嘘だろう!
テーブルはさらに狭く感じられた。僕と大工屋の向かいに三人が座ることにした。
「篠嵜ちゃんだけこの前いなかったけど、午前中には話を聞いてるわよね」
「え、何の話?」
関はすぐに岡崎を見上げた。
「あーしてないよ、その話は。今から聞いた方が都合がいいんだ」
誰も話す気配がしなくなってから彼は語り出した。
「俺には弟が居たんだ」
「一人っ子じゃなかったのか」
大工屋は今日も質問攻めにするつもりなのか。
「『居たんだ。』なぜ過去形なの」
関は今日も冷静に座っていた。
「俺が殺してしまったのだ」
衝撃的な事実に目を背けそうになった。殺人、しかも弟?!
「え、じゃ、え、でも」
大工屋は情報処理が追い付いていなかった。
「じゃ、今はなぜここに座ってるの?刑務所なんかどこかにいるはずじゃない」
榊は大工屋の代弁をしたようで、大工屋は微かに頷きながら目は岡崎をじっと見つめている。
「生まれてくる前に居なくなったんだ」
「そう」
関が反応した。ここにいるみんなもそれなりの知識を持ち合わせていると信じたかった。
「お母さんが飲むお薬の禁忌を破ったのだ」
さすがにそこまで来るとみんなは何が何の事か分からなくなってしまった。
「妊娠期間中にお薬を飲む場合は病院の先生の慎重な判断が必要だ。胎児にそのお薬の影響や毒性が及んで、難産、死産、奇形出産のリスクがあるからだ」
「そうなんだ」
榊が関心ありそうに相槌を打った。
「俺は母の妊娠週数を密かに数えて、三か月ちょっとの時から少しずつ睡眠薬を食事に混入させてきた」
怖すぎるだろう。
その場のみんなは再び沈黙に陥った。
「そんなに正確に時間など数えられるの?」
大工屋が問いかけた。
「母は計画的に弟の事を考えていたみたい。母子手帳を盗み見てインターネットで調べたよ。確かだったかは俺にも分らん」
こんな事実を語っている間、彼はずっと冷たいトーンのままだった。殺人鬼の形相を思わず思い出して背中がずっとチクチクしている。
「妊娠中は初期が器官形成の時期で、その時はどんなお薬も使うべきではないと言われている。時を計算しながら、三か月くらいから手伝う時にこっそり入れた」
「結果どうなったの?」
「妊娠中に発育異常が認められて人工中絶を選んだ」
彼の目的が達成したわけだ。そこまでして一体なぜなんだ。
「それで弟を殺したってことね」
「男の子だって事は分かっていたらしいから」
「それっていつの事?」
「俺が腎臓ガンだと分かった少し後だった」
え。
「じんぞうがん?」
「定期検診のレントゲンで肺に異常が認められた。精密検査の時にガンと疑われたのだ。そのあとの追加検査で腎臓ガンからの移転だと分かったのだ」
そういう事だったのか。
「その時はすでにステージⅣだったってことね」
「そんなのひどい」
榊が泣きそうな顔をしている。
「いや、その時はステージⅢだった」
一同は再び沈黙した。なぜせっかく早く見つかったガンを遅らせたのか。
「親と喧嘩をしているうちに言うタイミングを失ってⅣに移行しちまった」
悔しさがにじんでくる。高校二年生の文理選択に始まり、彼は自分の人生について色々考え始めたのだろう。直前にガンだと分かったのだ。そして家族の中でいざこざが始まった。
「タイミングが全て都合良すぎたんだよ。四月の定期検診、六月中頃のガン告知、八月の文理選択、十月のステージⅣ宣告、どう、信じられないだろう」
高二の時は学校をあまり休まなかった気がしたから、尚更酷だっただろう。
「その妊娠ってのは」
「十月の頭頃に分かったよ」
親は将来の希望を弟に託す選択肢を作ったことになる。
「ひどすぎるよ」
大工屋は今までに見たことのないような真剣さで口を開いた。続けて、
