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夢の跡  作者: 常務
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【08:30~】

【08:30~】

 下林は学校に着いた。早すぎたのか、夏にも早々と部活に打ち込む運動部の面々でさえ見かけなかった。そろそろ朝練のストレッチくらい始めても良い頃だった。

 校内に入ると真っ先に職員室に向かった。誰がいるのかを知っておく必要があった。特に今のオカ先生と謎の宇名原先生だ。今の所オカ先生は来ていない。部活が朝ならもうすでにお見えになっているはずなんだけど、どこか用事にでも出かけたのか。宇名原先生の席も空いているが、かばんが置いてあった。

 部活の部屋に向かう途中、いくつかのクラスは電気をつけ、ちょっとした騒ぎになっている。それは文化祭の準備をしているのだ。夏を使わないと終わらないような壮大な内容を企画するクラスの方が圧倒的に多い。どうせやるなら、というか折角の機会で渾身の技を繰り広げ合いたいのだ。段ボールを運んでいたり、パソコンを学校に持ち込んで何人かが画面にくぎ付けになっていたり。懐かしく思い馳せながら下林は部室に辿りついた。その時初めて大工屋の事を思い出してこっそりとトイレに行ってメールを打った。

『ごめん、ホスピスじゃなくって、別の用事ができて、行けなくなった。夜の方は予定通りに行く』

 何か悪い事をしてしまったように思えて、部室のドアを開くのをためらった。中を覗き込むと石田はもうそこに居た。他にも何人かの部員が黒板に設計図を書いたり、パソコンをいじったりして活動をしていた。ならオカ先生はもう来ているのだろう。

「石田ー」

 勇気を出して中に向けて呼びかけてみた。すると石田はすぐこっちに気づいて、何かを企んでいるかのような振る舞いで近くの部員に話を吹き込んでから前のドアから出てきた。廊下で手を挙げて『こっち』へとでも言っているらしかった。一体どこを用意したのだろうか。

「どこに行くの」

「あの部屋じゃとても話せませんよ、あと、今日は休みを取ったことにしてますので」

 そこまでしてこの件をあからさまにしたくないのか。

「今から倉庫に行きましょう」

 部活動の関係上、機材などを収納する倉庫が学校から指定されている。そこはちょっとしたはずれで部員以外はほぼ誰も近寄らない。同級生の中であそこが部屋だったという事すら知らない人も多い。中は機材の置きスペース以外にテーブルと何脚か椅子が置かれていて、時折部員たちはそこで機材を組み立てたり、運びづらい物はそこで使ったりしてきた。そこで話をするのは賢明だ。

「理解。そう言えば片付けはキープできてるの?」

 便利そうな倉庫、一方でその機能性がゆえに収納する機材や書類、部品が乱雑すぎて、それらを綺麗に管理することは毎回年度の初めの悩みの種になってきた。次の新年度の部費で何を買い足すかを調べねばならなかったからだ。

「まあまあです。また秋頃にもう一回片付けますよ」

 それで大体惨状が目に浮かんだ。入るとやはりあっちこっちにダンボール箱が高く積まれていて、はみ出ている木材やプラスチックの板、電線やらコードやらが乱雑そのままだった。埃もあっちこっちに積もっていた。ただ、隅っこに置かれた棚だけは綺麗に整理されていて逆に目立っていた。最近ずっと使ってる物だろう。にしてもやたらとコードが付いてるな。あの長い棒は何だ?

「どうぞ」

 さらに奥の準備室もどきの部屋で腰を下ろすと石田は向かいのイスに座った。

「単刀直入に聞く。この前のホームページ、あれはどういう事だ」

「録音ですか?それともどの記事がですか」

 録音の事は知っていた。他の記事?そんな怪しい物は見付けていないが、彼はなぜそれを話に持ち出したのだろうか。


 大工屋は家を出た後にメールを受け取って再び癇癪を起しそうになった。

『あいよ。関さんと一緒に行きまっせ』

 メールを送信してホスピスに向かう前に何か差し入れをと思って道半ばに通るスーパーに入った。蒸し暑くって雨が降りそうな日にはアイスなどが喜ばれそうだ。フルーツもいいだろう。今はどんな食事スタイルをとっているのかを予想しながらカゴにほんの少しだけちょくちょくと入れていく。前回見舞った時、見舞いの品々の山に困った彼の顔が浮かんできたからだ。

