布団でコスモポリタんぬ。
ふわふわぷわわん。どゅるどゅるじゅにゅうん。じーーーーーっ。じゅんじゅん、じゅんじゅん、じゅんじゅん……シュッ。
今朝も目蓋の裏の大爆発の言語化には失敗す。誠に遺憾ながら我は已に旅立ちの時を迎えたり。さあ、勇気を振り絞り、足を蹴りあげよ! そこにお前の世界はあり! さあ、蹴りあげよ! 旅立ちなり!
しかし司令部の命令は末端の現場までは悲しいかな未達であった。わたしはやわらかくあたたかなものに抱かれて手足を丸めるのみである。きっとこれは愛であろう、と信じている。
ただ、こやつもずいぶんと重くなってきた。毎度ぺったりと厭らしくまとわりついてくるのが無様だ。潮時なのであろう。長いようで短い日々だった。共に過ごした日々の思い出を噛み締めながら、掴んだ指先に力が入る。愛は確かにあったと思う。穏やかな安寧とひそやかなまぐわい。時に情熱は暴力となって互いを傷つけた。
さあ、蹴りあげろ! そして脳がうるさい。お前の世界は外だ、立て! 馬鹿げたことを申すな。仮に私の世界がそこにあったとしても、今、尽き果てそうな愛に抱かれて安らかな私に何ができよう? 私にはここが世界だ。そこなどアウト・オブ・眼中なり。
目蓋の裏のチカチカが気持ちいい。暗い混沌の底にも何かの光はあるようだ。行きたくもないし見たくもないけれど、そんなふうに上手いこと神がつくりたもうたのは、わかる。
ああ、天からの呼び掛けが眩しい。己の奥深くに神のいる場所を知らせる。彼は天の真ん中に居り。すべて見晴るかす中心に。そして陽射しはあまねく世界の端々までも照らすだろう。
いや。そんなわけはない。地球は丸い。光射す場と射さぬ場がある。なぜそんな嘘を堂々とつく? なんなのだ、あのうるさく暑い太陽は。
ぶつぶつ言いながらも目蓋の裏に神の啓示は尚も続いて、少なくとも自らが光射す場にうずくまっていることは把握した。
さあ、もう一度。蹴りあげよ!
やだ。それはわたしのいるべき世界じゃない。わたしがいるべきは、ここだ。きっとラーやスーリヤ、ホルス、アポロンも知っている。
――ドンデ・エスタス・メ・ハピネサ? 私の幸せはどこに?
――アキ、アキ! そこ、そこ!
――アキ? そこ?
――シ! そう!
――ベルダッ? 本当?
――シ! そう!
いつか行ってみたい、中南米。ああなんと広い括りであろう。いつか行ってみたい、アフリカ。ああなんと。エジプト。遠い世界。
このくたびれた愛にもきっと私は感謝せねばならぬ。地球規模で見れば。わかる。だが如何せん幸福でない。生きたい人に命をあげたい。苦しみのために生まれてきたのかと、楽しいこともあったけれども、もう疲れ果ててしまった。
司令部は一部の兵の戦意喪失に、決起作戦を急遽中止。顔面洪水の策に出た。よかろう。こうなっては仕方あるまい。ドーパミンやらアドレナリンが、きっと一緒に出るのであろう? 多少の浸水はやむなしである。健闘を祈る。
泣き濡れながらまたも愛を汚して、悔しさが唇の皮を裂く。ぶち、と音がして鉄臭い血が流れ、それをも愛が吸っていく。血も汗も、涙も唾液も、この子は全部受け止めてくれた。わたしはこの子なしでは生きてゆけない。本気でそう思っている。
しかし、愛は喰えない。それだけでは体はやがて朽ち果てるのが必定である。枕元のビスケットとスポーツドリンクと安定剤に手を伸ばし、飲み込むと、その間、嗚咽はしばし止んだ。
体の在ることが虚しい。この頑丈な命は断とうと思えどびくともしない。ひねもす横になっていたって、たまに喉が渇くと水を求めて体が自然と起き上がる。そしてこんなにも泣けば、頬が濡れることが気持ち悪くて、そこにはっきりと「感触」を自覚してしまう。カッターナイフで手首を切れども痛いばかりで、豊穣たる血液は体内に満ち満ちて損失は微々たるものである。
こんな俺でも日本首相と共に米軍開発の最新鋭戦闘機に乗り込む羽目になるのだから世界は不思議だ。他のメンバーは司法修習生やら研修医やら、薬学や物理や化学の研究員らが集まってるのに、こんな能無しの俺がなぜ呼ばれたのだろう。確かに日本の一流大学でそれなりに学問を修めつつあるつもりであるし、かつての模試では全国二位の成績だった。そこそこの理解力・判断力はあるのだろうが、こんなレベルの人間はいくらでもいる。我は愚鈍で何もできぬ。他のエリート達とひとつ明確に違うのは、まだ俺は何者でもないことと、何故か初恋の(馬鹿な)女が一緒なことだ。
「やあ、シュウゾウ。久しぶりだね」
「お招きありがとう。バロック、君の戦闘機は素晴らしいね。広くて実に快適だ」
銀色でつるりと丸い、円盤状の戦闘機は、東京を発ってアメリカへと向かうようだった。どでかいくせに外観は継ぎ目も見えず、技術の高さが窺い知れた。戦闘機というより宇宙船のようなそれは、地上を離れるときも助走をつけず、まっすぐに天空に向かって、ぬめーっと浮いて、スカイツリーを見下ろして、しばらくしてから横滑りになった。
「快適か、それはよかった。君たちには三ヶ月、ここで過ごしてもらわねばならないからね」
「なに?」
「我々は今からこの戦闘機を使って日本を攻略する。シュウゾウ、君は僕の友人だから、助けてあげたくなったんだ。三ヶ月後、ここにいる日本人と共に日本を再生してくれ」
首相も含めて、集められた日本人の誰もそんなことは聞いていなかった。
「ああ、食料は心配ご無用だ。備蓄もあるし、野菜や肉の収穫もできる。クローンだから、風味のお好みには沿えないかもしれないけれど」
厚さ四十インチの特殊ガラス越しに見える景色は想定よりも味気なかった。高度が一般旅客機よりずいぶん高いようで、空というより宇宙だった。隣では首相が表情を変えずに同じ景色を見ていて、さすが政治家だ、と感心した。
「この戦闘機だけで日本を攻めるのか? たった三ヶ月で?」
「そう。ちなみに我々の計算では六週間で済む予定だ」
「客観的にいって難しいと思うが」
「日本は島国だし、ハイテックに依存している。実は機内の別のエリアに、アメリカ中から精鋭を三百人ほど集めていてね。電気を遮断し、インフラを麻痺させれば、簡単にパニックが起きるだろう。農作物の収穫も防ぐよ。人口が七割程度になったら、我々が救いの手を差し伸べる手筈だ」
笑顔でそんなことを告げる大統領に僕は恐怖した。
「死ぬのは医療の必要な弱った者や、暴力を振りかざす愚かな者。日本人は集団心理が強く働くから自治の力も強くなるはずだ。飢えや寒さに耐えられる体力、知能、社会性を持つ人間が生き残る。悪い話じゃないだろう、シュウゾウ?」
「日本国首相として、断固反対する。遺憾だ。残念だ。わが友がそんなことを。」
