夜明け前
24
珍しく予備校の授業がない金曜日のお昼時、関と榊と僕は大工屋に呼び出された。彼に集められたのは初めての気がする。あの見舞いから一か月も経っていない。その間にもおのおのが都合の良い日に訪ねていたみたい。僕はと言ったら家で物理の電気をゴリゴリ復習し出してコンデンサーとすっかり仲良くなって見舞いどころではなくなってしまった。
大工屋の家でみんなが集まった。話題は恐らく栖原と田中の件だろう。女子二人も少し面倒くさそうに目の前に座っている。大工屋の家は広かった。和室まできちんと付いている。母親がお茶会を開くこともあるとか。茶道具がしまってある所を少し自慢げに見せてきた。別に日本の伝統をやるからすごいと思うわけではない。ただ彼の家柄がそんなことに似合っているなと感心しているだけである。関もお茶仲間と出かけて頂くことがあるそうで、そのお茶の風味と茶道具について話が一花咲いた。
「その時俺はいつも出かけるようにしてるから、詳しい事は知らないぞ」
「一緒に参加したらいいのに、家でお茶を頂けるって贅沢の事よ」
「そこらの年のあるおばさんたちの集まりだぞ、入れるか」
「関係ないじゃない。お母さんが亭主でしょ?」
「亭主は亭主なんだけど、たまにややこしい話もするらしくて、遠慮してる」
「一回お母さんからお茶を頂いてみたら?意外と美味しいよ」
「抹茶は嫌いではないけど、正座でいただくのはちょっと……」
「それくらい楽しめるようになったらいいのにね」
「えっ、何を楽しむのさ」
「お茶碗の風味だとか、お菓子との組み合わせだとか、あたしは風情の合う掛け軸を見るとついついテンションが上がってしまう」
「掛け軸?」
「え、知らないの?茶室にはそれぞれの風情や目的に合わせて掛け軸を掛けることもあるのよ、ほら」
「それは茶室に合わせて掛けるものなの?」
「達筆に書いてあるじゃない」
その日通された和室には立派な薄墨で『心静即身涼』と書かれてあった。蝉がもうすぐ登場するこの時期にちょうど合うと気づき始めた。
「何と読むのそれ、心に静かに涼しい?」
「こころしずかなれば、すなわちみすずし」
「ってことは、心に、静かに」
「即ちは覚えてるわ、読み方が気に入ったもん」
榊は読み方の話で入ってきた。
「最後に身と涼しいっか」
「この季節にちょうど用意していらっしゃるのよねきっと」
「大工屋のお母さん、すごいね」
「そんな事言われるまで全く気づかなかった。何か他の軸があるか後で聞いてみよう」
「きっと面白いと思うわよ」
「えーあたしも色々な書道が見たくなってきちゃったなー」
「書道好きなの?」
僕は榊がこういう事に興味を示した所を見たことがない。
「中学校まで習ってたよ」
「初耳だよそれ」
「知らないでしょっ。ふんっ」
「お茶の話は置いといて、どうするの?もう八月も近いぞ」
七夕が過ぎたばかり、彼は気が早い。
「どうするかって、栖原さんに連絡するしかないじゃない」
夏休みになってしまって、宇名原先生を捕まえるのが難しくなった。
「えっ、もしかしてもう夏休み?」
「ん?何かおかしい?」
「大学生になちゃってもうよく分かんないわ」
「社会人にお盆はあるかも知れないけど、夏休みはないわね」
「だから、その前に」
僕が働きかけてみた。いつまでも進展しないで机上の空論に付き合っていられない。
「もう一回電話を頼めるか」
「またあたしなの?」
うんざりした様子の榊を前に三人が口を結んだ。
「はい」
榊の顔が一瞬にして曇り始めた、顔中が緊張して開けかけた口が半開きで止まってしまった。関がそれを見るや手を肩にそっと添えてあげた。男子二人は棒になったまま電話口の方を見つめている。何も聞こえないはずなのに。
「この前にお約束させていただいた、」