 そうだ、関も何かを持っていくのならばと思って急いでメールを送った。

『お見舞いの品は俺がちょっとだけ買ったから大丈夫』

 そしてすぐに返信が来た。

『そうなの。助かる。ありがとう』

 これで良いだろう。手に荷物を引っ提げる蒸し暑い朝の道を急いだ。道中小学生たちが元気に自転車を乗り回して夏休みをそれなりに満喫していた。羨ましそうに赤信号待ちの小学生らしい集団に目線を送った。これから海にでも出かけるのか、荷物を多く自転車の前に積んであった。


 栖原が急いで家を飛び出した後、リョウは手付かずの朝ごはんをボーと眺めていた。テレビを付けても穏やかそうなニュースはない。政治家がもめにもめた国会は滑稽この上ない。中継を見たことがあったけど、あのけしからんことやら。チャンネルを変えて料理番組を見つけた。宮崎の鶏肉を使った親子丼、青ネギと刻んだ海苔がまぶしてあってうまそうだ。ちょっと眩しいくらい鮮やかな黄色が視界を占領する。今日のお昼はどこで済まそうかな。約束まであと二時間くらいだ。まずは目の前の朝ご飯を食べてしまおう。


【10:00~】

 いつも通りホスピスで朝を過ごしている岡崎。大工屋が昨日電話を掛けてきた時は実にドキドキしっぱなしだった。自分が委員長を務めた時に発生した校内の事件を今更掘り返されるのかと。夕方に急いで彼に渡したい物を親に連絡してその日のうちに届けてもらった。段ボール箱半分を超す書類だった。あの時はこれを証拠として保存しておいた方が良いという副委員長からの助言もあり、学校に提出したのはすべてコピーだった。独立組織の権限として何とか原本照合を行わせてコピーで認めさせた。原本は委員会が保存することにして最終的に自宅に引き取った。その時他の人間の多数は行き先を失った学生運動に熱が入り、先生たちによる圧制に抗う事だけが目的になっていたが、内情を全て知っていた委員長と副委員長たちは歯を食いしばって原本を自分たちの手元に残した。副委員長の方にも万が一のため、学校が原本照合し終えたものを一式預けることにした。これらはまさにあの生々しい事件の文字証人である。今日大工屋に渡すつもりの物は原本だ。その前に、彼に全てを話しておかなければならない。そのせいか、朝ごはんを食べる食欲も無く、テレビを付けても何も面白くなかった。ベッド脇には昨日届けてくれたついでに新しく生けてもらった花が座っていたが、生き生きとした模様に心は沈んでいた。鎮痛剤の点滴を始めて一時間、外の景色を眺めると雲がさらに厚くなった。天気予報は午後に雨があると伝えている。ビニール袋も用意した方が良かったのかな。後で一階にもらうように言わないと。

 ちょうどその時ドアがノックされた。

「どうぞ」

 すると関と大工屋が入ってきた。彼女の顔も見れてさらにうれしくなった。久しぶりに来てもらった。

「おはよう」

「おはよう、ベッドの近くでいいから座って」

 施設の方には点滴の時別にパイプ椅子を一脚頼んでおいたのだが、二人が来たからベッドの左半分に落ち着いてもらおうかな。

「え、大丈夫?」

「全然、ベッドの半分も使わないんだから」

 体をベッドの右半分にゆっくりと寄せて、関がとっさに手伝ってくれた。

「ありがとう」

「それで、何をくれるのかな」

 大工屋はさっそく切り出した。関は少し不快そうに彼を見ている。

「だって、体力があるうちに、ね」

 その目線に気づいたのか、言い訳のように自分に言ってきた。話の相手はあくまでも自分。

「大工屋、あの段ボール、持ってきて欲しい」

 指の指す先はテーブルの上の段ボール。彼がそれを覗き込んだ時にちょっと怪訝そうな顔を向けてきた。全く訳が分からない様子だった。多分そんなに知ってるわけじゃないようだ。