日本人用の団欒室には隅に畳の一角があった。床の間もあり、大小の刀と青磁の壺が置かれ、壁には赤い薔薇と霞草とが窮屈そうに竹の花活けに。葛飾北斎の荒波と富士の絵も。西陣織らしい、橙が基調の打ち掛けも衣紋掛けにセットされていた。毒々しいほどたんまり螺鈿が細工された漆の物入れもあった。
「こんな趣味の奴らに日本を滅ぼされてたまるか!」
司法修習生の一人が怒っていた。私は壁に掛けられた花活けから、赤い薔薇を抜き取って、ソファの側に戻った。
「でも、どうにもできないよ。僕たちの身の安全は保障されてるみたいだし、戦争が終わってからの日本再生プランを早く考えた方がいい」
淡々とコーヒーメーカーの準備をしていた初恋の女に水をわけてもらい、ウイスキーグラスに薔薇を浮かべた。
「一理あるんだよ。高齢化が進みすぎだ。不可抗力でリセットできるなら、正直なところ万々歳じゃないか」
「不謹慎な!」
「そう思うだろ?」
薔薇のグラスをローテーブルに置きに、エリート達の議論から逃げる。争いは、嫌いだ。
「でも、戦後はアメリカ軍が日本を乗っとるんでしょう? 日本文化がなくなっちゃう!」
日本舞踊をやっている初恋の女が、コーヒーを配りながら言う。エリート達は黙った。鶴の一声、のようで、苦く笑った。正直たいして見目はよくなく、愛嬌と爛漫さだけが取り柄の女だが、男ばかりのここでは有無を言わさずアイドルのようにちやほやされはじめかけているのが癪に障った。俺は床の間の刀の向きと順序を直した。
「どうやって戦うんだ?」
恭順するほうが容易い。そしてどうも大勢はそちらだった。なのに女の一言で、場は抵抗に流れた。
「逆手にとるんだ。あいつらは個人主義だ、集団の力がない」
国や人種で性格が固定されるものではなかろうに。日本に生まれ育ちながら社交性のない私はかなしくなった。螺鈿の箱を裏返してみると、反対側には飾りがなかったので、そちらを表に向けた。今「国なんて」と思ったくせに、「裏側に飾りがないのはアメリカらしい」と思った自分がおかしかった。
議論は紛糾しているようだったが、ひとり、畳エリアに正座してみた。どうにでもなるがいい。こっちもどうせ生きるのに飽きたところだ。ただ、生きたかった人はいるだろうに、何故自分が、と、それのみ悔やまれる。
花はかすみ草だけになって、豪華すぎる螺鈿も裏を向き、けれど青磁の壺と北斎がやけに青かった。西陣はどうにもならん。というかそもそも畳も気に食わん。緑すぎるし、縁もやたらと凝っている。が、思いついて自分のコーヒーを取りに皆の側へ近づいた。
「二千年の文化を蹂躙されてたまるか!」
お前、恐竜に謝れ。スピノサウルス様たちに謝れ。と思いながらマグカップを掴み、畳エリアに戻る。初恋の女が俺を不安そうに見ていたのに気がついた。コーヒーを一口すすると不味くて、鳴海のせいか水のせいか豆のせいかマシンのせいか。恨んだ。カップに指を突っ込んで、コーヒーを北斎の白波に塗りたくった。いい感じにムラもつけて、パキパキとした色彩を消した。ブルー、コバルト、シアン……。ああ、それくらいしか知らないなあ。日本にはもっとたくさん青があるけど、ま、単に英語力の問題かもしれない。
死のうが生きようが、国が滅びようが伝統が消えようが、そんなもの知ったこっちゃない。けれど今現在見えているものが気にくわないのは嫌だ。潰える船で何をしているか我ながら馬鹿馬鹿しいが、真新しい畳表に爪で傷をつけてコーヒーを染み込ませ、さらに足で踏みつけてみるという愚かな作業に没頭する。
「何してるの?」
鳴海がいつの間にか近くに来ていて俺を見ていた。
「悪を懲らしめている」
ちょうど畳を踏みつけているところだった。
「ふーん」
言いながら鳴海も一緒に足踏みをしはじめた。
「そのヘアピン、貸してくれない?」
「うん」
彼女がまとめていた髪をほどくと、つややかな黒髪がしとやかに肩に流れた。
「ありがと」
髪を整えてやりながら髪飾りを受け取り、意外と鋭利なその先端で畳を傷つける作業に戻った。
「鳴海。あの着物、着てみて」
「えー、今襦袢もってないよ」
「上から羽織るだけでいい。前を開けたまま。そしてそこに座って」
「変なの」
コーヒーが足りなくなったので、一時、戻った。ポットごと持って戻り、作業を続行する。
「ねえ、コーヒー超まずかったんだけど」
「私のせいじゃないよ! 説明書どおりにやったもん!」
「え? きちんと英語よめたんだ!」
「ひどい! イギリス留学してたんだよ!」
「一ヶ月でしょ」
腰が痛くなったので作業を中断して、畳エリアを眺めた。装飾の色みがバラバラで、個々の主張の強かった空間が、コーヒー色に少しは薄まった。霞草を半分の量に減らし、青磁の壺を離れたところにやった。
「きれいじゃん」
雛人形のように上品ぶってちょこんと座る鳴海に近寄った。お互い無言で、ただ鳴海の黒髪を前にとかして、そのまま撫でた。
顔を見られないのだ。本当に哀れな己だと思う。額に口づけたい気がしたが、できなかった。なぜ戦力外のはずのこいつがこの戦闘機にいるのか疑問だったが、とりあえず乗り込んでくれていてよかった。少し、強くなれる。鳴海は容赦ない僕の現実だ。生命の鼓動がうるさいから、強くならざるを得ない。
「おい。首相から呼び出しだ」
SFみたいな機内テレビ電話は、タッチパネルで操作可能だ。
「待って!」
部屋を出ようとする皆を引き留め、青磁を床に叩きつけて割り、なるべく鋭そうな破片をひとりひとりに渡した。
「武器。丸腰じゃ危ない」
鳴海の長い髪も素早くまとめてやった。
日米トップ達は暗く重苦しい展望室にいた。バロック大統領が指をパチンと鳴らすと、一面の壁が霧が晴れるように透明になり、外が透けて見えた。
「ここはラスベガスの近くだ」
UFOに見えるこの機体がこんなところを飛行していては、NASAとエリア51の噂もさながら真実味を帯びる。大統領も迂闊じゃないか。いや、いいのか。国防総省は宇宙人と交渉しているだけで、秘密裏な新兵器の開発などとは無縁なことになるのか。ははあん、この戦闘機がUFO型なのにはそんな事情もあったのか。
「どぅえっ!」
機体が降下して地表が近づくと、訓練中とおぼしき陸軍兵士らの銃撃に見舞われて変な声が出た。本当に頑丈な機体らしくて無傷だが、銃口を向けられたのは生まれて初めての経験だ。心臓がバクバクしていて息が荒くなった。急に全身が鋭敏になり、アドレナリンがどぷどぷ出ている感じがする。めまいがする。
「ああ、マイケル!」
叫ぶ声がして目を向けると、やさしげな中年のおばちゃまが窓に張りつき叫んでいた!
