部長会
8
翌日の午前、チーム全員が出席する祝賀会がささやかながら現地のホテルのワンフロアで行われた。そこでは始めに村上と栖原、小塚はそれぞれ感謝のスピーチを手短めにしたのを除いて、三人が顔を合わすことはなく、それぞれみんなと労をねぎらい合った。
午後はまた自由行動になり、大都会を楽しむ最後のひと時、夜には新幹線で会社に戻る予定となっている。
悩みに悩んだ末、栖原は現地に住んでいる友達と久しぶりに連絡をとり、いくつかのスポットを教えてもらった。彼女と回ろうと考えていた。ゆっくり話でも聞きながら。
「昨日は唐突でごめんなさい。嫌な思いを、」
「いいえ、大丈夫ですよ」
実は栖原、カミングアウトしたことが初めてではないとは言え、その人の数は片手に出ていない。彼女に言おうと決めたのはホテルに向かっている途中にその可能性に気づいてからだった。彼は昨晩後悔するかも知れないと予防策に睡眠導入剤と抗不安薬を合わせて飲んだが、意外と眠ることができた。
彼は最初にカウンセラーのあまり知らない人に言ってみたのだ。その返事は実に当時の彼をびっくりさせた。
「そうですか。分かりました。何も特別なことではないんですよ。私の友達にもいますし、今では病気でも何でもありませんから」
「でも、なんだか怖くて、悩ましくって、このままじゃダメなんだと思ってしまう」
「自然なことです。ただ女性じゃなく、男性を好きになるというだけのこと、悪いことでも、直すべきことでもありません」
冷静で毅然とした態度で言われた時は初めて自分が認められた気がした。安心した。そして、
「それを無理に他人に言う必要もありませんし、普通にしていればいいんです。その人たちにも狭いけれど、生きる場、出会いの場があります、私の友達も外国でですが、幸せそうに暮らしていますよ」
日本ではまだ狭いのか。そう言われたのは高校二年生の夏だった。それからの日本の変わりようを見て少し嬉しくなる。随分取り上げられ、正しい知識が広まりつつある。
「私も昨日の晩、国連やいくつかのNPOのホームページを見てみたの、昨日までとは違う情報をたくさん見たわ」
「そう」
「普通だよね。どんな自認でも、他者に対する認識でも」
室外だからオブラートに包んだのだろう。
「そうだと俺は思うな」
「私もそう思う」
二人は知らない間に出張前のやり取りに戻っていた。
「そのようなお友達はいないの?」
「今の所いないね、なかなか人に言えないよ」
「昨日はすっごい冷静だったじゃない」
「いや、怖いよ。どんなに冷静に見えたって。ドキドキしたし、言わないでおこうかと最後まで悩んだ」
「すごい勇気が必要な事なんだ」
「まだ偏見が根強いからね」
「いつか広太郎も自分を普通に人に知ってもらえる日が来たらいいね」
「えっ」
いきなり広太郎と呼ばれた。初めての事だった。
「何かおかしな事言った?」
彼女はデリケートそうに聞いてきた。
「ううん、そうだね」
「これからも一緒に働きたいなー」
「今回のモデルケースは成功したじゃないの」
「成功だと思う、広めたいなー」
部門間が最短距離で密着して組織されることで全体がコンパクトになり、情報伝達がしやすくなる上、書類や報告、会議も直結になって随分少なくなる。
「でも、もう少し複雑な案件だとやっぱり今までのやり方になるだろうな」
彼女は少し考えてから、ちょっと暗くなって、
「そうかも知れないね」
彼女にいくつかの場所を紹介した。喜んでくれたみたいで良かった。彼女はその後、調べてきた事で、自分の生まれた性別と認識が違うケースや恋愛の対象が男性と女性の両方である人も多くいる事を教えてくれた。今までは男性間と女性間の恋愛についてしか詳しく知らなかった。それも最近の本やカウンセラーの人から仕入れてきたものだった。当事者である自分はネット上の偏見や差別的発言を避けたくって調べるのをずっと我慢してきた。実際ネット上では偏見や間違った情報もたくさんあるのよとも教えてくれた。ここに来てやっと彼の心の中の心配事が一つ減った。ただ、ハテナマークは残されたままだった。まあ、彼女から昔話を聞くのはこれからの付き合いの中ででも良かろう。