「今、親はガンの事を知ってるのか」
「知らない。告知の時に本人のみにしておいて、通院も診察もうまいこと一人で通ってきた。親には持病の悪化でごまかしてきた」
岡崎には心臓も生まれつきの持病があると聞いた。毎年心臓検診の時にだるそうに文句を垂らしてくる。
「心臓が悪くなったって知っておきながら一人暮らしを認めたのか」
僕は電話の時から彼の親に対する印象が一気に悪くなった。
「弟の事がショックで一杯一杯になって、そこまで色々と考えられなかっただろう。ちょうど都合も良かったよ」
「今はどうなの?そのじん臓ガンって病気は」
榊は恐る恐る口を挟んできた。
「あともって半年、この間診察でホスピスを勧められた。まだ動けるうちにどうですかと」
ホスピス。学校の教科書でちょこっとしか見た印象がない。まさか言葉として使う日が来るなんて。
「そんな事まで言われたの……」
「そうだな、今家で一人は心配だから先生もそう言ってくれたんじゃないのか」
大工屋はその真剣さを崩さなかった。
「どうするの、もう決めたのか」
「それよりも先にする事があるじゃないのか」
僕が閉口するや否や感じたことのない険しい目線をすぐ隣から読み取った。
「決めるだけじゃないのー」
「その前に、家族に、弟に一言断らなくていいのか」
まっすぐな眼差しは鞘に入った白刃だった。
「難しいんだよ。母は弟の事も知らないのに」
告げなければならない事が二つの命の事になる。だけどそれが何の理由にもならない。
「逃げるな!」
叱りつけた。厳しく。
「自分の事から、自分のした事から逃げるな!」
岡崎の顔色は青じみた様子に変わっていた。
「ちょっと中座する」
と言って彼は奥の部屋に行った。
「そんな厳しく言わなくても、彼もつらいのよ」
関が注意してきた。
「そうよ、それでも親友ってのか、気を使えというの」
彼女ら二人は気づかなかったかも知れないけど、大工屋の目には涙がたまっていた。
「済まないよ。一休みしてきた」
十分しないうち彼が出てきた。
「これで終わりじゃないのー?」
榊はお腹一杯だった。
「もう一つ、俺は今うつ病にもかかってるんだ」
天の不公平さを嘆かずにはいられなかった。
「鬱?」
「多分ストレスがかかりすぎたんだろうな」
彼は今でも冷静に自分を見つめている。
「そりゃそうだよ。一人の身に全部起こったんだもの」
「自業自得だ。あの時にもう少し冷静に親と話合いができたら」
一つの命を失う事も、親と離れ離れになる事もせずに済んだ。そして彼自身も……
「俺らには何もできないよ」
大工屋は初めて弱音を吐いた。「はぁ」という小さな音波が空気中を小走りする
「何も、できないよ」
先ほどと違って、頭を下げて泣くのは大工屋に変わってしまった。彼は微かに震えながら涙声でそれを何度も訴えた。
確かに僕らができる事は限られている。多くの事は本人が自分で向き合わなければならない。でも、僕は彼に言いたかった。一人じゃないよと。
「何もできないかも知れない。でも、相談はして欲しい」
勇気を絞り出して話してみた。
「ありがとう。だからこうして事情を全部伝えた。他人に言うのは初めてだよ」
弱弱しい口調で返事が返ってきた。彼は精一杯の事をし続けていた。今朝見たカレーのお皿が突然目の前に浮かんだ。
「ちょっと、何か食べない?お腹が空いたんだ」
僕に同調して、
「そうなのよ、ザキ部長に朝から呼び出されて朝ごはんもお昼も食べ損ねてるのよ。もうぉ」
「そうだね、何か作ろう!」
関が明るく提案してみた。
「済まない、食欲があまり無かったからそのことを忘れてしまった。俺の分は良いから何か作ったら?近くにスーパーもある。少し歩くことになるけど」
