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夢の跡  作者: 常務
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【20:30~】

27

【20:30~】

 自分の後輩らしき人たちがぞろぞろと出て行ったあと、栖原は石田の兄に言った。

「もうこれで良いんじゃないか?」

「良くねぇーよ。本人だって、」

 田中が背負ってきた大きなカバンが時々目に入って気になっていた。石田なら視界の中にずっと入っていただろう。あのカバンは一切触れられなかった。

「開けてなかった。そしてパリも燃えていなかった」

「やっぱりお前も思ってるじゃん」

「カバンの中身、なんとなく分かってる」

「ふーん。パリは?」

 以前に同窓会で噂が流れて、『パリは燃えている事件』と伝説にされて呼ばれていた。でも確かな事を知っている人はいない。

「さあ、シラサワ先生がやめた理由だなんて分からない」

「飲みに行かねぇーか、腹が立ってしょうがない」

「まあ、お前が最初に勇気出して宇名原に言ったもんな」

「全く、火が燃え移るのを怖がりやがって、あの時なんか手を打っていれば」

「元輝が消えることはなかった」

「ここまで来てお前がそれを分かってくれりゃもう良いわ」

「飲みに行こう」

「あーやっぱり止しておく、家のやつ、いっつも酒が飲みたいって言ってくるから面倒くさいわ」

「あの年で?」

「高三のくせにどうやら酒に興味があるらしい」

「本当にいいの?」

「今日は飲んだって気分悪いわ、また誘うよ」

「ほんじゃー」

 栖原は会議室を出た。心の中にあった何かが地面に落ち着いて、何かが粉砕されてすっかりして、何かが新たに生まれた。複雑の感情を抱えたまま校舎を歩いて昔の日々を思い出した。そういえば田中のやつ、千円借りてそのままだったじゃん。

 さっき、お酒に誘われて、最初はなんの興味もなかったけど、階段を下りながら何かを全部すっきり流してしまいたい気分になって、相手を頭の中で物色し始めた。昼間の出来事からリョウに会いたくなかった。仕事が多いって文句を言ってきた小塚ならまだ会社に残ってるだろう。