話す口調が非常に慎重で、遅い一言になってしまった。
「いえいえ、大丈夫ですが、今度また」
「明日で大丈夫なんでしょうか」
榊の会話が徐々に滑らかになっていった。
意外と早い時間の指定に大工屋がびくっとした。
「ええ、よろしくお願いします」
「失礼します」
電話は短く済ませた。明日の午後六時、喫茶店でもゆっくりという内容だった。大工屋が妙に一番喜んでいた。関がそれを傍からずっと眺めていた。
デスクに座ったまま頭を下げる彼を見て身震いした。周りは通り一遍の対応をしているが、自分は何と言えばいいのやら。
その時電話が鳴った。リョウの近づいてくる顔を見ながら左手を小さく出して彼の歩みを制した。電話をとる右手が震えている。
「はい栖原です」
「あ、その時は急用で大変失礼しました」
「急なんですけど、明日の夕方六時、この前のファミレスでいかがでしょう」
「そちらこそ大丈夫でしたら」
「よろしくお願いします」
自分の声の震えを気にして手短めに済ませた。
彼は電話を切った後にデスクの真前に来た。
「来週からお世話になります、田中涼と申します」
僕にしか見えないからなのか、言葉とは裏腹に顔は挑発的なものだった。昨夜の彼の様子を思い出してひどく後悔した。
「よろしく、栖原です」
なんだか恥ずかしかった。こんな芝居を打つのは苦痛すぎた。
「みんなも集まってくれ」
辛うじて声を大にしてから会議ペースに向かった。足取りは危なかった。すぐ背後に彼の気配がする。
「何から何まで急で悪いが、来週に現在の体制が解散する。その時に僕はこの部の主任に着く」
周りからざわつき始めた。ちらっとリョウの顔を見たが、彼の妙な余裕ぶりに胸騒ぎがする。
「次の技術ボスは誰です」
「お前?」
「いや、冗談じゃない」
「じゃザワか?」
「ザワが嫌だって前から言ってただろう」
「あと誰だろう」
「誰だ」
目前の衆が口を開き始めてどんどん音量が大きくなっていく。おかげさまで隣の宣伝部のガラス側の女子職員までがこっちを見始めた始末。騒ぎ見物もいいところだ。
「あの」
新しい顔の動きにみんなは敏感になっていた。瞬間に周りが静まり返った。
「来週からプロジェクト刷新部技術係係長として改めて、よろしくお願いいたします」
全員の前で再び頭を深く下げた。周りの人間は打って変わって彼の周りに近づいていった。
「コッコ」
先にこっちに言わせろ!その場の空気だけでも自分が支配したかった。彼が係長であることはもちろん衝撃すぎたけど、そんな事はもうどうでもいい。
「宣伝係の方で誰が係長になるのか分からないけど、来週から新体制でみんな頑張ってほしい。今度は田中くんの指示をよく聞くように」
気が動転して彼女の話を忘れてしまった。
「おっす」
一番若いサルが返事してくれた。彼に向かって笑みを送った。ほかの者はその場につっ立っているだけで動かない。
「さあ、みんな、最後の一仕事だ、頑張るぞ」
みんなが徐々に会議スペースから出ていった。最後に出た僕はガラスの向こうに苦笑いする小塚の顔を認めた。でも、何を返しておく余裕もない。
まひした頭を肩に載せてパソコンの前に戻ると画面に明日の夕方の約束のスケジュールを打ち込んだ。
「栖原さん、私は、」
さらに困らせようとしているのか、リョウがわざとらしく聞いてきた。
「あ、あーまた正式的な着任ではないから、その日までは自由だ。また一緒に仕事する日を楽しみにしているぞ」
近くには同僚がいる。芝居は最後まで突っ走らせなければ。
「分かりました。じゃ今日の所はこれでいったん失礼します」
彼の出ていく後ろ姿を見ながらため息が出た。
「何一人で舞い上がってるのよ」
「そうだよ、ただ約束をしただけだぞ」
「いやー、明日ってのが最高に都合が良かった」