「じゃ、あたしと篠嵜ちゃんは近くのスーパーに行ってくるよ。ジュースに何が食べたい?」
「焼きそばとか、手間のかからないものがいいんじゃない?」
「焼きそばもそこそこややこしいのよ。料理を作らないの?」
「え、普段は親に甘えてる」
自分でお料理を作ってみるのは家庭科の時だけ。
「この人数じゃ調理も大変だ」
鼻声が聞こえた。
「お惣菜でよくないか」
「お惣菜っか、いいけど、せっかくみんな集まったし……」
「皆が集まったって言ったらもうあれしかないよ、たこ焼きパーティーだよ」
彼女の実家は関西にあった。
「僕はお惣菜に一票」
彼の体調も考えると手っ取り早い食事が良い。
「岡崎はどう?」
「だから、食欲が無いんだ。お薬の副作用で夕方にちょっとつまむくらいだよ」
「そうなんだ……」
「じゃ、多数決でお惣菜だな」
多数決?いや、二票しか集まっていなかった。口に出した時にしまったと気づいた。
「何が多数決なの?二票しかないじゃん!面倒くさがり!」
「確かに作ってバタバタするなら落ち着いて話をした方がいいかも知れない。あたしもお惣菜の方がいいと思ってきた」
「えーあやちゃん、何か作ろうよー」
「しのか、岡崎は今大変なのよ」
「それは分かってるよ。でもさぁ……」
みんなでパーティーらしきものを開くのが良いらしい。事の深刻さは分かっていながら、関と久しぶりに会うのにテンションが高くなってる。駄々をこねる口調だった。
話している間、岡崎がフラフラし始めた。眠たそうだ。
「おい、お前大丈夫か」
感情が処理できたのか大工屋はしっかりと彼の事に気を使っている。
「岡崎、大丈夫?」
「横になるか?」
僕と関が彼の隣に寄って支えようとした。
「大丈夫だ、お薬のせいで眠たくなるんだ。でも今日のお昼寝はなしだね。頑張ってみるよ」
彼はあくまでも無理をしているのだ。その事態を改めて認識した。
「ご飯はもうよくないか、話をするのが先だろう」
このような状況では彼優先だ。
「そうだな、岡崎の話を聞こう」
「それがいいと思うわ」
立ち上がった関と榊は再びテーブルに着いた。
「お茶でも入れよう」
「手伝う」
家でお湯を沸かすことをあまりしていなかったけど、ポットの存在に気づいて申し出た。
「結局、どうするつもりなのだ。このままじゃホスピスには行けないぞ」
「そうだよ。時間はもうあまり無いかも知れない」
榊も分かっていたのか。
「話してみるよ。今度会った時に。でも、怖いんだ」
友人に話すよりも格段にハードになる。命に向き合う事だ。そして親につらい現実を叩きつけるのだ。
「いきなりはダメだぞ。多分自分のことを先に話した方がいいだろう」
小手先の技らしく吹き込もうとしている大工屋を見て一気に可笑しくなった。
「正直に自分の非を認めて、自分の気持ちを勇気出して伝えるのよ」
「応援してるぞ」
その言葉以外に掛けてあげられるものが見つからなかった。自分が岡崎だったらと思うと思考停止になってしまう。よくここまで対処したと思った。
お茶を飲みながら岡崎が僕をずっと見つめた。何かを見抜かれそうで怖くなった。まっすぐな迷いのない目線に負けて目をそらし、頭をなぜか榊に向けた。自然と。
「最後に頼み事がある。栖原を助けてくれないか」
予感は悉く当たった。これが責任ですか。僕に見られた榊もこの言葉を聞いてぎょっとした。もう二人は訳の分からない顔をしてそれぞれ僕と榊を見ている。
「どうしても見つけて欲しいんだ。俺の罪滅ぼしだと思って助けてくれないか」
「ザキ部長とは何の関係も無いんじゃない」
「いや、それが、言い切れないんだ」
いやいや、そのスハラ先輩は六回くらい上で、僕らと何ら関係はない。
「その田中さんと栖原先輩は同じく宇名原先生のクラスだった」
「えっ」
「嘘だろう!」