偽善者
14
起きた時には夕方の七時を過ぎていた。心は重たいままだった。昨夜の記憶が鮮明に焼き付いたままだった。
親に顔を見せようと一階に下りた。親は意外にも穏やかそうな顔だった。
簡単に言葉を交わし食事をねだった。これ以上話す事はもう何もない。
親に注意された。
「好きな事に熱中しても良いけど、疲れすぎじゃないか。だからこう、」
言いたい事は分かってる。そんな事は百も承知で好きな事に没頭している。自分はもう勉強して良い状態ではなかった。
「命よりも勉強なのか?」
診察の時に医者の言葉を聞かないで抗ってみた時に冷たく言い放たれた。
「自分でコントロールしているつもりだから心配はいらない」
「コントロールできていないからこの二三日は、」
「お父さんには分からないだろう。この病気は!」
すぐに黙ってしまった。この文句を使った回数は数え切れなかったが、効用は絶大なものだった。
「今くらいに勝手にさせて」
過量に飲んだ薬のせいで未だにろれつが上手く回らない。
「上がるよ」
そう告げて自分の部屋に戻った。今日の夜も怖かった。しばらくベッドでスマホをいじっていると、
「入るよ」
母の声だ。面倒くさいお説教が待っているに違いない。
「もう何回目なのあんた。大丈夫って言うけど、寝っぱなしじゃないの」
弱弱しい口調だった。母ももう精神的に参っている。
「昨晩も苦しかったんだ。我慢できそうになかったから」
我慢、その一言でお互いは分かっていた。また死にたくなったのだ。
「明日は病院に行くよ。朝起こしてくれ」
生活リズムは趣味のせいで狂っている。午後に起きる日がしょっちゅうにあった。
「じゃ一緒に行こう」
「いや、俺だけでいい」
「どうして」
「一人の方がいいんだ」
これ以上何も聞いてこなかった。一回自分で診察を受けたことがあったから大丈夫だと判断したのだろう。
「もうね、あたしも限界なの」
「そう」
そんなことも知っている。意地で俺のせいにして欲しくないから冷たく言い返した。
「あなたが死んだら、お母さんも迷わずいくよ」
二回目だった気がする。そんなセリフを聞かされたの。
「昨日はまた危なかった」
「お前はなぜいつも死のうなんて考えるのさ、今お母さんは最後の一縷の信念で頑張ってるのよ。それが切れたらあたしももう働けない。家に居っぱなしよ」
励ましているつもりなのだろうが、その言い方はひどく気に入らなかった。
「俺はお母さんと同じ症状じゃないし、原因も違う。比べないで!」
「お母さんがなぜ病気になったのかは分かるでしょ!」
自分がうつ病と診断された時から母も徐々に気持ちが塞ぎ込み始めた。
「あんたが中学校の時から死のうって考えたことがあるよあたし」
初めての言葉にびっくりした。そして心臓が縮まった。
「海辺に行ってね、灯台から海を見つめたの。いっそうのこと、」
「やめて!」
何も考えられなかった。
「だって、あんたがこんな状態だから、もう生きる希望が無くなったの」
「病気なんだから仕方ないじゃないか」
無責任にも程があった。
「もうあたしにはお前しかいないの、おじいちゃんとおばあちゃんはもうみんな逝ったからね、あんたしかいないのよ!それが……」
その唯一の希望の託す先である一人息子がうつ病に苦しんでいる。
「俺がこんな状態になったのは無理もない、分かるだろう」
「勉強以外にも、今の暮らしでもいいじゃないか。何も……」
何も自分で自分を苦しめなくても。
一緒に中学校の日々を歩いてきたから。
「俺は自分で収入が得られない。親に甘えてるばっかり。死んだ方が悩みも何もなくなる」
「死んでしまったら何も知らなくなるの。これから良いことが起ころうと、悪いことが起ころうと」
「知らない方が幸せさ」
そう言い放った。母の目から涙が予告も無く流れた。
「お母さんは小さい頃から病気で親を亡くしたの。だからあんたには辛い思いをさせたくないの。だから今まで頑張ってきたのよ」
母の両親は病気で早くも亡くなってしまった。自分は自分のおじいさんとおばあさんを見たことがない。
「ありがとう」
その親心は痛いほど分かった。そして怖くなった。母のいない自分。
「もう少し強くなって!」
涙ながら訴えてきた。
「今は休ませて、頑張るとか、もう、無理だよ」
「今まで頑張ってきたじゃない」
「でも、もう難しんだ。そろそろ休みが欲しいよ」
母は一気に無言になった。