「ありがとう。無理をしてまで今日色々と連れて行ってくれて」
「無理はしてないよ」
彼女に負担をかけるのも悪いと思った。カミングアウトするのはその場の流れもあったが、自分が言った言葉だ。それを他人に強いて負担になるような事はしたくない。彼女は自分から知ろうとしてくれた。
「そう。じゃもう心配しなくていいわね」
「大丈夫だ」
「これからしばらく分かれて働くことになるかも知れないけど、連絡先交換しない?」
先に言われた。
「俺も聞こうと思った所」
小塚と連絡先を交換し、別々に新幹線の乗り場に着いた。僕はその前に書店に寄り、ネット攻撃の最新の情報を見て回り、サーバー攻撃の本を何冊か買った。このような情報は更新されるのが速いから、図書館じゃ間に合わない時もあるし、インターネットでは英語で読まなくてはならないことも多いから本の方が勝手がいい時もわずかにある。言い訳をしておくと、ネットで調べたくなかった。ネットを攻撃できる情報なんかをそれ自体で調べるのが嫌だった。サーバーもインターネットの一部である。
9
ある日の朝早く、スマホのアラームのすぐ後に着信音がした。まだベッドで駄々をこねていた下林は着信表示を見るやベッドから飛び上がった。岡崎からの着信だ。
「おはよう。今日は体調がいいんだ。どう」
「今日か、僕は大丈夫だよ、ほかの二人は?」
「大工屋は授業を早めに切り上げて午後から来ることにするらしい」
「ってことは昼からだね」
「ううん、朝から来てほしい」
「えっ?」
「タケと話がしたい」
「そうなのか」
詳しい事は会ってからにしよう。
「分かった。何時くらいに着けばいいの?」
「もう出かけてくれ、早ければ早いほどいい」
なんだか時間を気にしている様子だ。
「あ、あ分かった。今からすぐ支度する」
「待ってる」
朝ごはんは絶望的だった。今からシャワーを浴びて、電車の時間は……
結局着いたのは電話から一時間半後だった。電車の接続は朝のくせに悪かった。チャイムを押すのが怖かった。
「はい。どなたです」
「下林」
ガチャ、今度はチェンがかかっていない。ドアが半分も開いた。そのすぐ向こう側に榊が座っているのが見えてぞっとした。この組み合わせというと。
「入って」
「遅いな~タケちゃん、結構待ってたのよ」
「電車の時間が悪かったんだ」
「まあまあ早いだろう、さっそく座ってくれ」
岡崎は急がせるようにしてテーブルに着いた。近くの流しにはカレーを食べたお皿が何枚か重なっている。
「どうした、こんな朝早く関と大工屋もいないのに」
分からなかった振りをした。
「部長会は初耳か?」
「聞いたことがあるよ」
榊はすぐに反応した。岡崎は部長だった。そして今部長がいないのを思い出した。
「この前ちょっと聞いたけど、」
「詳しい事を少しだけでも知りたくないのかなと思って」
先走りの呼び出しだった。知りたいのも事実だった。
「教えてくれるの?!」
おとぎ話を聞きたくって待ちかねている子供そのままだった。
「聞きたいのかを先に確認しておかないといけない。聞いたからには責任も付いて回るんだ」
先から深刻そうな顔をしている岡崎、どうも何らかのきっかけを作ってくれていらしい。
「責任だなんて怖い事言わないでよ。そんなに怖い話なの?」
「そうだ。怖いし、どうにもならないし、責任を負っていくんだ」
「そんな話を教えられに朝からわざわざ呼び出されたのあたし?」
一気に不満そうになった。彼女は最初頭から楽天的な冒険話を期待していたのだ。僕は途中からそんなんじゃ済まないと気づけたけど。
「榊は聞きたくなければ冷蔵庫に入っているカレーでも早めの昼食で食べて帰ってくれ」
まだ残っていたのか?新たに作った物だと気づくと自分に白目を向けた。
「今日は冷たいな。もう。聞いてあげるよそこまで言うんなら」
彼女は人の言葉の意味を正しく理解できたのかすら怪しくなってきた。自分でどっちか選べと言われているのだ!