「マイケル! マイケル、ママよ! ああ、わかるわ。あの子、右目の下に黒子があるの。なんて大きくなったの、マイケル!」
ぽん、とおばちゃまの肩に大統領の手が置かれた。
「あの勇敢な兵士のお母様ですね?」
「ええ、そうよ! あの子は四歳まで、私たちのかわいい坊やだったの!」
「あなた方の選択は、アメリカの栄光と繁栄のために、力になってくれました」
久しぶりの再会に泣いている母親は、向けられる銃口にも全く怯むことなく、少しでも我が子に近寄ろうと窓に張りついていた。
母とはそういうものであろうか。自らの未だ治まらぬ動悸と比べて呆気にとられた。さっき、銃口がこちらを向いた瞬間、頭では大丈夫と認識していたが、体は、反射的に、ものすごい恐怖と絶望に強張った。それとも、兵士の母親は、銃を向けられることにも慣れているというのか。
「あの兵士達は強い。念のために、彼らもこの機体に備蓄しておかねば、ね」
母の前で非情にも「備蓄」と言った大統領はにこやかだった。怖い。早く船をおりたい。私など生き残ったところで何の足しにもならないじゃないか。ただ、言ったところで静かに殺されるのが関の山だろう。そしてきっとそれは、痛い。銃を向けられただけであんなに怖いのだったら、もうそれ以上は狂う。嫌だ、麻酔の中で死ぬのが夢だ。
「そうだ、シュウゾウ。面白いものを見せてあげよう」
大統領が手を叩くと、展望室の扉がウイーンと開いて、メジャーリーガーのイチロー選手が入ってきた。
「イチローだ!」
背後で研修医が興奮している。僕だって興奮する、なんてったってイチローだ、日本で知らぬのは仙人くらいだ。
「やあ」
片手を挙げてユニフォーム姿で近づいてきたイチローは、携えたバットで三回素振りをして(あの独特なフォームだ!)、アメリカンサイズのマグカップに入ったカレーを飲んで笑顔を見せた。背中にはもちろん、51。エリア51の上空でイチローを見られるなんて感激だ。
首相もにこにこして握手を交わし、我ら日本精鋭団も各々興奮してはしゃいでいた。
「イチロー、あちらへ」
大統領が声を掛けると、イチローは指示された通り、窓辺に寄った。すると、ジャキッ、と銃を構える音が聞こえた気さえした。眼下の兵士達の銃が、一斉にイチローに向かったのだった。有名人にも全く動じず、淡々と任務をこなすわけだ。よく訓練されている。
「ああ、マイケル……!」
兵士の母親が泣き崩れた。
「あの子達は『野球』という遊びがあることさえ、知らないでしょう……」
はっとした。そうか有名人に動じないのではなく、そもそも彼らはイチローを知らないのだ。
「そうですね。彼らの仕事は、敵と味方を識別することですから」
「あの、『野球』は『遊び』じゃないんですが。『生き方』だ」
朴訥な野球選手の決死の言葉を無視して、母親は毅然と顔をあげた。
「いいのです! これがあの子の人生ですから! アメリカのために死ねるのなら、あの子の本望でしょう」
気丈に腕で涙をぬぐって笑った母親の姿を、美しい、と思った。ああ私は、どうしても日本人の魂を捨てられない。
「失礼します! 大統領、緊急事態が発生しております!」
息せき切って駆け込んできたヒスパニック系兵士は、何度も言葉を言い直しながら、スペイン語訛りの母音の強い英語で懸命に大統領に説明した。なんでも、私たちがのんびりしている間に、機内のアメリカ精鋭用エリアで謎の感染症が発生したらしい。高熱が出て、やがて吐血し、死に至る。空気感染するようで、罹患する者が急激に増えている。優秀な医師や科学者たちもいるのだが、新種の病らしく、手に負えないらしい。
「おい、聞いたか。パンデミックだ」
「いや。たった三百十人じゃ、パンデミックなんて言えない」
「全滅かね」
「全滅するだろうなあ、これは」
他人事のような物理学者たちの声を聞きながら、私は真っ先に鳴海を探した。ぼけーっとしながら、たぶん状況も理解しておらず、のほほんとした顔で大統領を見ている。
馬鹿じゃないの! ああ、馬鹿なんだった、と思いながら鳴海の腕を掴んで、一目散に逃げ出した。
「おい!」
報せに来た人だってきっと感染している、少なくとも感染者に接触した可能性は私たちより確実に高い。逃げなきゃ。機内は広いからどこかに隠れていれば運よく助かるかもしれない。
道すがら厨房で塩を掴んで、日本精鋭団の居室近くのシャワー室へと隠れた。ここならば水が確保できる。感染者とも遠い。
鍵をかけて息を落ち着けていると、突然、電話が鳴って心臓が跳ねる。やたらうるさい、音が大きい、頭蓋骨の中に受話器があるみたいだ。気持ちが悪くて意識を飛ばしかけたら、「これは夢だろ」と気がついた。そうだ、これはきっと夢だ。俺は広い機内を目的地まで的確に疾走できるような、優れた空間把握能力も方向感覚も、持ち合わせちゃいない。
気持ちが悪い。吐きそうだ。ぐるぐるまわる暗い視界の向こうで手が懸命に電話を探した。というかこれは電話じゃない。目覚まし時計のアラームだ。ああ、この調子じゃ今日も一限のスペイン語は間に合いそうにない。目が覚めたって、この吐き気からの復活はまだまだ遠い。
ロ・シエント……。先生には届かないのだけれど頭の中で謝った。気持ち悪い。たまらずトイレに行って吐いてから、うがいをしてスポーツドリンクを飲んで布団に戻る。くたびれていやがる。愛の消えかかったここで、仕方なく目を閉じて耐える。いつか、そのうちよくなる。いずれ。いずれ。ずっとこのままなわけじゃない。大丈夫、大丈夫だと言い聞かせながら深呼吸する。瞼の裏では真っ黒い闇にちかちかと光が明滅する。無数の星のように見えるそれが果たして何なのかを考える。何なのか考えても仕方がない。瞼の裏の毛細血管だとも聞いたことがあるけど、星々はそれぞれが孤独に、密集すれども独立している。
あ。爆発した。白い点が急に大きく眩しくなってやがて弾けるのだった。ぼおおおん、とも、ぐむーーーっ、とも形容できるがどちらでもない。なんでもない。ああ、なんでもないのだこれはきっと。
ぐるぐるする。この星さえなければ視界がぐるぐるまわっていることにも気づかずに済むのに。きっとこの星が消えた視界は平和だ。穏やかだ。安らぎをそこに求める。知りたい。本来の暗闇を。わたしもきっと消えてなくなって本当に安らかだ。
なのに白い光は暗闇にずっと無数に存在し、強くなったり弱くなったり、そしてそのうちハリウッド映画みたいな大それた夢に引きずり込まれながら「見たくない見たくない血は見たくないの!」の抵抗は空しく終わった。どうして夢とわかっているのに、そこから這いずり出せないのだろう? 大学に行かなきゃいけないのに、どうして? どうして私はまだこんなにも眠い?