「明日はちゃんと病院に行くのね」
うん。処方の事と現状を相談したい。でも母が横にいると先生と話しづらい気がした。
「朝に起こしてくれないか」
「何時くらい?」
「いつもの時間で良いよ」
「いつもの?」
自宅休養に入って長くなって、学校に出かける時間を忘れたのかと一瞬寂しく思った。
「高校に行く時間、七時くらいでお願い」
「分かった」
「もうこれ以上話すとまたお薬が必要になる。一人にさせて」
これ以上会話を交わすとまた負担の限界を超えてしまう。今はデリケートな時期だ。親にも前から説明してある。この病気には調子の良い日と悪い日があるって事を。
「分かった。夜中でも我慢できなかったら呼ぶのよ。お母さんはいつでも大丈夫だからね」
仕事がある両親を夜中に呼び起こすのはできれば避けたかったが、これからしばらくはそうせざるを得ないかも。
親が出て行って、部屋の中は再び一人だけになった。好きな音楽を聴きながら睡眠薬にまた手を伸ばした。安らかに眠れますように。天に頼みながら横になった。過量に飲んだほかのお薬はまだ体内にある感覚がしたから、定期的なうつ病薬しか飲まなかった。あれは多量摂取厳禁だ。そこまで大事を起こしたくない。
翌日の病院の事を思いながら、その日も結局時計を夜中の一時から四時まで追い続けてしまった。家にはもう睡眠薬が切れていた。
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
心で叫び続けた。泣きそうになった。目の前が見えにくくなる。流れて出る物は無けれど、心の中は海の中。
ベッドの横の本棚を見ると、古びたノートが十冊以上横たわっていた。手は脳の阻止を聞かずに、静かに伸びて、何回も、何回も、何回も、何回もそれを優しく触れていた。気づくと枕元が湿った気がした。
「きっと彼は今幸せに大学生活を送っているのだろう」
カーテンの隙間からうっすらと光が差し込んできた。
15
村上を呼び出して相談してからも考え続けた。サーバーをできるだけ少ない痕跡で攻撃する方法、社内攻撃に見せかける方法、彼が内部で動いてうまくできないのか。結局自分にはその一歩が踏み出せない。今日は早めに帰られる日だ。彼の様子が気になりっぱなしだったから電話でもしてみよう。
一回目は通じなかった。勤務中なのか。会社の彼のデスク電話を掛けた。彼がそうしてきたように。何の躊躇いも無かった。
「はい、事故調査委員会です」
え、事故調査委員会?この番号は彼のチームの外部窓口の電話番号だったはずだ。エンドユーザーやインテグレータからの連絡もここで行われてるから大丈夫だよと言われたことがあった。
口調を改めて整えて、
「稲葉さんいらっしゃいますか。Xシステムの栖原です」
ウソをついた。彼が関わっているであろう会社の名前を使って呼び出そう。
「Xシステムさんですか、いつもお世話になっております。稲葉はもう辞めたんですけれども、新しい担当者をご存じないんでしょうか、お繋ぎいたしましょうか」
稲葉が辞めた?
「あっ、いえっ、あの、突然の変更で連絡が通らなかったみたいです、また改めて御社と連絡を取らせていただきます。本日の所は失礼いたします。申し訳ありません」
「いえいえ、こちらこそ連絡が急だったもので、また何かお困りの事がございましたらご連絡いただけたらと思います。では失礼いたします」
急いで電話を切った。気づけば頭にうっすら汗が出ていた。
彼の家に行こうと思った。会社を辞めたら彼の居場所はもう他に思い付かない。
車を急いで出して彼の家に向かった。何度か黄色信号にひかかりそうだったが、済まぬと言ってアクセルを全開にした。そのたびにハザードランプを点滅させた。
彼の家に着いた時には日がすっかり暮れていた。息を切らせながらアパートの部屋の前にたどり着いた。
「ピーンポーン ピーンポーン」
薄暗い廊下で鳴り響いた。反応も、足音も聞こえてこなかった。
出かけたのかと思って出直そうとした時に隣のドアが開いた。驚いた。
「もしかしてお知り合いの方ですか」
「ええ、稲葉の居場所は御存じありませんか」
「それが、以前は毎日元気に出かけていたようですが、この三日は全く音もしないんですよ、通報しようと思ったんですけど、三日じゃ余計かなとも思いまして、稲葉さんには何かあったんですか」