大工屋は依然と興奮覚めやらぬといった様子で弁舌に言い出した。
「そろそろやばいと思ってたんだよ、こんな事いつまでも続けていけないだろう、親にも最終通達が来たよ昨日」
「最終通達?」
「いやー、予備校から出席状況が家に届いちまってさ、びっしり怒られたよ」
彼は今度頭を搔きながら苦笑いした。
「そりゃ怒るだろう、あんだけ抜けてしまうとか」
「事情を説明したけど、明日までにどうにかしろってお母さんが」
「えー怖そうなお母さんには見えなかったんだけどね」
榊が掛け軸と彼の顔を相互に見ながらまた不思議そうに聞いてきた。あの表情がかわいいんだと友達にこっそり言われたこともある。僕はあまり賛成できないでいるけれど。
「怖いよもうー。本当に参ったよ」
「それで明日にとりあえず何か聞けるってことね」
「それと、明日以降は悪いけど、予備校にちゃんと通わないと家を追い出されるから、何も関われなくなちまった」
「そうか、そりゃ無理もあるわよ」
「悪いこの通り」
テーブルの真ん中に彼が頭下げた。大げさすぎやしないか。
「見舞いもダメなの?」
榊が聞いてきた。
「それは日曜日なら許そうって」
日曜日なら授業はないけど、普通は自習をしている。彼の親の最大限の温情なのかも知れない。
「じゃこれからは日曜日だけになっちゃうのか……」
「済まないよ」
「じゃ日曜日に多めに見に行ってやってくれない?」
関が頼んできた。口調はすっかり彼女。
「そりゃもちろん!」
三人は彼の言葉を聞いて明日の事をそれぞれ思案しだした。突如誰も何も言わなくなった。
「あのさ……」
大工屋が窮屈そうにみんなを見回してから沈黙を破った。
「明日何をどうしようか考えてるのよ」
「あー」
納得顔で彼も再び黙った。
その日の仕事は途中のハプニングでお見事に終わらなかった。隣を覗けば小塚がまた一人で画面とにらめっこ。ガラス戸を開き、
「お疲れ、来たら?」
「そっちも?」
「そりゃ」
お互い苦笑いしだした。さっきまではお互いの醜態を見物していた者同士。今は憐れみ合う時間か。
「にしても何考えてんのだかこの会社は」
「まだ慣れてないの?初めての事じゃないだろう」
キーボードの音と会話が静かに飛び交い合っていた。
「二度とあるまいと思ったのよその時は」
「そのあと各部門からさんざんクレームが入ったもんな」
「そうよ、なのに、」
「三人はベテラン?」
「え、そこそこのベテラン、案件でぶつかり合った相手の代表者だった人もいたわよ」
「こりゃすごい抜き出しだな」
「なぜか気合が入ったっぽい、そっちは?」
「まあ、知り合いだよ」
「やっぱりプロか、って、知り合い?!」
「そう、知り合いだった。自己紹介の時の恥ずかしさったら」
「ぷふふ、普段調子に乗るからだよ」
「関係ないじゃないかなー」
「じゃ仲良くできて良かったじゃない」
「ん?気難しそうか?あの三人」
「堅ーい顔して全然話さない。宣伝に向いてないじゃないかとすら疑うレベル」
「画像屋さんだな」
「だと思うよ」
うちでは画像編集や動画編集の事を画像屋と呼んでいる。一日中あまり会話をせず、一人で黙々と指示された内容の編集をソフトでこなしていく。
「あの知り合いのやつ、まさかの跡継ぎ」
「え、あんたの?」
「そう。技術係長」
「だから、そういう事は先に言ってよね、せめて知り合いと仕事がしたかったわー」
彼女は落胆したような顔を向けてきた。
「まあ、そんなに付き合いが悪いやつじゃないから大丈夫だよ」
「助けてよ」
「どうやって?」
「お食事をするとか」
その話を聞いた時なぜか『バラード』が脳内再生し始めてしまった。
「この三人で?」
「確かに変だよね、でも、ねえ、どうしよう」
「コーヒーくらい飲みに行くか」