心の中でだんだんこのやり取りをうっとうしく感じ始めた。帰って欲しかった。午後までには帰ってくれと願った。
「タケちゃんはどう?」
急に聞かれてびくっとした。学校で聞いた時は結構興味をそそられたけど、いざ核心に迫らないかと誘われると迷いはある。もう探偵ごっこは息切れだった。
「そんな急に聞かれても」
「じゃ、この件はまた別の日にする?まあ、お前には午後にもう一回来てもらうことになるけど」
しまったと思った。
「え、午後に誰が来るの?」
やっぱり。
「あんたの親友関さんと大工屋だ」
「え、あやちゃん来るの?一緒におしゃべりしたいなー」
安定の筋書き。二人はくっつくと離れない。
「今日はおしゃべりじゃなく、話を聞きに来るんだ」
「誰の?」
もう代わって返事をするのも嫌だった。
「俺の話に決まってるじゃないか」
「そうだよ」
やっとだるそうに返事した。
「あ、そういえばこの前、喫茶店で、」
彼女が言いかけたのを慌てて遮った。あのテンションを思い出して恐ろしくなった。
「聞くよ。教えて」
榊は不思議な目線で見てきた。『何を?』と言った具合に。
「榊はどうか」
「え、あ。聞いてみようかな。怖そうだけど。ウフ」
やめておけ。すっごく言いたかったが、個人の自由だ。
「もう一回聞く。真剣に聞きたいのか」
「うん」
榊は元気に頭を縦に振った。
「教えてくれ。気になってたんだ」
「部長会のメンバーはただ二人、俺と栖原先輩だ」
「スハラ先輩?」
聞いたことのない名前だった。誰だろう。OB会にでも来てたのかな。たいそう多くの先輩が来てたから一人一人の名前までは覚えていられなかった。
「そう。二代目前かな、の部長だ」
岡崎が部長になる前は女子が部長を務めていた。やり手の凄腕女子。男子顔負けのテキパキさで理科部を牽引してきた。そのさらに前の部長ってことになる。計算してみたら、あれこれ三十歳目の前になるじゃないか。
「スハラ部長となぜ部長会などを。その間にも、」
「彼女は完璧にこなしてきたから入る必要が無かった」
『完璧に』何かをこなすのは言い切れないし為し難いことだ。誰だって間違う。岡崎は何が言いたかったのか。
「彼女は周りの人間に害を与えずに生きられたから入らなくてもいいんだ」
「でも、ザキ部長だって何も大事を起こしてなかったじゃない。ねぇ」
聞いてきたから同調した。完璧までだとは言えなくとも、見事に務めてきた。
「いや、俺は周りの人間をだまし続けたんだ」
同じセリフ、二回目。
「え、だます?」
榊はまた訳分からぬ顔を向けて来た。俺に聞いてどうする。
「その話は午後に話すとして、栖原さんの話を先にしておく。多分もう二人はそのあたり興味がないだろうから」
そういう事なのか。やっと話の筋が見えつつあった。
「スハラ部長の話って面白い?」
「とりあえず聞こうか」
我慢の限界を抑えてなだめた。
「栖原さんは親友の田中さんを助けられなくって、田中さんが行方不明になってしまった」
これでやっと榊も顔を曇らせた。
「栖原さんは中学校の時から田中さんという男友達を持っていた。そして同じ高校に入ってきた」
「じゃ頭良いじゃん、その田中さんって」
一応卒業した高校は進学校だった。進路実績はたまに雑誌のランキングに乗る。
「その田中さんは日本生まれじゃなかったんだ」
「だから?」
「中学校の時から酷いいじめに遭ってしまったらしい」
「えっ、怖いね」
「栖原さんはまた田中さんの唯一と言っていい友人だった。そして成績もよかったから良きライバルって感じ?」
「それで、」
「栖原さんは田中さんの日本語の練習にと交換日記らしき物を中学校から始めたらしい」
「えっ、男同士で交換日記っ」
そんな気持ちも分かる。でも、目的を聞けばそれは良い方法なのかも知れない。