口調からは日頃からよく付き合っているらしい隣近所の中年の女性だった。心配そうに聞いてきたから隠さずに答えた。
「お仕事を辞められたそうです。僕も心配で様子を見にきたのですが、無駄足だったようです」
「やっぱり何かあったんですね、三日前に帰られた時にちょうど会って挨拶して世間話を持ち掛けたらすっごく落ち込んでましたのよ」
僕は彼女に近づいて話を聞こうとした。家に上がらせていただくのは難しいだろう。
「そうしたら、今まで見たことのないような顔で『そうですか』としか言ってくれなかったんです、普段は面白おかしくお話をしてくれるんですけどね」
息子を心配するかのような口調で大げさすぎるとも思った。
「そこまでお付き合いが、」
「と言ってもただのご近所ですけどね。よく遅くに帰られるんですよ。お酒のお相手に主人がたまにお邪魔したり、上がってこられたり」
そういう事だったのか。
「お酒好きだとは知らなかったんですけど」
「あらそう、じゃまだまだだね。同僚の方が最近よくお見えになりますよ。夜中飲んでいるみたいです。朝に二日酔いの顔をよく見かけるのですよ」
「いつからですかそれは」
「えっと、いつからだったかしら、うん、あっそう。三週間前からだったかしら。ちょうど子供のテスト期間中にうるさいなと文句を言ってきたからね。でも言いづらいでしょうもう。さすがにちょっと困りましたよ」
「そうですか。大騒ぎしますか?」
彼はそんなに陽気な性格ではなかった。
「大騒ぎしますよそりゃ。五人も集まれば静かに飲みようがないじゃないですか」
「そんな大人数で来るんですか」
「そうなんですよ。確かにドタバタしてました」
「やっぱり今の彼は知りませんか」
「それが気になって聞いてるんですとも」
「僕もよく分かりません」
少し残念そうな顔で、
「そうですか。三日前に家に戻ってから出てないのかしら」
その一言で嫌な予感がし始めた。
「それもよく分からないんです」
「やっぱり通報した方がいいのかな」
「難しいですね」
嫌なニュースばかりが頭に浮かんでくる。話が入ってこなかった。彼は酒飲みだっただなんて。
「家の電話をかけても、主人が携帯電話に掛けても出ないんですよ」
自宅に電話があるなら教えてくれ。
「そうなんですか。一応届け出ましょうか?お手伝いしますよ」
その女性は心配そうにうなづいて、
「主人がまだ帰ってこないんですから、」
「僕が車で送ります。ご主人には置きメモでも、お電話でも、外でお待ちしてます」
「そうしてもらえる?できるだけ早く支度するわ。ありがとう」
彼女も居ても立っても居られなかったみたい。
下で待っている間に調べてみた。そうしたら足に力が抜けていった。
「お待たせしました。行きましょう」
「すみません奥様、僕らじゃどうにもできないかも知れません」
「それはどういうこと?」
「失踪を届け出ることができる人は限られているみたいです」
つまり、捜査願を出せるのは行方不明者本人の親族、配偶者、保護・観護者など密接な関係を持った人だけ、しかも緊急性や事件性がない限り、警察は簡単には動いてくれないのだ。
彼女にそれらの事を説明するのには時間がかかった。警察に行く気満々で中々聞き入れてくれなかった。
彼女を家に帰す前に連絡先を交換しておいた。お互い彼の事が気になる。彼がなんて幸せな人だと連絡先を交換しながら思った。赤の他人二人が彼を交点に交わることがある。自分にはあるのか。そんなことが。あっていいのか。
16
翌日の朝、彼女から連絡があった。稲葉が部屋から出てきたという。ドアの開いた音がして飛び出してみたら寝ぼけた彼の目と合ったとか。彼が泣いたのを見るのが初めてだったらしい。彼女の顔を見たら泣き崩れてそのまま廊下の真ん中で膝をついて幾ら慰めても聞かなかった。仕方ないのでとりあえず彼女の家に泊めたが、僕が訪ねたことを伝えたのか、できるだけ早く会いたいとも言ってきた。
その日も仕事は多くない。大半は書類仕事だった。村上も事情は分かってくれていたので早退させてもらえた。さっそく彼のマンションを訪ねた。そのままお邪魔するのもあれだと思い、菓子折りを一つ選んでおいた。
「栖原です」
「あ。栖原さん、どうぞ、上がってください。家がごちゃごちゃで汚いんですけど、どうぞこちらへ」
昨日と明らかに調子が違っていた。明るく迎えてもらえて僕も気持ちが落ち着いてきた。