「んー、セッティングしてもらえると嬉しいなー」
「え、それ前提じゃないの?」
「あー助かった、ありがとう」
たかだか一回一緒にコーヒーを飲んだからと言ってどれくらいコミュニケーションの促進につながるのか全く理解できなかったけど、彼女が喜んでいるならあいつに言ってみよう。
「あいつの都合が合えばね、いつがいいの?」
「随分乗る気じゃん、明日とかどう?」
「こっちが乗る気?そっちだろう、明日とか言い出して」
笑いそうになった。
「例えば!」
からかわれて怒り出した小塚は人を殴る勢いを見せた。たまたま通りかかった残業の社員が部屋を覗き込んできた。
「はいはい、週末に聞いてみるよ」
「頼んだわよ」
「あいよ」
「結局、どう聞くのさ」
「考えてもぐちゃぐちゃになちゃった」
「田中とのやり取りを詳しく聞いてからすでに分かっている手がかりを聞いて、それからじゃない」
「んー、そのあとに僕たちのできそうな事を栖原さんから聞いても良さそう」
「言っても大学生だよ、何かできそうな事ある?」
「人探しなー」
「それよりも田中先輩と栖原先輩とのやり取りが気になって仕方ない」
「あっ、そういえば」
僕は急いで財布からメモを取り出した。
「この前のサイト、最初音楽が流れてただろう」
「あの面倒くさそうなクラシックか?」
「そう」
「それがこのメモと?」
榊がメモを手にヒラヒラさせながら聞いてきた。顔からは何も意識していなかった。
「すべての曲のサイクルが一回終わった後、二巡目の最初の曲の後ろに録音で入ってた」
「やっぱり面倒くせぇー」
「これって誰の会話なの?」
「分からない」
「他に何かサイトのページからは?」
「僕らが見つかった情報以上の物は出てこなかった」
「これも聞いておかなきゃね」
「関係あると思う?」
「あるんじゃない?」
「あるとしたらかなりおっそろしい事になるぞ」
「それは途中から気づいてないの?」
今更と関に冷たく突っぱねられた。
「あのな、」
険悪になる前に口を挟んだ。
「予想だけど、いじめの一場面じゃないのか」
「あたしもそう思う」
榊は今度賛成してくれた。メモを読み返したからなのかさっきから彼女の態度が少し硬くなっていた。
「しかも何か外国語を話していたとなると、さらにややこしいわね」
「誰が何の目的でサイトで公開したのか、栖原先輩に聞けば済む話ではない気がする」
「サイトの今の管理者は一体誰なの?」
関が再び冷静になって聞いてきた。
「俺はあの誰だ、石田?ってやつじゃねぇーかと思うよ」
「可能性は高い」
「また学校?嫌だな」
榊はなぜか頑なに学校に行きたがらなかった。
仕事はちょっとだけ前後してそれぞれほぼ同時に終わった。会社を出る時に遅めのディナーを誘われたけど、行く気にはなれなかった。
「どうしたの、仕事が終わったのに」
「いや、今日の新人の事で」
「知り合いじゃないの?」
「だからだよ」
「やりにくいって?」
「そう、かな」
自分でもその理由を探している。
「前もって話をしておいたら大丈夫だよ。職場と知り合いの関係くらいそこそこの社会人なら処理できるわよ」
「だといいんだけどね」
「大丈夫わよ」
「ありがとう」
彼女の大した根拠もないなんとなくの肯定にでもなぜかほっとした。
「じゃーまた明日」
手を振りながら僕の目の前を通って家路についた。彼女とすれ違った時に、
「おう」
彼女はまたマッサージに行くのか、その少し疲れた背中を見送りながら考えてみた。
「帰ろうか」
誰かに言ったわけではない。口から漏れ出ただけ。
ポケットからあれを取り出していじってみた。これで何度目だろう。