「交換日記とは言っても、女子がしてそうな物じゃなく、日本語の問題や数学の問題を出し合って、文字で解説し合う勉強メインのものだった」
それを聞いてさらに納得した。
「あーなるほど。勉強を教え合うついでに日本語も書けるし、頭いいね」
「でも、ある日、ノートを開いたら、何も問題のコピーが貼られていなかった」
一間を置いた。それがとんでもなく恐ろしかった。
「赤い文字で大きく、『助けて』としか書かれていなかった」
「ひっ」
榊は明らかに話に飲み込まれていった。
「どういう事なの、それって」
「それは最後の最後まで栖原さんも分からなかった」
「分からなかった?」
「そのノートを返す前に、田中さんは行方をくらませたのだ」
「自殺とかじゃなく?」
榊の予想していた結末とは違っていたかのような口調だった。このオナゴ、解せない。
「そう。行方不明になって今まで現れなかった」
「それってスハラ先輩が悪いわけじゃないじゃないか」
いじめをしたやつらが悪いのだ。そうに決まっている。
「俺も初めはそう言って慰めた。でも栖原さんはずっと、『済まない。俺が悪かった』と思い込んでの一点張りだ」
「今も?」
「最近先輩は忙しいからと言ってきて連絡取れていないけど、そうじゃないか」
「大変だな。それで自分を責め続けていたんだ」
「そういう事」
部長会伝説。部長は不幸せな酷い目に遭う。
「それだけ?」
それだけ?友人のいじめ、そして助けてやれなかったシグナル。今も安否も行方も分からない田中さん。榊は一体どういう思考法をしてるんだ。僕に言わせれば気がかりばっかりだ。
「それだけって言われてしまったらそれだけだ」
「捜してないの?その、田中さんって人を」
「休みがあればあっちこっちで捜しているらしい」
「無理だろう」
「警察には失踪届とかは出てるの」
「そこまで聞いていない」
「え、じゃーあたしらも責任を負うって……」
その事を思い出したみたい。さっきから悪寒に襲われている。探せとは言われまいか。
「手伝ってくれないか」
「はぁ?!」
彼女は叫びながらテーブルに手をついて半身立ち上がった。
「落ち着いて!強制じゃない」
「そんな事頼まれても、全くの見知らぬ人だよ」
「分かってる。そしてどうするかは午後に俺の話も聞いてから決めてくれ」
関係しているのか?
「午後にザキ部長の話も聞けるの?」
「聞きたくなくなってきた?」
「いや、楽しみだなーと」
感情を切り替えるのが速すぎてついていけない。
「そう」
「栖原先輩の話はとりあえず終わりだ、ゲームでもするか」
「しよう!」
する気になれなかった。自分とは全く関係のない事だったけど、午後の事も気になって仕方なかった。
「おい。疲れたか」
肩を叩かれて一瞬ためらったけど、
「いや、ゲームするかっ」
自分をマヒさせることにした。気にしても来るべきものはやってくる。岡崎を見舞おうと言い出した時からなんとなくそんな予感がし始めたのだ。
三人で部活の出張の時にいつも部員が楽しんでいたテレビゲームを久しぶりに満喫した。時間はどんどん進んでいく。
「ピーンポーン」
ゲームの真っ最中、聞こえてきた。時計に目をやると、午後一時半ぐらいになってしまった。お昼も抜くのか……
「はーい」
岡崎が玄関に向かう。
「時間ちょうどに来たよ、もう、うるさいんだから」
どうも午後組には時間指定をしていたみたい。
「済まなかった。座ってくれ」
僕はゲームの後片付けをし始めた。
「えっ、もうこんな時間、今回こそ勝ちそうなのに最後まで行こうよー」
ゲームをしに来たわけじゃない!
「篠嵜ちゃんも来てたの?」
「うん、部活のメンツででも会おうかなと思って」
「そうだね、会っておかないとね」
岡崎の話を聞いて榊は再び疑問の目線をこっちに送ってきた。
「話を聞けば分かるよ」