「開けろ! お前らどうしたんだ!」
日本人研修医が私たちの立て籠るシャワー室の扉を叩く。
「考えようよ、みんなで」
鳴海と手を握りながら、冷静になろうと呼吸を落ち着けていた。いや、手を握ったくらいじゃどきどきなんてないのだけども。
「でも確かにそこに籠るのは得策だな。水があるんだろ?」
「塩も持ってきた」
「さすがだなあ」
有機か何かの研究者だという彼は、いま立派に渦中の人だと思うのだけど、やたらのんびりとしていた。
「出て来いよ」
研修医は苛立っている。
「私たちが出ていってなんのメリットがある? 感染して死ぬ確率が高い」
そして夢の中でまで嫌な血を見る確率が高い。
「俺たちは同じ穴の狢だ。そこにも換気孔があるだろう。船内でどう繋がってるか知らないが、かえって危険かもしれないぞ」
はっとして天井を見上げた。確かに換気孔はあった。鳴海に目をやると、「やばいよー、やばいやばい!」と指差して、小声で、面白がってる風に言う。
救われる。鳴海のそんなところに救われてきた。大変なときでも暗くならずに面白がって愉快がって、そんなだから惚れちゃってた。
「そこにいたいなら、無理にとは言わない。でも三人寄れば文殊の知恵っていうし、」
「すでにそっちに八人いるでしょう」
扉の向こうで研修医は少し黙った。
「こういうと気を悪くするかもしれないけど、女性の考えも、欲しい」
はあ。ため息をついてしゃがみこんだ。意見。意見? 欲してるのは意見じゃなくて鳴海の笑顔と卵子なんだろ? まあ結構丈夫な女だ、日本標準と比べればそりゃずいぶん頭もいいはすだ。戦後の日本で優秀な子の母になるにはうってつけだと思う。
でもそれを僕は許せない。気づいている、すでに日本人精鋭たちは鳴海をマドンナ扱いだ。許せない。中学からずっと一緒にいたのはこの俺だ。こいつの馬鹿な初恋もうぶな失恋も全部しってる。おじいちゃんが亡くなって悲しくてしょうがなかったときだって、一緒にいて、全部抱き止めて聞いてやった。鳴海の涙を一番知っているのは、僕だ。
「ねえ、どうする? 外、でる?」
鳴海が隣にしゃがみこんで飄々とした声で言った。
「今でるのは悔しい」
「ふふ。そうだろうね」
「おなか空くまでここにいよう?」
「うん!」
「ストレッチしながらね。エコノミー症候群にならないように。バスタブの中が鳴海のスペース、洗い場がわたしのスペース」
「別に区切らなくていいよ、真面目だなあ」
鳴海はわたしの手をもてあそびながら呆れた。私も呆れた。
「ちょっと寝とく?」
「うん」
空いた手で髪を撫でると、鳴海はわたしの肩にもたれかかって目を閉じた。
この状況で、何度迷ったことだろう。学校帰りの電車の中。修学旅行のバスの中。部活の合宿の部屋。鳴海のおばあちゃまのおうちに一緒に泊まりに行った日の夜。
キスもしたことがなかった。すれば驚くんだろう。私にそんな気がないと鳴海はきっと信じこんでる。こっちとしては、いい加減に気づいて察して、多少の思い出をくれたっていいんじゃないかと思っているが。
「なあ、お前ら夕飯どうする?」
夢の中なのにうたた寝から覚め、しばらく鳴海をみて考え込んでいるところに、研修医が声を掛けに来た。
「アメリカ精鋭の調理じゃなくって、自分たちで調理したいね。密閉されてる食材がもらえれば、だけれど」
「手に入れてきた」
「やるじゃん」
「おう。あとホットプレート」
「上出来! ありがとう。信じてここから出ます」
鳴海の頬を撫でて起こした。二人で日本精鋭の団欒室へ出て、私は服を一枚脱いで髪を縛って手を洗った。
「任せてもらってもいいでしょうか、そこそこ料理経験はある」
みんなおぼっちゃまで自炊経験も少ないらしく、誰も文句は言わなかった。豚の塊肉に塩を多目にふって、なぜかそこにあった(夢だからだろう)タイムも一緒に擦りこんでラップした。パプリカとズッキーニと玉ねぎは適当に切って、一部をマリネにし、他はバーベキュー形式で焼いて食べてもらうことにする。卵とトマトと何故か(夢だから)ある長ネギで中華風スープ。
本当は三時間おきたい塩豚が、すぐに「ちょうどいい!」「おいしい!」加減になってた。ドリームマジック。(ちなみに全部昨日の夕飯だ)
「アメリカ隊さ、結構、やばいらしいよ」
「死んでるの?」
「うん、何人も。さっき首相に聞いた話では、亡くなったのは四十八人、罹患者は約二百人」
「悲惨!」
「症状は?」
「発熱だけ。末期に吐血。だから最初に気づかないまま感染が広がった」
「発熱だけってことはないだろう。他にも何か起きてるはずだ」
パクパク元気に肉と野菜を消化しながら、まだ顔にあどけなさの残る彼らが案じているのを見ると、母親のような気分になる。たくさん食べなさい? たくさん食べてたくさん遊んで、いい子になるのよ?
私は追加の豚肉を切りながら、食後のコーヒーゼリーを用意した。(これも昨夜のデザート……)
そのとき、ふっと思った。母親。兵士の母親が、いた。
「あの兵士の母親は、生きてる?」
私の小さな呟きに、サッと立ち上がっていつのまにか出来上がっていた機械エリアに行ったのは、物静かな最年少の理工学部生だった。彼はヘッドフォンを装着し、モニタを見ながらしばらく黙って何か操作をしたあと、「生きてます。元気です」と答えた。自己紹介のあと、初めて聞く彼の声は澄みきっていて真っ直ぐだった。
「あの母親が犯人だと思う」
「は?」
「彼女から抗体が採れるかも」
「根拠は?」
箸を置いて上品に口をぬぐった研修医が問うた。
「ない」
私は正直に答えた。
「ただ、私が彼女の立場なら、アメリカを、国家を、大統領を、恨む。自分の、優秀でかわいい息子を奪われて。あなた達のお母様なら、どう思うだろう?」
日本人精鋭たちは静かになった。ホットプレートで肉の焼ける音がしていて、鳴海だけが「我関せず」ともぐもぐ口を動かしている。
好きだ。そういうところが。
「あの母親は、『光栄』だといった。『国のために死ぬなら息子の本望だ』と」
「まあ、あの場じゃそういうわな」
「普通、大統領に向かって恨み言は言えない。お金はもらっているんだろうし」
「え、人身売買なの?」
「いや、なんというか」
「鳴海、ちょっと静かに」
情報系の院生と会計士の卵が立ち上がって機械エリアに向かった。どうもアメリカ側の様子を偵察できるようにしてあるらしい。
ばらばらに、しかしやがて全員が機械エリアに移動した。
「一理ある」
「確定じゃないけどな」
「あの母親が一人でいる隙に、こっちに拉致して調べよう」
「道具も奪ってきたい」
「そうだね」
「どのルートから行くのがいい?」
彼らが具体的に作戦を練り始めると、俺にはもうついていけなかった。鳴海は言わずもがなだ。だけど空いた器を流しへと運んでいた。全部運び終えると任務達成とばかりにのんびり顔でソファにくつろいでいる。
「あんた余裕だね。死ぬかもしれないのに」
声を掛けると鳴海は笑った。
「平気だよ。そんな気がする」
わたしは何もできない自分を許した。そして今、唯一できる皿洗いを遂行した。
直感は当たっていて、備蓄兵士の母親がウイルスを持ち込んだことがわかった。問いただすと、涙し、わめく母親を、弁護士の卵がやさしく慰めていた。
「一件落着だね!」
「馬鹿じゃないの?」
ワクチンを接種したあと、左腕の除菌脱脂綿を押さえながら、鳴海はのほほんとしていた。
「アメリカが日本を攻めようとしてるんだよ。日本文化は廃れる可能性が高いし、あんたの家族も、無事にいられるかどうかわからない。命があっても、ライフラインが絶える恐怖は多分なかなかだよ」
「しんどいのかなあ?」
幸せに生きてきたお嬢ちゃんだ。水や電気やガスが供給されない経験を、彼女はしたことがない。もちろん僕も。ここにいる他のメンバーもそうだろう。寒さや暑さや飢えや喉の渇きだって、知らない。
「ワクチンって、アメリカ軍側も用意できるの?」
「できる」
研修医は疲れた顔で答えた。
「日本を滅ぼそうとしてる奴らにワクチンを打つ?」
「人間だ。いま苦しんでる。モニターを見ろよ」
「でもそしたら奴らは元気になって、日本を攻撃するんだよ? 見殺しにするほうが日本は助かる」
「できないよ。見殺しなんて」
「冷静になれ。あの二百人を助けたら、一億人が生を失う」
「違うだろ。アメリカの計画では人は死なないと言っていた」
「『文化的な生活』は失われる。恐らく。」