車を運転しながら彼の事を考えてみた。田中が二人。見えない方がもっと気がかりだった。突然四人の学生が助けに来ると言い出した。何をどうやって。そんな事も考えながら速度が出たり出なかったり。いつも計算で信号を上手に避けていったけど今日は三度も引っかかってしまった。ムーンとしながら国道横のショップを見たりした。意外と活気づいている。この時間帯でも開いてる店があるのか。車の時計は十時前を表示している。
彼に連絡を取りたくなったが、どうすればいいのか分からない。人事部にはすでに人がいないだろう。ダメ元で掛けてみた。
出ないままだった。村上なら知ってるかもと思って深夜ながら電話してみた。
「村上」
「深夜にすみません」
「どうかした」
ハンズフリーとはいえ、手短に済ませるべきだ。
「今日来た田中さん、連絡先はご存じですか」
「今日の技術の田中君?知ってるよ」
「今日伝え漏れた事があったのでメールで送っていただけません?」
「おっ、そうか、分かった。ほかは」
「大丈夫です、深夜にすみませんでした。失礼します」
「車か、じゃまた明日」
家に着くとすぐにスマホを確認した。未読メールが入っている。開こうとすると画面を操作する手がまた突然震え出した。
「だから、こういう順番で聞けばいいんじゃないの?」
「そうだね、これで大丈夫だわね」
明日に話す内容がやっと概ね決まった。臨機応変にする事を前もって注意しておいた。
「大丈夫だよそれは」
「それは任せて」
安心そうにそのやり取りを眺めている榊がなぜか羨ましくなってきた。
「あーやっと終わったぜ、ご飯にするかい」
「あらもうこんな時間、外行かない?」
「いいわねあやちゃん」
「僕も大丈夫だよ」
出かける前にこうなることだろうと思って親にその分の用意をもらっておいた。
「じゃいつもの近所ので行くか」
「何屋さん?」
「ファミレスだ」
「えー、ラーメンが良かったのに」
明らかに失望したようだった。
「ちょっと歩くことになるけど、あることはあるよ」
それを聞いた瞬間、濁っていた目がきらっと光った。食いしん坊か!
「あたしはどちらでもいいわよ」
ねだるような目線を向けられた自分は彼女の意に従った。
「これだけ話し合ったし、ちょっとのお散歩も悪くない」
結局ちょっと歩いてみんなでラーメンを食べに行くことになった。
メールの中には彼の住所も一応入っていた。電話番号の下に添えられている。どっちにするかかなり迷った。時計はすでに十一時直前をめがけて動き出している。
「もしもし」
「はい」
「栖原です」
電話の向こうで明らかに感情の波があった。沈黙でごまかされまい。
「こんな時間帯に何だよ」
馴れ馴れしい口調に変わっている。
「アルバイトって、そういう事だったのか」
「そうだよ、お前んとこの次のプロジェクトが終わったら辞職するつもりだからアルバイト」
「辞職?」
「そう。この一件だけはどうしても関わりたかったからさ」
「そのあとはどうするんだ」
「別に関係ないじゃないの?」
「ん?」
「今のお前には関係ないじゃないのかって」
返す言葉をなくした。別に彼の彼氏に戻ったわけでもない。昨日の出来事は結局何だったんだろうと虚ろに考え始めた。
「何も無かったら切るぞ」
「ちょっと待って、今から行っていい?」
「何をしに」
「ただ飲みたいだけ、どう?こっちが持つよ」
それは自分がお酒を持ち込む事を言っている。昔からそういう飲み方をよくお互いしていた。総じて僕の方が入れてるけど。
「今日はどんな気分だい」
もてあそぶような問いかけ方に腹が立った。
「疲れたよ。突然来やがって」
「ハハ、人事にしつこく言われてさ、面倒は起こしたくないんだよね」
「おかげでこっちはとこっとん面倒だったけどな!」
「来るなら早く来い、明日は用事があるんだ」
「暇人じゃないのか、来週までは」
「違う、来るなら今から来い」