「はいー、栖原ッチ、どうしたの?」

 二回目にして気持ち悪かった。まだ会社に居るっぽい。

「どう?手伝おうか」

「あなたが手伝えるものは何もないよ。技術屋さんはみんなとっくに帰ってるわ。あたし?まだまだ残業だよ」

 最後だけ不満そうに聞こえた。

「そんなに嫌なら仕事なんか放り出してお酒に行かない?」

 二人の話し方がわずかながら変わっている。

「お酒?いいわよ。あとー、うん、あと三十分は無理だけど」

「会社の下の『ふくはら』、いつものセットでどう?」

 いつものと言っても十回も超えていなかった。でもそう言いたい気分だった。

「いつものセットね。了解。あー、あと、今日はお腹いっぱい?」

 お腹いっぱいなら誘うはずないだろうと思ったが、「お腹いっぱい」が引っかかって思い出した。

「今日はいいよ。空いてるから」

「じゃ遅くまで付き合ってもらうわよ」

「それが本望だ」

「この大酒飲み」

「早く残業済ませろ」

 最後は笑いながら電話を切った。大酒飲みって。


 僕らは一緒に会議室から出てきて人がいなくなったところで歩きながら話を始めた。雨はもう止んだ。

「ねぇ、田中先輩のこと気にならないの?」

 榊が聞いてきた。僕らは関が抱えていた段ボールが気になって仕方なかった。大工屋もそこまで詳しくは見ていないと言う。

「あたし?もういいわよ」

「あなたはいっぱい書類を見たから大体察しが付いたからって、」

「見たかったら持って帰ったら?そんな宝物じゃないよ言っておくけど」

「じゃ持って帰らせてもらう」

 大工屋に目線を送った。一緒に見よう。彼も分かったみたい。

「でも、しのか、あなたの情報がドンピシャだったのよ」

「榊、なんか知ってたのか」

「パリの事とー」

「ちょっと待てよ、知ってるなら一言くらい言ってくれよ」

「それは段ボールを見ればわかるわよ」

「今も何か回ってくるの?そういうのって」

「知ろうと思えばできるよ、どうした?何か聞きたい?」

 純粋な問いかけだったけど、大工屋と関は驚いたみたい。僕はなんとなく感づいているけど、何か言うのをやめておいた。すると次の瞬間、

「だって、理科部が盗聴してるんだもーん」

 大工屋と関が同時に振り返って彼女を見た。あーあ、やっぱり。

「今も?嘘だろ」

「今日もやってたわよ。十月の行事予定とか言って」

「怖すぎる」

 関はそれっきり黙ってしまった。

「倉庫に行ってきたんじゃないの?」

「倉庫がどうかしたか」

「鈍感ねー」

 今日僕が倉庫で見た埃のない綺麗な棚の中身はアンテナや配線だったのだ。大胆すぎる。目隠しくらいしておかないと。というか、それは違法行為である。

「鈍感だよ。悪いか?」

「まあまあ、後で説明するから」

 関は『分かってたの?』という目を向けてきたけど、僕だってさっき気づいたばっかりだ。目を左右に揺らせた。

「じゃーまた連絡するね」

 関がそう言うと皆は分かれて家路についた。


 宇名原は職員室に戻っていた。する事は残り一つ。教頭の机に封筒を置いた。表に文字が二つ筆で書かれている。


【22:00~】

 家に着くとすぐに石田にメッセージを送った。

「盗聴。いつから始めたの?」

「バレましたか、時間は僕にもよく分からないんです。最初は他の人がこっそり始めたみたいで」

「俺全く知らなかったけど?」

「先輩らの代から始まったとしても知りえるのは部長くらいです。極秘事項として隠されてきましたから」

「そうか、ありがとう」


 居酒屋で田中の出来事を彼女に言おうと思ったけど、今日は聞く方だった。結局残業は終わらず、この時間帯になってしまった。

「お疲れー」

「お疲れ、というか、どこに行ってたの?家?」

「まさか、家なら呼ぶ友達くらい居るよ。同級生の用事で付き合ってきた」

「優しいね、同級生の用事まで手伝うの」

「親友だったからね」

「会ってみたいなー」

「今も大変だからまだ今度」

「そうなの。あたしね、昔叔父に預けられて育ったの」

 いきなり本題に入ってしまって一瞬付いていけなかった。

「え。そう、そうなんだ」

「親が早くに離婚してね、一人じゃ仕事しながら世話ができないでしょ、それで叔父の家によく預けられてた。叔母が家庭主婦だったから」

「大変だなそれは」

「それで、叔父が教師でね、学校で同僚の策略に嵌って辞職したり、転勤をよくしてたの」

「学校ね、どこも穏やかじゃないのね」

「学校は汚いわよ」

「そうかな」

「そうよ、結局会議で志願退職を言い渡されてね」


28

「おじいちゃん、最後はどうなったの?」

「どうなったって、そのまま終わった」

 元輝は袴を着て居間で涼しんでいる。私もなんとなく浴衣で家で過ごしていた。私と小学校中学年の元輝の孫で将棋を指していた。元輝は将棋が嫌だと子供のように駄々をこねて、最後仕方なく私の所に連れて来た。

「パリはどういう事だったの?」

「あー、パリね、シラサワ先生が可哀そうだったわ、はは、はは」

 小塚の涙顔が目に浮かんだ。

「うん?」

 元輝の孫は聞きながら将棋の歩を前に進めた。

「良いね、いつの間にこの手が」

「テレビで勉強してきた」

「そうか、そうか」

「そういえば、あの日お爺ちゃんは飲んでいてね、店のテレビからニュースが流れていた」

「どんな?」

「学校でいじめに遭って自殺した高校生の事件で、」

「えっ」

 孫の顔が曇り始めた。

「学校と教育委員会が初めて謝罪をしたの」

「そう」

 孫は嬉しそうな笑顔に戻った。

「飛車」

 孫はまた敗戦を喫した。

「えっ。ウソ、また負けちゃった」

「また練習しておいで、今度はお負けなしでやるぞ」

「うん!」

 元輝は立ち上がって戸を開け外を眺めた。庭でカスミソウがあっちこっちに生えている。雑草が良い具合に緑を調合していた。

「そうだ、芭蕉は知ってるだろう」

 元輝が孫に呼びかけた。

「知ってるよ」

「あんたのお爺ちゃんはあれが大好きなんだよ」

 私は懐かしそうに教えてあげた。

「確かに凄いよね」

 小学生でも芭蕉を知っているとは立派な事だ。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

 突然元輝が庭の草木を見て呟いた。松の木が勢い良く伸び、雑草は一昨日刈ったばっかりで割とすっきりしている。そうだ、後であの丘に行ってみようかな。岡崎の五十回忌の時に何人かで登ってから何年が経ったのか。

 孫はその時繰り返した。

「夏草やー  兵どもがー  夢のー跡ー」

 私も一度ゆっくりと詠み上げた。最近通っている短歌のサークルで詠み会なんかもしている。

「夢の跡、夢を追い続けるのが良いってみんなが言うけどね、夢って一言で言っても、何でも追って良いもんじゃない」

 田中は突然そんな事を言い出した。彼の事を思うと分からなくもない。自分の未来を見越して満州戦争孤児の三世として帰国を決めたけれども、果たして彼にとってその選択は正しかったのか。

 孫は静かに考え込んだ。そんな様子を見かねたか、

「はぁは、深く考えるな。いずれに分かる」

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

 繊細に反芻するように孫はまたそれを口にし始めた。

 その時テレビから音楽が流れた。『学舎』。下林っていう後輩の作品だ。その時は一世を風靡したが、もう隠居しているみたい。

『二人で歩む帰り道 日暮れ時に思い出す あなたに借りた消しゴムを 私は未だ手の中に

 あの夏の思い出に 二人で見舞う友達を カスミソウが立てる まっすぐ(はな)緑色(ろくしょう)

「あいつ、あの時は目立ってなかったけど、こんな歌詞書くんだな」

「その後追ってきてしつこく聞かれたよ。俺が遭ったひどい目をな」

「そんな事があったのか」

「まあ、全部夢の跡だよ、夢の跡」

 孫はその間にぐっすりお昼寝に落ちていた。私は焼酎を取り出して座卓の上に置き、そのあと二人でちびちび一時を飲み込んだ。のど越しは渋かったな。焼酎なのに。


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