【00:00~】
【約束の日】
【00:00~】
栖原と田中の二人はそのあと日付が変わるまで飲み続けた。量は随分減ったけど、今まで一緒にこれほど飲んだことが無かった。
栖原はカウンターの右奥に置いてあるキッチンタイマーを見た。蛍光色は時間をはっきりと教えてくれた。
「もう良いんじゃないぃ」
「おい、誘っておいてさぁ、まだだぞぉーお前ッ」
田中の話し方からして完全に酔ってしまった。これ以上飲んでも楽しくない。
「一気に飲みすぎなんだよぉ、お前は」
「いちいち細けぇーな、ほっといてくれよ」
「もうこれ以上」
ちょっと軽い焼酎に切り替わったからか、先ほどから意識の低下が少しだけマシになっている。
栖原は田中をカウンターで寝かせた。彼は意識を失っている。微かないびきが伝わってくる。背後のリビングのレイアウトをサッと見回すとカーベッドが新しく変わって、小さなテーブルの上に座る花瓶の中のチューリップがバラに変わっただけだった。チューリップはこの季節の花じゃない気がするけど、じゃバラはいつの花なんだろう。
「おい、寝るぞ」
反応があるはずもないのに、つい話しかけてしまった。気のせいか、彼の頭がちょっと動いた。
「聞こえてんのか」
「お」
何か話してるけど、「お」しか聞こえない。
「おや」
「お休み」
自分の心が一瞬冷えてしまった気がする。何を求めて彼の家に来たのかが分からなくなってしまった。彼の花瓶の中のバラの色が分かるのは七時間後か。長すぎやしないか。ふらついている足取りで二階に上っていく。
彼の家の二階に部屋が四つあった。好きな部屋に適当に寝る。そんなスタイル。だから四つの部屋は全く違うレイアウトになっている。ある部屋は監獄がイメージだという。一緒にそこで寝ることを何度か勧められたけど、決して入る気にはならなかった。今日は一人だけのベッド、冒険のつもりでその部屋のドアノブに手を伸ばしたけど、見える像がかすれて手が滑空した。
「ったく」
二回目も失敗した。その部屋のドアノブは意外と小さかった。開けるのにも力が必要だった。遊園地がテーマの花園とはわけが違った。
「おいっしょっとー」
全身が一緒にしゃがんでドアノブに力をかけた。ガララララ、ガララララ。歯車の音が廊下中に響いた。後ろを確認した。誰も、何もいない。頭上を見ると、その部屋に向けて矢印が貼られている。詳しい模様は見えなかったが、歯車の音とともに、その矢印が下りてきた。下までドアノブが行き切った時、矢印が頭にぶつかった。
「おい、びっくりしたじゃねぇかよ」
部屋のドアも重たかった。力いっぱい全身をゆだねてやっと動き出した。ドアの厚さで先の景色がまだ見えない。暗黒空間の探検者同然だった。先にどんな湿地がでも待っているのか、夜中の森に迷い込んだ小さな傷ついた冒険者。
部屋の全様が見えてきた。中の陳列がまさに監獄そのまま、いや、それ以上に官能的かも知れない。バツ印の手錠が付いた木の板。ベッドの見える側の横二か所にはそれぞれ紐と革の拘束具が付いていた。ロウソクがベッドサイドの鉄の支柱に支えられた薄い金属の円テーブルの上に三本乗っている。床はほかの部屋と違って、コンクリートの裸のままで何も敷いていない。ソックスに伝ってくる冷たさを感じる。ベッドの上に目をやると薄い麻の紐が五本くらいぶら下がっていて、その間は絹か綿で編んでいた薄い生地で屋根みたいにつながっている。垂れさがる生地はそのまま乱れてベッドに着地している。壁紙はなかった。何の素材かは確認できない。ベッドと金属の小さな丸いテーブルにロウソク、バツ印の木のオブジェクト、他の要素と言えば壁に生々しく掛けられている何本かの麻縄の束と革生地でヒラヒラしている鞭だけだった。彼はこんな趣味を持っていたのか?そしてこれらの景色を映し出しているのは雲の横で顔をのぞかせるきれいな月だった。雲の輪郭は隠れる光線によって時々部屋のコンクリートにそのまま射影された。ロウソクの横にライターが寝ている。恐る恐る今にも折れそうなくらい細い金属の螺旋に近い荒く曲がりくねていた足を持つテーブルに近づいていく。足には冷たい感触が絶えず伝わってくる。ひざが柔らかくなった。酒の熱りが随分下がってしまっている。目は先よりももう少し大きく開くことができている。それでもライターを捉える手の動きはおぼつかなかった。