なんだか高圧的な態度が気になった。イライラしてるのか。
「こっちが持つってんのに、少しくらい歓迎したらどうだ」
「頼んだわけじゃない」
「喜んでるくせに」
その一言に賭けてみた。彼の気持ちがすっかり分からなくなっていた。
「早く来い」
正解だった。それは今までと変わらない聞き心地だった。
冷蔵庫にあるものを簡単にまとめて、車に詰め込んだ後、二十四時間営業の近くのスーパーでお酒を多めに買っておいた。ワインとビールに焼酎。栓抜きは冷蔵庫から出してある。飲みかけのワインの瓶口に差し込んだままだった。
車の速度は速めにしてちょっとアクセルを踏み込んだ。この時間帯も車の流れは依然と多い。自分よりもひどい残業がこの世の中に存在する証拠だ。明日の約束の事を気にしながら仕事の事を考えることにした。確かにあと何ヶ所かで修正は終わるはずだ。あいつに見てもらわないと。村上との引継ぎに呼ばれていないけど、そろそろだな。そういえば、宣伝部のボスを伝え忘れていた。こっそり口コミでも流しておいた方がいい。文句を言われそうな連中ばっかりだ。あれこれ考えているうちに彼の家の前に着いた。ポケットの中は静かなままだった。目をやるとズボンの折り目がはっきりと月の光を引っ掛けていた。電気はうす暗くついている。カーテンが半開きで、いつもの二人が好む光加減を調整しておいてくれたのか。歩くスピードが自ずと速くなる。小走りに近かった。革靴の音が深夜に回りに響いていく。その音を聞いたのか、何もしなくともドアが開いた。中で待つ彼は懐かしい部屋着姿。先ほどの心配から一転して何もかもが三年前か四年前かの出来事に見えた。全てに見覚えを感じる。
「こんな夜中に来てどうするんだ」
「突然飲みたくなちゃって、付き合ってくれ」
僕が提げているレジ袋を見て、
「しかもこんなに、」
「まんざらでもないだろう」
一間が空いた。
「入れ」
二人はうす暗いダイニングに腰を下ろした。スーツの上着は近くのイスに掛けて置いた。ネクタイは緩めた。彼は部屋着で隣のカウンターチェアに座っている。ちょっと広めのカウンターの上には足の細高いワイングラスが二つに、広い腹持ちでどっしりと座っているデキャンタ、つまみに昔から好んでいたつぶ貝のガーリックオイル漬けと塩辛に明太子。続けて目を右にやるとビールグラスとカツオのたたき、おちょこにきゅうりと大根のお漬物。順番が逆じゃないかといささか疑ってみたけど、彼はさあと言った様子でお酒を待っていた。
「昨日のワイン、家帰ってから開けちまって、はい、これで」
言いながら別のワインをカウンターに載せた。レベルはもちろん昨日よりだいぶ上げてある。
「本気だなおい……」
彼はそのボトルを見て顔を向けてきた。
「こんな夜中に冗談半分でわざわざ来ない」
「お前、まだ思ってるの?」
「それは自分に聞け」
会話は途端に途絶えた。ッポン。とくとく、どくどく、ぽたり、ぽたり。グラスを手に持つと彼に渡した。チリン。こくこく、ごくごく。
「ちょっ、お前っ」
リョウは素早く手を伸ばしてグラスをさらに傾けるのを制した。
「飲ませろぉ」
「何する気」
「飲ませろっ!」
彼の手を左手で強く払い落とすと天を仰いだ。
「今日は泊まる気だな」
「運転なんかできっかよ」
「そうだな、分かったよ」
「嫌か」
「別に」
彼もそれからワイングラスを一杯嗜んだ。目の前のデキャンタの線は随分下がった。口から流れる液体の細い筋が背後からの光で潔く見えた。透明すぎた。
「どうぞ」
彼に再びグラスを差し出したが、今度は彼が先にぶつけてきてぐいっと。
「人の事を言っといて、」
「今日ぐらい良いっか」
そのあとも二人は座ったまま黙って飲み続けた。喉を通る液体の音と吐き出す息の振動が空間を支配した。時折グラス器具がぶつかり合う音を混ぜながら。