僕も判断がつきかねた。そして、この段階で民主制にならず、討論を重ねる彼らは賢いと感じた。全員の納得が必要な局面だと思う。
自分のために丁寧に淹れたコーヒーは美味しかった。余りを皆にもゼリーと一緒に配ると、会話の語調が柔らかくなった。美味いものは平和をもたらす。鳴海も輪に入ることができた。
きっと母親にならない私は、今、誰よりも母親だった。彼らの無事と幸運を祈って、ただ見守るしかできない。
「……ごちそうさまでした」
空いたゼリーの器を流しに運んできた男の子が、小さく呟いた。
「いいえ。あなたこそお疲れさま。すごいね、あの機械」
「できることが、これだけなので」
「十分でしょ。立派にやってる。ありがとう」
ぺこりと頭を下げて立ち去った彼を、好ましく思った。もしもわたしがストレートガールなら、彼と子を為すこともできたのだろうか。
「ねえ、眠いよ。もう止めよう?」
「はあ?」
「寝ないと。こんな時間だし」
鳴海が立ち上がって宣言すると、半分がなんともいえない奇妙な顔つきになった。
「……結構、変な人ですね」
「わたしからしたら、みんなのほうがずっと変!」
鳴海の顔は大真面目だ。
「一晩、ゆっくり考えるか」
「その間にも人が死ぬ!」
「早まるな。この一手を間違えれば、俺たちも終わりだ」
交代で風呂に行った。船内には無駄に温泉があって、桧のよい香りに穏やかな心持ちになってしまった。
「今日は疲れたね~」
「うん」
「忙しすぎたよ~」
「うん」
もしも日本が壊れたら、鳴海のこともどうでもよくなる日が来るのだろうか。生きるだけで精一杯だったら。恋なんて余裕が、なければ。
それはそれでアリかもしれない、と自棄になりながら、わがままな鳴海の、意外と毛深い背中を擦ってやった。顔の造形もだし、美しくはない。客観的に見たら私のほうがレベルは高いと思う。それでもどうにもこの肌が愛しくて、これからの彼女の行く末を思うと、少しでも楽に、安らかに、と思ってしまう。
「……生きたい?」
「もちろん! どうして訊くの?」
「生き残ったら地獄かもしれないよ。荒れ果てた日本で、楽しくやっていける?」
お互いに泡だらけのまま、少し、軽く、わたしは鳴海の肩を撫でた。
「成実が一緒でしょ? やっていけるよ!」
抱きしめると、いつも通りにあたたかく腕が撫でられた。いっそ、と思っていたけれど、私は「ほっぺにチュー」もできないまま、彼女を守り抜く覚悟を決めた。
「頼りにしてるよ!」
「他人事じゃないからね!?」
ひとり一人に部屋とベッドがあったけれど、夜、鳴海は私のベッドにやってきた。もう諦めの境地で、手を繋いだまま穏やかに眠った。目が濡れていて気持ち悪い。こんなしんどい夢など見たくなかった。
助けてあげたアメリカ軍の残兵は、まさかと思ったが日本への攻撃を中止せず、しかも当初の作戦と異なる肉弾戦に打って出た。わたしたち日本精鋭は智力を尽くし、東京への直撃を避けるため、人の少ない宮崎平野へ宇宙船を誘導し、戦闘へ突入した。緑の平野はどこまでも続いて原始日本の感がある。地に転がった大きな岩が、宇宙船からのレーザービームに反応し、轟々と音を立てて割れたかと思うと地下から巨大な城が出現した。日本の歴史マニアと城郭研究家と軍事ヲタクとが力をあわせ、熊本城と幻の安土城とを参考に、観光客誘致のために造り上げた堅城だった。ぜひともIMAXで見たい特殊効果のオンパレード。ハリウッド映画さながらの大爆発に、宇宙船バーサス忍者の追跡劇、飛び交う手裏剣と無数のカーボンの矢。アメリカ精鋭が「オウ、ニンジャ……」と諦念のため息を溢したのが印象深かった。やっぱり私も数人にプロポーズされ、「生きて帰れたら、今度はゆっくり食事しない?」と言ってくれた仲間の背中に、どさくさに紛れて悲しい気持ちで銃弾を撃ち込んでいた。そして日本文化は守られ、アメリカの戦闘機も帰っていった。「ハンバーガー、うまかったよ!」と聞こえるはずもないのに叫ぶ者がいた。すべて終わると地上で友人が待っていて、
「大変だったね」
「本当だよ、もう」
「打ち上げしよう! わたし何もしてないけど」
「迎えてくれた。飲みに行こうよ! キャバクラに行ってみたかったんだ、賠償金と口止め料がたくさん入ったの」
と、朱色の夕焼けを背景に消えた。
鳴海は最後は出てこなかった。まあ、そんなもんだろう。とにかく十三時間は寝たはずなのに、まったく眠った感じがせず、汗だくで、疲れ果てていて、洗濯物を取り込んでから、畳む気力もなく、風呂を入れて入った。
湯船の中で、夢で見た鳴海のうなじの毛深さがかなりリアルなのを思い出して笑えた。けれど泣いていた。私たちにはYがなかった。あれば人類を創ることもできたかもしれないのに、どうやってもYがなかった。これがスペイン語の話だったら僕と君とのアンパサンドがYになるのに、AGCTやミトコンドリアはそんな単純なものではない。
鳴海は私を大好きだ。私も鳴海が好き。けれどそこにとても大きな隔たりがあるのを私だけは知っていて、そして生命はどうやっても生まれようはずがなかった。もし、あの宇宙船だけ生き残ったら、鳴海は誰かの妻となり母となろう。男女とはそういう簡単なものだと何となく理解している。どうしてもそれを阻みたかったのだろうな、と、ハリウッド的な大団円の原因を考えた。だって私が一番好きな映画監督は三木聡だ。ハリウッド的な特殊効果とは、無縁。
本当は薬と一緒に飲んじゃいけないのだけど、アルコールを摂った。リモンチェッロにソーダを入れて、哀しいかな思い出すのはミラノ。シチリアは未踏である。暗い部屋でテレビをつけて、録画してある日本の歴史番組を再生した。城郭研究家のネクタイが夢の中と同じお城の柄で、そんなところに妙な記憶力を発揮せんでもいいがあ、と宮崎弁で笑った。
酔っぱらいつつ歌いつつ、適当にクレープサラダを作って食べた。淡白質は作り置きの棒々鶏に、オリーブオイルとバジルで「憧れのシチリア」風。ふかふかのラグの上でストレッチをしつつ、愛を失いつつある布団のことを思いだし、未練を断ち切ってシーツを剥いだ。簡単だ。こんなにも。柔軟剤を多めにいれて、数時間後にはまた復活しているなんともやさしい愛だ。
恋人なんかいらない。わたしにはあのお布団があればいい。誰よりもやわらかくて誰よりもあたたかくて、誰よりもいい匂いがする。そして誰よりわたしを受け止めてくれる。柔軟に。とても柔軟に。まるでモノのように。
シーツを干して浴室乾燥機のスイッチを入れたら、ホットミルクが飲みたくなった。マグカップに牛乳を入れて電子レンジにかけながら、鳴海がよく言うところの「手持ち豚さん」となり、ぼんやりとティッシュケースを眺めていた。鳴海にもらった変なお土産。この部屋にはまったく似つかわしくない、怖い目の邪悪なシリキ・ウトゥンドゥ。ディズニーランドもよく一緒に行った。何故か座り込んで一瞬泣いてしまったが、レンジの「チン!」で立ち上がった。そしてよろけた。ああ、あなたはとても優しくてね。頑丈なキッチンの縁に脳内で礼を言ってマグカップを取り出す。ホットミルクにアマレットを垂らすと、立ち上った甘い香りに乙女らしくテンションがあがった。
酔っぱらったときの習慣で、携帯電話で出会い系サイトの掲示板を眺める。世界は広いな、と思う。とんでもない美人もみすぼらしい宿命を背負っていて不幸そうな目をしていたり、とんでもないブスが楽しそうにやっていたり。とんでもない人がたくさんいる。それなりに皆なにかを探して誰かを待って、どこかで生き続けている。もしもわたしが「ノーマル」だったら知らなかった世界の一端。
めずらしく電話が掛かってきて、めずらしく誰かと話したい気分だったので、奇跡的に出た。
『あ! あんた大丈夫?』
「ちょうど大丈夫じゃなかった。大冒険したのよ、聞いて」
『いいけど、あんたんとこの近くのファミレスにいるのよ。みっちゃん達とまったりしてんの、あんたも来なさい?』
「うーん、お酒はいってるけど」
『あれ、いいの?』
「飲まずにいられなかったの。待ってて、行くわ! 着替えて今から行く!」
しばらくぶりに外界へ出たら冬のオリオンが綺麗に冴えていた。あのひとつがもう既にないなんて、爆発していて存在しなくて、昔の光を見ているなんて、ロマンチックね。と、ギャルゲーの女の子みたいなことを純に思う。
女の子かあ。女の子だなあ。何も疑問を抱かずブラジャーを着けられるあたり、本当に女の子だ。ダーウィン、あなたはこれについてどう考える?