「おいっしょ、結構重いじゃんこれ」

 関はちょっと訳ありな顔でずっと大工屋の動きを追っている。

「ホームページの件は後で話してあげて、今は段ボールの説明をするから」

 関に言うと彼女が一瞬だけ分かったような顔からその後は困惑していた。ただホームページの事を説明するだけなのに、その反応は不可解だった。まして一緒にそれを見たことがあるのに。彼女が口をやっと開いた。

「その件だけどね、その時のコピー持ってる?」

 その時のホームページも二部全ページ印刷して保存してある。学校に証拠としても提出したが、所詮学生が運営するネット上の世界の話であって、大した信ぴょう性が認められなかった。

「中に入ってるけど、どうかした?」

「その時のとまた違ってるのよ」

「え?」

 大工屋が二人の会話の間に入っていけずに箱の中身ばっかりを漁って見ていた。

「あーそういう事だったのか」

「大体は分かりそう?」

「ちょっと!バカにするなよお前」

「宇名原先生がすごい動いてるなこりゃー」

「これで分かっただろう。今日の約束の相手よりも、田中と宇名原先生が問題の中心にいるんだよ」

「お前、止められなかったの?」

 そう聞かれると思った。

「怖くてね、あの録音の時、俺の声も入ってた」

 初めて勇気を出して認めた。関と大工屋は同時に見つめてきて声を失った。大工屋は目を丸くして、関は瞼を吊り上げた。

「えっ、あの録音って」

「ホームページの録音、聞かなかったか?」

 ホームページの件を知っている関なら分かるはず。大工屋はそこまで見ているのか分からなかったけど、顔のびっくり具合からして察するに知ってるみたい。

「中にはそんな証がなかったはずよ」

 関に頼んでいる筋から彼女が委員会にも来てくれて書類の整理を色々と手伝ってもらった。

「それは俺が最後の最後に自分で証言書を書いて付随資料として追加提出した」

「だから誰も知らなかったのね」

「追加提出は個人ででもできるからね」

 生徒指導部が動議を受け取ったあとすぐに校内調査委員会を設置した。委員長は生徒指導の先生が務め、僕は重要補佐人として会議の都度呼び出されていた。土日にもちょこちょこ学校に行かされたものだった。関はその事に関してはもちろん知らない。宇名原先生の聴取資料に参考意見を付けたのは自分だった。あの人は完全な事実を話していないと抗議したが、先生らの間での調整という名目でかわされて結局主要責任者の問責の中に一部の事実認定がなされていなかった。最終報告書を決議した会議では再三抗議したが、生徒一人がそんな事を変えられるはずもなく、会議の途中でこう言われてしまった。

『一介の部活動の学生長がこの会議に座られるだけありがたく思った方がいいのでは』

 そう言われたときに微かな希望もがかき消された。

「それでも、あなたは責任を問われなかったじゃない」

 関が聞いてきたが、実は生徒の処分は一人として行われなかった。外向きでは全校集会の場で生徒の名前を出さずに部活単位で注意されたが、内実は無関係とされた。その加害者生徒たちの将来を気遣ってと。後々進学する際に調査書を多めに申請してこっそり見てみたけど、活動記録には何も一切記されていなかった。はっきり責任を逃れさせたいのか、生徒会組織に参加していたとか、部活の長を務めていたなどの記載もされていなかった。完全に闇に葬ったわけである。まあ、進学の際に気にしてなかったと言えばウソになるので、その時ばかりはほっとしたが、段ボール箱を目にする度に後ろめたい感情に襲われる。