「はいぇーな」
「ひさしぶりぃだよぉ」
ワインの酔いが回ってきたけど、飲む手を止めなかった。プシュッ。とんとんとん、どんどんどん、シュワ―ー。
今度はがっつりぶつかり合った。泡と暗黄色い液体が漏れ出る。シャツの袖についた。
「明日は俺のんを着ていけ」
彼はさりげなく言ってきた。耳元がくすぐったかった。続いてはまた、ごくごく、ごくごく、かー
「冷えてるねぇこれ」
「この季節だからかぁ」
まだそんなに暑くなっていなかった。
誰も目前の食べ物に手を伸ばそうとしなかった。自分のグラスを握りしめて口元に運んでは注いでいた。
「いてぇー」
彼が先に反応した。手はお腹をさすっている。体は前傾してカウンターにもたれかけている。グラグラ、グラグラ。二人ともお酒だけを飲むと胃が持たない人だった。
「だから食べろよ」
「お前が先に、」
「何張ってんの?」
「んないよ」
「食えって」
彼の口元にカツオを自分のお箸で運んだ。僕の目の前で虚ろになりかけている彼の唇に触れると自然と開いてくれた。彼の目と頭は自分の背後のどこかを追っている。
「うめぇーな」
「まだ要るか」
「くれぇー、ッコ」
むせたのか、口が歪んだ。僕は同じ動作を繰り返した。今度は彼の唇にお箸がぶつかった。全く訳が分からないけど、背筋が一瞬寒くなった。今度は何事もなく食べてくれた。
「ビールぅはもうぉ止そうぅか」
彼がおそらく初めて先にリクエストしてきた。彼はワインと焼酎よりもビールが好きだったのに。
そのあとは少し持ち直してゆっくりおちょこを傾けながら二人してきゅうりに食いついた。
「これ、手作りー?」
「そうだよぉ」
「うめぇーな」
彼の手作りの漬物、いつも好んで酒のつまみにしてきた。時には家の冷蔵庫にお引っ越しさせてお弁当のわき役に添えてきた。
「腕は落ちてねぇ―か」
「全然ー」
彼の顔は紅潮しているぽかった。光線があまりないせいではっきりと確認することができなかったけど、アルコールの量を軽く目でスキャンしてみるとそうさせるのに充分だった。
「もうここでやめにしよー」
「んー?まだまだだよぉ」
今の彼は自分の能力の上限を見失っていた感じだった。普段はこれ以上勧めても絶対に飲まなかったのに。
「だめだってぇー」
手を出そうとしたが叶わなかった。そして彼が濡れっぽい目を向けてきた時には突然ドキッとした。口はもう開きっぱなしだった。鼻をすすっている。
「飲ませろぉよーお前」
どうしようもなかった。自分のさらなる阻む手は儚く払い返された。力強くおちょこを握る彼。後ろの袋にあった控えめの焼酎にこっそりすり替えて、その後も彼と飲み続けた。
ラーメンを食べている途中はそれぞれの近況を面白可笑しく話し合った。大学のサークルでのバカ騒ぎの飲み会。授業で学生が大半寝ている悲しい惨状。テスト前の図書館の席の取り合い。泊まり込みでレポートを一緒に書き上げたあの夜中。頭で映像を描いてみた。楽しそう。
「おいしかったね」
「ね」
「もうこれお開きでいいよな」
「うん、もう帰る」
「帰るよねしのか」
「そうね、明日授業があるし」
榊は明日大学で授業があるみたい。
「じゃーまた明日。頑張るぞ!」
大工屋はお店の外でも意気込んでいた。三人は怪しげに彼が手を大きく左右に振るのを見て、
「おっ、おう、じゃー」
「うん、また明日ね」
「バイバイ―」
「もしもし」
「どうかした」
「いよいよ明日だよ。やっと進んだぞ」
「そうか。頼むよ」
「うん。早く伝えたくって」
早く伝えたいというよりも、彼が聞き漏れてしまうことが恐ろしい。
「ありがとう」
「じゃーもう切るな」
「ちょっと待って」
「ん?」
「明日の何時だ」
「夕方だけど」
「それまでに来てくれないか?」