ライターを手に握った時にどこかで何かが倒れた音がした。慌てて見渡すとこの部屋からのものではない。一階で何かが倒れたのだろう。ライターに手をかけると今度炎の色が部屋を占領した。目の迷いなのか、うねる火炎は波を周りにもたらした。光線の波、オイルの波、熱の波、バランスよく混ざり合い、顔にぶつかってくる。鼻は素早く全ての焦げる匂いをキャッチしている。パチー、スズスー。ロウソクに命が吹き込まれた。色のバトンがテーブルの上で見事に引き継がれた。部屋の全体を舞台に踊り出すダンサー。伴奏はこれ以上にオーダーできないだろう質の高い月。星はどこかでこのバレーを見ているのか。それを考えながらオレンジの上を通過する白の筋をたどって振り向いて窓を眺めた。窓は普通の窓だった。想像していた変な格子は見当たらなかった。目は留まることを許されずに空に行きついた。観客を一生懸命探してみたけれど、酒のせいで見つけることができない。ぼやけたバイオリン弾きだけが目前に姿を現している。そして演奏は足音に変わっていった。
足音にびっくりした栖原は素早く観客席から身を引き、ドアの外に出た。信じられない彼の姿を認めた。
「起きたのか?」
「寝てねぇーよ」
次の瞬間、彼は矢が放たれたような速度で栖原にたどり着き彼を押し出した。その先はバレーの舞台だ。頭からの着地を何とか免れた栖原だが、相手の女性はしつこく手を持って上下させてきた。自分は今ジャンプしていない。体は地面にある。すべての情報は相手の服で暗闇に消えた。頭は処理停止に追い込まれた。懐かしい匂いだけが鼻の奥をつついてくる。スー、スー、呼吸が荒くなる。相手は今度自分から離れなくなってしまった。そして一緒に空を飛ぼうと合図してくる。そんな事練習でしたことが無いのに。一緒に飛べない悲劇のヒーローたちはベッドに移動していた。ロウソクの炎が彼の四肢の隙間から見えてきた。頭は再び電気信号を取り戻して、計算を始めた。いや、これは間違っている。これはバレーなんかじゃない!
自分は今彼の体の下にいるのだ!
伴奏が消えてしまった。楽器を残したまま無責任に二人を舞台の上に残してしまった。リードするのは栖原ではなく、ロウソクの光を独占してしまった田中に代わっていた。栖原のシャツのボタンが手荒く外されていく。栖原の頭は踊りをすべて忘れて舞台の袖に逃げる事だけを考えるようになったが、観客はそれを許さなかった。パートナーからの熱烈な目線を受けながら、痺れてしまった左足を空に蹴り上げた。体を回転させようと思って全身の筋肉に力を込めたが、田中のリードに奪われた。運動不足なまま再び舞台に落ちてきた。今度はたくさんの観客も下手なバレーに飽きたのか、すっかり見えなくなってしまった。ロウソクの光だけが微かに天井を照らしている。田中の首筋の輪郭を見た。心臓にアドレナリンが打たれたのか、頭の計算は放物運動の軌道と合わなくなってきた。着地点は予想不可能となってしまった。彼の首筋の上に踊るボールは陰りを見せながらオレンジの衣を着出した。
舞台の上に突如雨が降ってきた。小雨だったけれど、その辛さは覚せい剤の味そのままだった。体がそれを欲しがっている。舞台端に動く体は再び見えぬ縄で舞台中央に引きずり戻されてしまった。田中の手が頬に当たる。冷たい骨の感触がした。お酒を飲んだ後のダンサーがこんな動きをすることはできまい。
雨で濡れた上半身で衣装は肌にぴったりとくっついていた。筋肉の曲線が顕になった。しまった。舞台中央で踊る二人のダンサーは誰もいない観客席に向かって社交ダンスのような二人舞を始めようとしていた。社交ダンスはもっと衣装が豪勢だが、相手が大好きなものなら何でもいいのだ。田中は何も構わぬ顔で舞台の上で動き続けた。栖原は引きずられながら軌跡を残してゆく。栖原の体重が重たすぎたのか、女性の力が尽きてしまったのか、突如動かなくなるパートナーが舞台の端に倒れた。怪しげにそれを見届けてびっくりした男性は体の向きを十五度ずつ変えて、彼女の方面を向いた。
「懐かしいのか」
頭では極度に拒否して顔がけいれんしているが、口は独り歩きして動いた。感覚のままに従って。
「うん」
悲劇のヒーローが今、ここに生まれ変わった。
しかも、お二人ご一緒で。
観客が再びハウスの中に入ってくる。今度のパートは滑らかな喜劇だ。伴奏が再びその仕事を果たし始める。その踊りを見届けるのだ!