ファミレスに着くと友人三人が手招いてくれた。ドリンクバーとあんみつを注文し、夢の話をまくしたてると、
「あんた大丈夫? 病院いきな?」
「行ってる」
「もっと大きなところに、よ」
と真面目に心配された。
「ていうかどうなの? 学校いけてる?」
「行けてる。こないだは行けなかったけど」
「今日が何月何日かわかる?」
わからなかった。
「でも私はひとつ知ってるわ!」
メロンソーダを一気に飲み干して言った。
「自分を愛することができる人だけが愛されるのよ!」
決めてやったが一笑に付された。
「ちょっと、それ、いつもアタシが言ってるやつ~。真似しないで」
「真似じゃないわ、落とし込んだの。もう完全に自分のものになったわ、ペルフェクトリ!」
「あんた、今日テンション高め~」
みっちゃんの新しい彼氏の話を聞きながら「ずるいずるい!」と暴れていたらば「あんたも努力しなさい、昔の女は忘れなさい」と至極真っ当な助言を賜った。しかし問題は鳴海が決して「昔」でないことなのだ。でも今日はホヤホヤみっちゃんのターンなので私はわりと大人しくしていた。
家まで送ってくれようとする屈強な男達と別れて、一人でふらふら遠回りをし、帰った。冷静になれば彼らの家から決して近いわけじゃないあのファミレスに来てくれたのは、音信不通ぎみになってる私を心配してくれたのだろう。夜の海辺のベンチに座り、今日までの非礼の詫びと今日のお礼のメールを入れた。風は少し生ぬるくって、もうすぐ冬も終わりそうな気配だ。鳴海の花粉症がかわいそう。
近くのコンビニであったかい焙じ茶を買って、飲みながら帰った。途中すれちがったサラリーマンが、穏やかな声で電話をしていた。恋人なんだろう。いいな、わたしもどこかの誰かみたいに、ハニーと甘い声でのくだらない電話の終わり、「テ・キエロ、チャオチャオ」してみたい。
わたしには、布団だけが居場所だ。早くもぐりこみたい、そのあたたかな湿度でやさしく抱いて。しかし帰るとそこは脱け殻だった。彼女が消えてしまった寂しい寝室でしばし呆然としたあと、思い出して浴室へ向かった。数時間ぶりの邂逅で愛はまた燃え盛る。手際よくシーツに布団をセットして、シャワーを浴びて、くるまった。窓を、風が強く叩いていた。この感じ、もうすぐ、冬が終わるのかもしれない。
そのあとはロシアに行った。世界一の高さと速度のジェットコースターができたらしくて、かつての友人たちと遊びに行っていた。懐かしい顔ぶれだった。
ジェットコースターはものすごいスピードで、眺めていて恐ろしくなるほどだ。人間が堪えられるレベルだろうか? 明らかに常軌を逸脱している。怯えた私は一人、行列を離れた。いつも気まぐれに人の輪を抜ける、少なくともそう思われている僕は、大して気にされなかった。レールを眺める最良位置で人類の愚かで馬鹿げた挑戦と、しかし間違いなく汗水たらしてこれを作った労働者たちを思って不思議な敬意を抱く。近くに、小さな声でイヤホンマイクに向かって呟いている男性がいた。残念ながらロシア語はわからなかった。夢の中でくらい、わかってもいいのに! ただ、言葉がわからないぶん、彼の瞳が異様に爛々と楽しそうに輝いているのが目立って、それは非常に不気味だった。次第に熱のこもっていく口ぶりに不穏なものを感じはじめたそのとき、異常な速さで人間をありえないような高さへ猛スピードで運搬しているその箱から、橙色の炎が噴射し、大きな音を立ててレールを外れて天へと向かっていった。
怪しい男性は興奮していた。東京の朝の山手線のごとく過密ダイヤのジェットコースターは停止制御も難しかったらしい。次から次へと筐体が火を噴き空へ向かっていく。そして、ヒトだったものがぱらぱらと落ちてくる。足元には、一パック二百八十円の「もうかさめ」の柔らかいお肉みたいなものがちらちら散らばっていて、それが元ヒトだとわかっているのに、私は恐怖するでもなく、次々と打ち上がるジェットコースターを、取り憑かれたように見つめていた。
素早いロシア警察は、すぐに怪しい男を拘束しようとした。が、抵抗したので男は射殺された。ヒトはもろいな、と、無事な我が身を不思議がりながら空を見上げる。ラブリーに真っ青だった空には、先を通さぬ煙が立ち込め、夜がだんだん近づいてくる。濃い紫の闇に打ち上がるオレンジ色の炎は美しかった。人々は恐怖し慌てながら、勤勉で頑丈なシートベルトは決して拘束を緩めず、阿鼻叫喚ごと打ち上がる。かつての友人たちを悼む気持ちが皆無な自分を非情に思った。興奮がそれに打ち勝っていた。思い起こしてみれば、彼らは私の「特殊な」性を打ち明けたあと疎遠になった人たちだ、現在の友人ではない。仕方なかろう、と己を慰め、打ち上がる人を見ていた。
やがて濃い紫の闇が藍色へと移ろっていく。本当の夜に近づいている。冷えてきて、吹きすさぶ風が体を削り取るように抉った。しかし心は燃えていた。氷期が訪れたような寒さで、ヒトの肉片が氷になった。彼らは、その肉片は、いったんは宇宙に行けたのかもしれない! おお、偉大な人類の欠片よ。大気圏への突入の摩擦か、白く淡く発光して、バイオレットとスカイブルーの輝きになり、氷の粒が闇を彩って、わたしは地に足をつけながらそのとき宇宙にいた。降り注いでくる光の氷に我が肉体は削られていく。痛みはないが、赤い血液が垂れてくる感触が嫌だった。必死で目を美しき空へと固定した。藍色、濃紺、濃紫、ホワイト、コローみたいな銀灰色に、鮮やかに明度の高いバイオレットとスカイブルー。鮮血は不要な色だ。
濃い闇に飛び散る鮮やかな色彩は美しくて脳裏に焼きついていた。いい夢だった、と、とろけそうにいい気分になりながらも、心臓のバクバクがおさまらない。息を吸う。たくさん。息を吐く。たくさん。だめだ、供給が間に合わなくて何度も繰り返す。瞼の裏の星は、いつも通りの小さく密集している白と赤と青の点々に戻っており、それも悪くはないのだけれど、ロシアのあの氷の塊の、いや元ヒトの塊の、淡く、けれど強く輝く寒色がきらめく宇宙の懐かしい記憶でそれを上塗りした。ああ。視界がふらつく。目を閉じているのに笑止千万。いつも反時計まわりに回転するのはどういうことなのだろう? 苦しい。ああ、K/Pg境界のティラノサウルス達もこんな苦しさを味わったろうか。我は陸の覇者となりしが闇に滅せり。ふふふふ、俺は覇者になどなっていなかった。彼らと比べたら怒られる。いや? 種として地球に君臨しただけで、中には愚鈍で親が狩ってきた食糧に頼り生きていた脛かじりもいたかもしれぬ。それでも恐竜として生まれたからには愚鈍な彼も覇者の一部だ。種というものの不思議よ。俺もヒトだ、現代では地球の覇者といっていいだろう。では覇者だ。そして滅びようとしている。本当に呼吸が苦しい。恐竜たちも辛かったろう。吸えども吸えども酸素が足りず、頭の裏のほうがじんじんしてきた。確実に死が迫っているのがわかる。体は動いていないはずなのに、反時計まわりの遠心力が凄まじくて、頭の左上を中心にぐるぐると回転を続け爪先が冷たい。いよいよ終わりだ、と、最後の力か指先がキュッと縮まって、そのとき体を包む布を見つけた。愛だ。俺は愛を見つけた。鼻と口に強く押し当て、塞いで、呼吸を通常のペースに戻した。まったく慣れたもんだ。やるべきことは体が覚えてくれている。愛の息苦しさに辟易しつつも救われて、やがて生を取り戻した。そういえば、こういうときの目眩が反時計回りなのは、時間の遡行と関係あるか? だから恐竜を思ったのか? 目眩が時計回りだったら未来について考えられるのか?
