどんな感じの女なんだ? 写真ないのかよ」
「お前いつも言ってるだろ、僕等の仕事は写真はご法度なんだよ。ただまあ、雰囲気を言うとすれば」
僕はドアノブに手を掛けながら、つい先程までの記憶を手繰る。
「さしずめ、世間知らずのお嬢様といったところだな」
そう言って、僕は後ろ手にドアを閉めた。
僕、名取亘と宮城野青葉の関係は、恋人同士ではない。結婚詐欺師とカモ、それだけのことだ。これほどリスキーなことを続けてきて10年以上経っているのだから、もしかすると起業家になる道もあったのかもしれないが、結局のところ今雇っているのは保険証やパスポートを偽造する担当の岩沼のみだし、騙し取った金も折半することになっていた。
シャワーを浴び、鼻歌を歌いながら、髪をがっちりと固めているジェルを洗い落とす。しかし今回は過去最高にとんとん拍子だった。ここまで首尾よく事が運ぶとなると、いよいよ僕はもう無敵だ。
『そんなことないですよ。私も今、名取さんと同じように、世界で一番幸せですから』
排水口に吸い込まれていく泡を見ながら、青葉の浮ついた台詞を思い出す。馬鹿だな。幸せになるのは、僕だけなんだよ。