「ホスピスに?」
「そう」
「別に何か言いたかったら今でも」
「渡したい物がある」
「そうか?」
「早めに来てくれ」
「おう、分かった。ほかは」
「もう大丈夫。わざわざ電話ありがとう」
「じゃーね、結果は明日の夜に伝えるよ」
「多分来るだろう」
「えっ、どういう意味?」
「ううん、何もないや、じゃなー」
「そう、じゃー」
岡崎に意味不明な事を色々と言われたけど、彼なりの計算があるだろうと思った。家で予備校の復習をしなきゃ。大工屋は久しぶりに机に向かった。
「あやちゃん、明日緊張してきたわ」
「そう?ただ話を聞くだけだよ」
「怖そうな話じゃない」
「彼のためにどんな話だって聞くわ」
「すごいね、普通の彼女じゃここまでしないわよ」
「彼が好きなの。最初はね」
「最初?」
「だんだんとその恐ろしい事実に近づきたい好奇心に変わってきたの。彼には悪いけど」
「事実って、何か分かってるの?」
「サイトの録音、部活のサイト、面白くなってきちゃって」
「面白がってどうするのよ、あたしはOGだよ」
「ごめん、でも、抑え切れなくって」
「後悔しないといいけどね、あたし、嫌な予感がするよ」
「何急に真剣になちゃってんのよ」
「生半可な考えなら行って話を聞くまでにしといたら?」
「せっかく話を聞けたのに?」
「それは明日の話の内容にもよるけど、大人の事情を壊すわよ」
「何か知ってるの?」
「これはあくまで噂話なんだけどね」
「えっ待って、あの二人には言わないの?」
「なんか笑われそうでやめた」
「あのね、」
榊の噂話を聞いていた関の顔は少しだけ歪んできた。
「本当に?『冗談だよー』じゃすまないわよ」
「噂で回ってきたのよ。会議を盗み聞きしてたやつからね」
「あの会議室って音漏れしてたっけ」
「盗聴よ盗聴」
「へぇ、悪趣味な」
「今でも仕込んだままじゃないの?」
「怖っ」
「これは明日の話を聞くまで誰にも言わないでよね」
「うん、分かったわありがとう」
二人はそれぞれ分かれた。
『明日、知らない後輩がお前を探すのを手伝うって言ってきた。頼むからそろそろ現れてくれないかな』
メールをチェックしたのは午後九時ごろ、現れろと言われても、どこにいつ現れるのか、スマホを力弱くベッドの上に投げ上げた。放物線を描くその物体はベッドの上に軟着地した。音すらしなかった。初めて返信してみるかと本気で考えた。自分が失踪してからも、なぜかスマホは止められなかった。そして定期的に栖原からメールが入ってくるようになった。毎回居場所を尋ねてきて。会って謝りたいと言ってくる。最初は誰にも面会できる状態ではなかったから医者の指示で返信をしなかった。後で徐々に外出できるようになってからもその返信をするのが嫌だった。昔に足を引っ張られている気がして気持ちが滅入る。でもいざ知らない後輩までもが巻き込まれるとなると自分の中の何かが問いかけてきた。
「これ以上人を巻き込んでもいいのか?」
「返信してみたら?」
ベッドの上で読みかけの漫画を開いてみたが、全く絵が入ってこない。セリフを追うだけ。何も面白くなかった。スマホを手に見つめながら一回深呼吸してみた。
『現れるとしたらいつ、どこで?』
短く文字をそろえて読んで意味が通じるか確認した。メールでやり取りするのはいつぶりの事だろう。送信ボタンを軽く触れると画面の表示が変わった。
そのあと返信を待つこと二時間、深夜になってもスマホが反応することはなかった。
「結局お世辞と自己満足だけだったじゃないか」
彼はその晩ぐっすり眠ることができた。
25
知らない間に外の天気が曇りになった。月を楽しそうに眺めていた榊が家のベランダから中へ入っていった。
「せっかく綺麗な星空だったのになーもう!」