体が干からびている。枕元に置いていたはずの水と薬が底をついていた。過去の自分をなじったところでどうにもならぬ。もう一度、たっぷり空気を吸い込んで気合いをいれて、愛から這い出る。右足に力をいれて立ち上がる。できた! 左足を前方へ。できた! さながら陸地にあがる最初の魚だ。新地に進出した喜びなどない、「不思議なことが起こった」感覚なのだよ。研究者たちに教えてあげたい。はて心理学者か生物学者か。たとえば肺魚の思考を考えるのは誰だ?
転んだ。痛かった。ふかふかのラグの段差につまづいたのだ。なんてこと。倒れ臥したまま動かなかった。鼻というのはよくできていて、顔が床の布に突っ込まれていても呼吸するスペースがある。ヒトの体は非情に巧くできてる。泣いた。死にたいのに死ねない。呼吸なんかできなければいいのに体はこんなにも丈夫で生に対して貪欲だ。精神的にも、せめて体の半分でいい、丈夫に作ってくれればよかったのに。キリスト教徒はこういうときに何を呪うのだろう。神が人を創ったのなら、私は神を恨むのだ。呪う。創るなら完璧に創ってやれ。欠陥だらけのこんな人間を何ゆえ世界に落とした。吾は生まれて来とうはなかった。楽しいことはもちろんあった。うれしいことも。が、総合して明らかに負なのだ。どうして生まれたのだ私は。生まれたくはなかった。
嗚咽で咳き込んで、今度こそ死ねればいいと思ったが、体は条件プログラムされたように正確に身を起こした。水を飲んで涙を拭いていた。if文の入る場所がおかしくないか? その分岐はもっと手前におくべきだ、こんなに苦しくなってからではなくて。誰だ、設計したのは。……神か?
あたたかいお茶が飲みたくて湯を沸かした。いろんな茶を納めている袋に手を突っ込んで適当に取り出したら「ビューティフルスキン」のハーブティーだったから声を出して笑った。わあ、声が、出せた! しかし、なーにが「ビューティフルスキン」だ、まずは涙で汚れた顔を洗えよ、毎日何かできちんと笑え、そうして太陽を浴びろ。話はそれからじゃないのか? まったく、ちゃんちゃらおかしい。「ビューティフルスキン」。
ふかふかの床に座って、ゆっくりとお茶を飲んだ。わたしは自分のすべきことを、きっとしっかりわかっている。顔を洗って、外に出て、太陽を浴びて、笑うんだ。残念ながらわたしは恐竜ではなく、最初の両生類でもない。人に生まれてしまった。そして死ぬにはとても痛い思いをしなきゃいけない。カッターで手首を切ってみても、結構痛いくせに血はそんなに出なくて、そのうえすぐに凝固してしまう。剃刀がいい、と知って、やってみたらば、ものすごくスッパリと切れて、感動したけど血がどばどば出て気分が悪くなってしまった。繊細すぎる自分がかなしい。悲しみと可笑しみは紙一重だ。そして血はやはりすぐに固まり、しばらくしてから切れた皮膚が猛烈に痛くなって、数日苛まれて他の体はぴんぴんしていて、死ぬことさえ上手くできない自分が悲しくてしょうがなかった。
薬も飲んで、美味しいハーブティーで体を中からあたためながら呼吸を落ち着けた。温かいものは体に良いのだ、十八を過ぎて体の衰えを感じ始めた頃から、中国四千年の歴史を信じ始めた。彼の地では、ビールもぬるいらしいし、夏でも温かいものを飲むそうな。先人の知恵に徹底して従うその姿、素敵だと思う。過去の歴史や経験は明日に活かしてこそだ。研究しているだけじゃ駄目だ、学者は。一般人にわかりやすく先人の過ちや知恵を敷衍せよ。テレビでよく見る、あのよく喋る歴史学者はすごい。学問を修める道もいいのだが、僕はあんなに上手く喋れない。突如、得たいの知れぬ不安が襲ってきたので、二歩あるいて布団を連れてき、くるまって座った。
テレビをつけた。丁度ワールドニュースの時間であった。アルジャジーラの美しいロゴと、左から右へ流れていく呪文みたいな文字を眺めた。武器を積んだトラック、爆発と灰色の噴煙、俺より軽そうな痩せた兵士。悲壮の体現みたいな子供。わめき、叫ぶ人々。あそこに生まれていたなら僕も生きることに必死だったのだろうか。いや、そもそも生まれたくなかったのに。しかし私が親と祖父母をとてもしあわせにしたのは事実だ。皮肉なこと。彼らに少しでも何かあったら私は生まれてこないで済んだのに憎き祖先たちには私がよろこびだった。
帰りたい、どこかへ。あそこじゃないどこかへ帰りたい。砂漠のベドウィンになりたい。帰る場所など要らない彼らに。でも砂漠は嫌だなあ。ドバイの砂漠の記憶が甦ってくる。風に舞い上げられ荒れ狂う砂粒。体と服の隙間に入り込んできて、皮膚にジャリジャリと嫌な感触を残す。頭も。頭皮も髪の毛も砂まみれで気持ち悪かった。大地のうねりがそのまま見えて、すごく神秘的な景色なのだけれど。見るのと感じるのは違うのだ。それからあの強烈な駱駝のにおい。たれ目で睫毛がすごく長くて優しそうな駱駝たちの、暴力的な獣のにおい。息ができなかった。それまであんな臭いを知らずに生きていた。思い出したくもないけれど、忘れてはいけない、と思う。
どうして生まれてきたのだろう、とか、親が憎い、とか、死にたいのに死ねない、とか、そういう憤懣や疑問とは、やりあいすぎて、もう締感があった。とにかく今わたしの問題は、立ち上がれぬことだ。本当に立ち上がれないのだ。ラグに倒れ臥して布団にくるまって、そこまではどうにか動けたのに、もうにっちもさっちも行かない。どうしてなんだろう。元気にトンカチ持って舞台の背景のベニヤを組み立てていたのも、バリバリ資料を読んで考えてレポートを書いていたのも、時間があれば映画や美術館や観劇に行っていたのも、しんどくても嫌々でもお金のために必死で働いていたのも、つい最近のことのはずだ。そして、わたしは人がまだ怖くなかった。ううん、怖かったし嫌だったんだけどとっても頑張っていた。飲み会なんかじゃ、無神経な誰かが無神経なことを気づかず言ったとき、サッとフォローするのはわたしだ。そして当然のごとく訊かれてしまう「彼氏いないの? 俺はどうよ」や、妙にわたしに懐いてくる後輩の不気味さや、二人になろうと下手な画策をする先輩の処理。もしかしたらわたしは「ノーマル」だったら対して人嫌いでもなかった?