「ちょうど主人の頼みで買い物をしてこなきゃならないから、お二人はごゆっくりどうぞ」
菓子折りをこっそり玄関に置いてきた。それなりの気遣いに二人とも頭を下げた。
テーブルを見ると、イチゴとグレープフルーツが盛られて、お茶がまだ白い息を吐き出していた。
ありがとうございます。一言言おうとしたときにはガチャッの音がした。
「済まない。心配をかけたね」
恥ずかしそうに話を切り出してきた。
「辞めなきゃならなくなってしまったのか」
「事故調査委員会でチームのやつが俺に全責任を被せた」
管理責任は問われたのであろう。しかし他の詳しい事はさっぱり想像が付かなかった。
「ポットの管理は俺がしたとみんなで口を合わせやがった」
「そんな酷い話」
侵入の原因となる設定の誤りの責任をすべて稲葉に負わせた恰好だった。
「みんなは保身のために裏で話を合わせたみたいだよ。もう一チームあるからね。捨て駒だよ捨て駒」
現実はおとぎ話でも小説でもない。彼の身に起こった事は目の前にある。明日は我が身かと思うと何とも言えない悲しさを感じた。
「調査員会は何と」
「懲戒解雇」
そんな所なんだろう。ただ主語は決して彼であるはずじゃなかった。
「後始末頑張ったのにな……」
言う言葉を探してみたけど、無駄だった。事実は最も雄弁だった。
「なんか、済まない」
長い間をおいて謝ってみた。
「もういいんだよ。いいんだ」
声からは様々な感情を読み取ったが、一つ一つ考えるのが怖くてできなかった。一まとめにして脳裏の奥に投げ込んだ。おとぎ話の結末にしてはふさわしくない決め台詞だった。
この三日間の事は誰も何も言わなかった。
「俺の会社に来るかい。一言くらい言ってあげ」
話の腰を折られた。
「働けないかも知れないね。しばらく」
ショックを癒すのに時間が必要な場合もある。それはいつしか誰かから学んだ。
「そうか。しばらく休んでみるのもいいと思う」
「そう思うかい」
口角がわずかに上がったが、妙に違和感を感じた。何かもっと多くの物事をも諦めたようだった。
「今はショックだろうけど、みんな辛い時はある」
薬にならずも毒にもならず。その言葉はそのままその空間に漂っていた。
「もう心配しないでくれ。それよりも仕事は大丈夫なのか」
自分の近況を告げるのも怖かった。
「うん。大丈夫だ。仕事は一山超えたよ」
「そっ、羨ましいなー」
彼は頭の上にある照明を見つめた。背後の窓からは梅鼠の空。珍しかった。彼の背中にできた影とも重なった。雲の模様は見たことのないものだった。あの日の朝の雲に似ているかもしれない。だから掴みたかった。二度と放したくなかった。探し物ばっかりの人生は嫌だ。
「本当に大丈夫?一人暮らしだから泊めてもいいぞ」
「お前んち?はっ」
「何か可笑しいか?」
「もう家に住むつもりは無いんだ。無いんだよ。」
ますます異様な事を言い出す彼を見て誰かの影と重なった。
「変な事言うなよ。子供じゃあるまいし。お金に困ったらっ」
「困らないよ。お金なんか。金は使えねぇんだよ」
「はあ。とりあえず今夜は家に来い。迷惑が掛かる」
言ってからしまったと思った。
「迷惑?迷惑が掛かるのか?そうか。そうだよな」
と言って、玄関に向かった。
「おい、待て!そんなつもりじゃー」
彼の背中を掴もうと腕を伸ばしたが届かなかった。すぐに立ち上がって追いかけた。
「黙れ!」
前に傾く体が固まった。
「この偽善者!消えてくれ!」
空中に浮かせたままの手が落ちていく。昨夜と同じように足の力も奪われていく。また彼をも失ってしまうのが本当に怖かった。
「頼む。頼むから」
僕が先に涙声になった。
「何?」
僕の声に何かが触れられたのか、
「行かないでくれ」
頬に一滴の雫が垂れてきた。
「行かないで?」
「もう嫌なんだ。嫌なんだ」
口を開くのが辛くなる。彼の頭が、残像が、文字が全て蘇ってくる。
彼は振りかえって僕を見た。この様子はなんとも情けない。情けないけど、自分を後悔させることはない。後悔だけはもう嫌なんだ。人生は選択と後悔の繰り返しだと分かってから選択することも、後悔することも怖くなった。今はとにかく彼を止める。彼を止めたら自分は後悔せずに済むのだ!
結局彼は僕と一緒にご近所さんにお礼を申してからその晩自宅に戻った。彼を車に乗せた時に彼ではなく、自分が救われたと感じた。
その日の約束事を思い出したのは翌日の朝の事だった。遅すぎた。