華麗な動作が衆の前で繰り広げられる。その運び方からして古くからのペアだと人々が気づき始めた。先ほどの演出を見逃すことを後悔し始めた。なぜさっきハウスから出て行ってしまったのかと。
舞台中央にいるのは六年間のプロペアーだ。目線が交点を作ると曲に乗り始めた。栖原の頭は依然と複雑な計算をしているが、体はもう自身の頭を見放した。間に合わないのだ。体は楽曲に反応して動いている。神経が指示している動作ではない。
「やめて、、」
かすれた声が田中に届くも、
「何ためらってんの?」
栖原の顔は苦しんでいる。それを見た田中が、
「後悔してるなら別の、」
「待って」
今度はもっと声にならない。そうしている間にも体は交わり合っている。
「どうすんの」
田中は勝手すぎた。ここまで曲を流しておいてストップボタンを押させる。
「汚い」
「んー?何が?」
田中の顔がうっすら笑っている。笑っている?とにかくずる賢い商人の顔だ。その策に嵌ったのは?えっと。
「汚いよー」
「自分で来たくせに?」
「そんな、つもりじゃ……」
「じゃ、どんなつもり?んー?」
値切ることは絶望的だった。一回それを買おうと相手にばれてしまうと値段は二度と下がらない。
「お酒で……」
「俺は酔ってねぇー」
「ウソ」
「残念ながらホント」
話している間にも踊りが続けられている。常に相手の動作に隙間なく向かえ応じる心通わせ合う二人は世に驚かれる作品を今も作っている。受動的かどうかはさておいて。
「もう、やめてくれー」
何かを乞おうとするような口調でのどの奥から脳が言葉を引っ張り出した。
「そう?」
でも、相手の次のステップに体はぴったり合わせていった。
「やめて」
観客には見えない涙が脳裏で流れているが、誰がそんなものを構おうか。
ロウソクの光は静かに揺れながら一連のやり取りを歌い上げた。ただの照明係ではないのだ。
「あーー」
ロウソクの歌い上げる音楽はバレーに全く似合わなかったが、踊る二人からは嫌われていない。
「許して」
何に対するものかは知り合っている。四年前の公演での不始末だ。
「もう、何も、考えられないー」
バレーは最高潮を迎えようとしている。主人公は身の振る舞いを制御できないでいた。ただ音楽と民衆に載せられて、本能的な所作を見せている。それが一番滑らかで美しいじゃないか。民衆は静寂を破って拍手し始めた。不勉強な観客だ。そんな事はしてはならないのに。
「許してくれ!」
ロウソクの一人歌はいよいよ合唱に変わった。熱気を会場にばら撒き、観客全員がその旋律に乗り始めた。乗り始め、酔いしれた。真空に近い感覚だ。その瞬間は切り取られて永遠に保存されるのであろう。前後に何もない。そのワンシーンだけ。ワンフレームだけ。
「あー」
最高潮を舞う二人の体力が激しく減り始めた。動きが辛くなってくるが、相手を見る視線は変わらない。ロウソクは風に揺られて揺られて、部屋は光の舞台にもなった。いや、ずっと前からなっている。突然舞台袖から誰かが呼びかけた。動きを止めないで耳を澄ませると、
『初めて見たときからだよバカ』
栖原の顔が火照り始めた。ちやほやされるカップルのように照れ始めた。そんな僅かな表情の変化を田中は見逃さない。
「ありがとう」
「なぜ」
栖原の頭はもう、体ときっぱり分かれてしまった。
「自分で知ってるだろう」
「あー」
バレーはその顛末を経て終わっていく。終盤の踊りはしなやかで夜に相応しい。
「疲れたな」
「お前が疲れた?俺の方だぞ」
「動かないくせに?」
「お前が動きすぎて追えねぇんだよ!ッチ」
その時、伴奏は単音を奏でるだけになっていた。二人は瞼を閉じ、観客は家路についた。最後のポーズは抱擁。頭から足までが絡み合って一躯の彫刻が出来上がった。
突然何かで目が覚めた。悪夢ではないけど、変なお婆さんが夢の中で人の頭を売りさばいてた。かわいいお嬢さんはお人形に仕立て上げるからと三つほど選んで買って帰った。お母さまはその頭でお人形を三体作り上げた。そのお嬢さんはそれを見て、
「かわいいー」
と喜んでいた時、その三体のお人形は同時にお嬢さんに向かって真っすぐ倒れてきてお嬢さんを下敷きにした。
なんていう夢を見て榊が目を覚ました。手元の目覚ましは夜中四時を示している。
「何よ、授業は九時からなのに……眠たーい」
大きなあくびを一つして、彼女は再び眠りの世界に入っていった。