「あの一件、外向きでは結構な処分を校内掲示としてみんなが見たけど、記録には一切掲載されていない」

「記録って、調査書とか?」

「そう。恐らく関わった部員全員、部活所属であった活動記録すら載せなかったのだろう」

「そんな……」

 関が落胆していたようにつぶやいた。大工屋は対照的に気持ちが高ぶってきた。

「あの時こんなに騒ぎになってたんだ。すげー」

 彼は今でもただの見物人の一人に過ぎない。

「これをどうするつもりだぁ?」

「夜の約束の時に、中身の一部だけ持っていって欲しい。それはピンクのファイルに閉じられてる。相手に見せれば田中を探せるはず」

「田中って、田中先輩?」

「そうだけど」

 ピンク色のファイル。それは田中自身の手記だった。中には昔からずっと憧れている場所について記されている。

「この字、なかなか達筆じゃん」

「今は読まないで」

 彼を制した。個人的な物だ。彼だけが先に読むのはちょっと不適切に思われた。そもそもこの資料一式を他人に渡す事自体に抵抗感を持っているが、宇名原先生と田中先輩を思ってできるだけの事をしたという大義名分を自分で見つけてきて勝手にそうした。

「何が書かれてるの?」

 関はそのファイルの存在を全く知らなかった。それは生徒指導部が内部聞き取り調査の時に彼に書かせた事件の内容についての書類だ。生徒指導部に対して事件の証拠として後に申請してもらったものである。当時の生徒指導部のトップはこの件で更迭されて他の先生に変わっていた。校内の嵐が落ち着いた時にこっそり申請して、その時はもう騒ぎが過ぎたので、いらない紙として年度中に処分するつもりだったと言われて渡された。ヒヤヒヤしたものだった。もしあまり事情の知らない新しい先生が処分してしまったら、被害者本人の声は永遠に無き物にされる。同時にそれだけ部活の自由度と権利が大きかったのだ。普通そんなやり取りはできない。重要補佐人として先生の間で変に有名になってしまったからこそ為せた業であることも重々分かっている。

「田中先輩の自筆の証言だ」

 関は目を大きく見開いた。当時、誰もが被害者本人の事を追おうと躍起になって校内の情報網をかき混ぜたらしいが、すでに不登校になっていた田中の事だけは誰にもあまり知られなかった。当然加害者側は黙っていた。

「あれ、田中先輩って、俺らとかけ離れすぎて関われないはずじゃなかった?」

 そう。普通ならそれらの事情は全て栖原部長がやる事だった。年代が違う。

「留年を余儀なくしたからだ」

 田中先輩は留年をしていた。この一件の騒ぎが原因で当年度の授業に出席できず、単位が認められなかったから。

「なんか、人物関係がぐちゃぐちゃだな」

 大工屋は田中の年齢をつぶやきながら算数を始めた。

「ってことは、六年間留年?!」

 そういう計算になってしまうが、途中で一回退学して、再度入学してきたとの噂があちらこちらで流れて、結局どういう経緯で自分がその件に関わることになったのか今も分からない。

「六年はできないはずよ」

「でもそうなっていた」

「どういうことなの?」

「俺にもよく分からない」

 大工屋は顔をゆがめてハテナを打ち出し続けた。

「他には学校の処理意見や始末書、先生らの会議の議事録、部活動委員会の内部会議の内容、資料が入ってる。興味があればの話だがそれらはゆっくり読んでもいいだろう」

「そのあとは返すね」

 関の発言を予想しなかった。返す?受け取れることはできるのかしら。

「返さなくていい。副委員長に渡すか、学校のオカ先生に預けるかしろ」

「え、でも学校に返せば」

「もう事は過ぎたんだ。彼が見つかればそれでこれらのガラクタの存在価値は無くなるんだ」

「そうか……」

 今度は平静な口調で微かにうなづいてくれた。

 テレビからピアノ曲が聞こえてきた。岡崎は会話をきっぱりやめてテレビを凝視した。

 悲しそうな調子のピアノの後、バイオリンが長い音を奏で続けている。テレビの表示は各国の調査、情報機関の名前が流れていた。そういえばさっきから白黒な爆撃のシーンが流れていた。関と大工屋もつられてテレビを見ていた。全部は四分ほどある曲だが、テレビは半分を流していた。スマホをとっさに出してもう一度再生した。後半は素晴らしいピアノ独奏がある。時間の流れはそれから三人の間を変異して流れていた。関は目を閉じ、聞き入った。大工屋はボーと部屋の窓から外の雲を追った。八月に入ろうとしていた。八月。この曲がもっとも似合う月頃である。曲が終わってももう一度最初から再生された。分かってもらおうだなんて思っていない。それはこれからの事だ。とりあえず、このメロディーを、この悲しみを、感じ取ってほしい。曲が流れているからか、二人は依然と話したがりそうな口を一直線に結んでいた。関は目をもっとしっかりと閉じている。喉に液体が通過したのが分かった。彼女は大工屋よりも少しだけ分かっているはず。この曲の意味を。全長六分、部屋は音楽の一人舞台となった。音楽会を聞いている観客が三人座っていた。そこに会話は無かった。大工屋は微かにリズムを刻み始めたが、この曲にはリズムだなんて見つけられた試しがない。

 この曲が終わったあと大工屋が早速聞いてきた。

「なんか意味があるの?これ」

 僕は静かに文字を噛み締めながら問いかけた。

「『パリは燃えているか』」

 関はぎょっと目を開け、頭を回旋させた。

「パリは、燃えている?そんなニュースあったっけ」

「分かったわ。パリは燃えている」

「後はよろしく頼んだ」

 大工屋はなんの事かさっぱり分からなかったけど、その場の空気と関が応答できたこともあってすらっと流した。

 二人が出ていったのはそれからおよそ三十分後の事である。その間も事件の事を言って聞かせたが、大した事ではない細かな裏話を自慢げにまき散らすといった具合だ。エゴは十分満たされた。最後に自慢くらいさせてくれたっていいだろう。

 彼女たちが出ていったあと、長い深呼吸をした。これで勤めを果たした。あの約束通り、彼の代わりに全てを引き継いだ。少なくともその時、岡崎はそう思えたのである。


 リョウは急いでカフェーに入ってきた。約束の時間まで余裕をこいでいたら渋滞に遭ってしまった。この時間帯なら大丈夫なはずだけど、知らないどこかの工事で交通規制がかかっちまった。今日の相手はいつもの上司だった。

「おはようございます」

「遅くないか?」

「すみません、途中で渋滞が」

「まあ、座れ」

 相手は紙袋を取り出して中身の書類を出して何か書こうとしたが、リョウはそれを制止して、

「まだ着任してないんっすよ」

「まだなのか?」

 明らかに待ちきれない口調だった。焦っていることは重々に分かってる。人事で着任の日付を見た時にもうちょっと早く仕事に就きたいと申し出たところ、この採用での着任はみんな同じ日付だという事で、融通は全く利かなかった。

「どうしようも無かったんっすよ」

「セキュリティーレベルは?」

 社内のファイルやシステムを参照したり、中に入ったりする時に認められる操作のレベルの事だろう。それも着任してから栖原に一式渡されることになってしまっている。

「それも今は何とも」

「目的は分かってるんだろうな」

「それは大丈夫です。あの人は関係ありませんから」

 発言した時、ちょっと舌が上手く回らなくなって背中のシャツが気持ち悪かった。

「わが社が最後の最後で押されてしまったのだ。おかげでその技術の開発体制は解散されてしまった。これから必要な技術開発だ」

「何度も言われてますし、分かってます」

「肝心な内容が分かり次第、連絡してこい」

「はい」

 二人のやり取りはそれで終わり、リョウは帰途に就いた。車の運転をしながら、今日にでも行ってみようかと突然頭から何かが浮かんで出てきた。着任するまではまだ何日間あるけど、栖原なら問題ないだろう。


 田中元輝は久しぶりに本棚からノートを取り出して捲ってみた。二人は同じノートを持っている。コピーするのはノートが終わる時の交代番。中には懐かしい幾何の問題や整数の面白い理論証明がびっしり書かれていた。また今から見れば恥ずかしいような日本語の間違いも結構残っていた。ノートに触れる前は心臓の鼓動が速くなり、ひどく疲れるだろうと思ったけど、今日は意外と穏やかな心持ちになっていた。そろそろ結論を出す時かな、誰かに言われたわけではないが、自分でそう感じていた。石田にお礼を言いたいけど、会えるのかな。多分栖原と、見知らぬ後輩の何人かだけだろう。


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