床の上で動けぬままだと、しようもない考えが巡る。思い出したくないことも。
会いたい、鳴海に会いたい。会ってまたいつものように抱きしめてほしい。しかしそれはもう叶わないのだ。わたしが好きだと言ったあの日から、鳴海は友人としてちょくちょく私を誘うくせして、絶対に体には触れない。前はあんなに親密だったのに、それさえも幻だったみたいに遠くなってしまった。哀しいことだ。とても。
鳴海。私の過去の哀しい情熱。過去にしたい、過去に。別の誰かを恋すればいい? きっと同じ悲劇の繰り返し。だって世の中の何パーセントが私と同じサガを負う? そして、わたしも好みが激しいし、相手になる子も好みは激しそう。もしもわたしが映画のような、普通の、幸せな恋ができるなら、それはほとんど奇跡だと思う。地球が在るような。月が在るような。恐竜を滅ぼした隕石のような。人類が生まれたような。奇跡。しかし、ありえる、奇跡。
諦めるしかないのはわかっている、そして早いとこ誰か見つけるんだ。恋なんてしなくても生きていける。けど、とりあえず鳴海を思い出して泣くのをやめたいから。立て! 立つんだ成実! 成実は立った。と頭で口に出してもメロスのように走りはしない。だって紙じゃないから。肉体だから。しっかりとした筋肉と骨と脂肪と、憂いと諦めと哀しさのつまった肉体だから。立てない。立てないのだ。
涙が出る。ラグが汚れてしまう。そろそろ洗わなくてはいけない。クリーニング屋に持って行ったり、喋ったり、高いお金を払ったり、そういう諸々が煩わしいが故に、これは自分で洗っている。浴槽に浅く湯をためて、洗剤をいれてガシガシ足で踏むのだ。灰色の汚れ水を眺めて「うわあ……」と毎回ドン引いて、足の裏で感じるふかふかした柔らかい感触にうっとりしながら、何度も何度も踏みしめていると、こめかみを汗が伝ってきて、うどんを作っているみたいだな、うどんを食べたいな、食べよう、と爽快で健康な気になりもする。そういうことをそろそろやらなきゃいけない。面倒だ、そんな体力は今、ない……。
体をやさしく包む布団を握りしめる。昔は鳴海がこうしてくれた。鳴海にもこうしてやった。互いの人間も肉体も育てあったのに。半身といってもよかったくらい。それがもう、どこにもいない。鳴海。私の頬の不快な湿り気。正直、乾くのが少しだけ惜しい。本当にいなくなってしまう気がする。泣き止みたいのに、こうして不幸に酔い痴れていると鳴海がそばにいる錯覚をする。ぼんやりと疲弊した脳はますます錯覚を鮮明にして、記憶とまぜてあたたかい感覚を与えてくれる。昔、そんなに泣きはしなかった。泣きそうになると鳴海が手を握ったり腕を絡ませてきたり抱きしめてくれたから。それでも堪えきれずに泣くときは、鳴海がそばにいてくれて、泣き止むと、笑ってからかってくれた。
鳴海はもういない。いるけど、あの頃の鳴海は。彼女だってかわいそうで、親友が親友でなくなってしまった。本人曰く「想像もしなかった」告白に。あたしゃ、その言葉にびっくりだったよ、とうに気付いているのかと思っていたさ。
彼女が未だに私に無邪気に連絡してきては、昔と変わらずのほほんとした鼻声で「会おうよ」と言うのはどうにも解せない。不気味だし気まずいし戸惑うし嬉しいししんどい。未だにわたしも、抱きしめたい。頬や髪に、触れたい。鳴海には幸せでいてほしい。恋だけじゃなく、いろんな経験をして、楽しく豊かな人生を送ってほしい。そう願っているのに、彼女が別の誰かといるのを考えると腹が立ってしょうがなくて、苛々する。悔しくてたまらない。このサガを、鳴海も抱えていればよかった。それなら私たちは二人とも、きっとずっと幸福だった。しかしそれこそ奇跡なんだろう。それはありえないほどの。そもそも鳴海と出会ったことが、いろんな可能性の積み重ねの果ての奇跡だったろうから。
目を閉じてじっとしていると、瞼の裏の宇宙に仄かに天の川が浮かんできた。星々の密集地帯。東京、名古屋、大阪、福岡? 真夜中の飛行機窓の夜景みたい。ニューヨーク、北京、ジャカルタ、香港、クルンテープ・マハーナコーン……ええっとバンコク。やっぱり覚えられないな。ムンバイ、デリー、嘆きの壁のあたりとか。
宇宙だ、この体は。確かに宇宙の一部で、そして宇宙を抱えている。あわせ鏡みたい、やだ、幽霊が出てきちゃう。ともかく、本当にどこまでも果てしない。無限に膨らんでいく。考えたら恐ろしくてたまらなくなる、背骨が冷たくなる。でもわくわくもする。そんな体がここにあるのに、私はひたすらそれを横たえている。
――そのとき、成実の腹が鳴った。意識は果てしなく広がり続ける宇宙の数十光年遠くにあったが、瞬時に身近な宇宙に戻ってきた。うどんだ。今はうどんだ。ラグは汚れたままなのに。成実はおかしく思いながらも、腹が減っては、と立ち上がった。そして、布団を上げた。
小説ならそれでいいのだろうけど、悲しいかな、この宇宙はそんな生半可なものではなかった。いくら空想に耽っても肉体は肉体で、依然やたらと重くうとましく、解放されたい精神にしつこく纏わりついてくる。これが映画だったら、こんな行き詰ったシーンの次には別の誰かが別のどこかで軽い調子で雑談をするシーンに変わるだろう。これがストレートプレイだったら、舞台のどこかの端から(中央ではない、中央は成実が臥しているのだ、なるべく端のほうがいい)、あまり重要ではない人物がサラッと何気ない調子でやってくる。ミュージカルなら青めの照明、わかりやすく不穏なディミニッシュセブンス、通底音はコントラバスか何かで陰鬱に、いつまでもいつまでも切れ目なく鳴り響かせて、いつか壮大な音楽となり、私はさっきまで立てない立てないと言っていたくせに簡単に立ちあがって、何事か悲劇ぶって朗々と歌い上げる。絵画なら、この醜い人間の、「女の涙」という一部の事実にロマンを見出し、儚く美しく描くことだろう。
芸術ならば絶望のあとには希望がある。現実にはそうでもない。いつか、いつの日にかあるのかもしれないけれど、とてもとてもとてもソウ・ファー。ソウ・ファンになればいいのに。ソーウ、ファーン! とっても楽しかったわ、また今度誘ってね。片桐彩子はそう言ったのに、次のデートはこちらの容姿パラメータが四十以下になってしまって、会うなり無言で帰ってしまった。なに、気にすることはない。あれはときめきをくれるゲームの話。きちんとパラメータをあげて、きちんと電話を掛けてデートに誘って、きちんとデートに行けば、ハッピーエンドが待っている。また鏡の前で自分を磨けば片桐彩子は一緒にニコニコ美術館にいってくれる、そういうものだ。
なぜ、俺はこんなところにいるのだろう? 人間じゃなくて別の生き物に生まれればよかった。薔薇とか百合とか夾竹桃とか、ハリガネムシとかナマケモノとか、クラゲ、色鮮やかなウミウシ、そうだ、タルマワシをやってみたい! クラゲのような透明でやわらかく神秘的な殻を持つサルパを狙い、飛びついて、内臓を喰らい尽くして、その美しい殻を乗っ取ってその中で生活をし、剰え子育てさえその中で行う。やわらかく美しい、透明なシェルター。なんと甘美な響き。わたしもそれが欲しい。もしかしてオゾンがそう? やわらかいの? 美しいの? 透明は正しいかもしれない、なんとなく。小さな人間の営みで放出されるフロンごときでダメージを受けるくらいに脆いものなら、儚さという美しさは抱えているような気がする。やわらかさは……触れられないから……。
わたしの美しいシェルター候補をひとつ見つけたところで、体が寝返りを打った。同じ姿勢でいると体の重みが一部だけに掛かってやがて居心地が悪くなるので、血流の問題もあるし、自然に寝返るようにできているのだ。宇宙の神秘だ。自然にネガエル。願える……。
運命の転換を願って立ち上がった。そろそろ飽きた。広島カープのマエケンよろしく肩をぐるぐるまわし、足も伸ばして冷めた茶を飲んだ。健康な思考を思い出せた。洗面所で顔を洗い、気に入りの服に着替えて鏡の前で容姿を磨いた。具体的には、化粧を施した。
しばらくぶりだったので手が忘れており、妙に時間が掛かったが、それでも十五分後には、自分で言うのも憚られますけれども、控えめに言って「美女」がいた。カフカも仰天の大変身である。メタモルフォーゼ。モルフォはギリシャ語で「美しい」。ディズニーランドのジャングルクルーズで、ひたすら喋り続けるという苦行を強いられた愉快な(と客に思わせねばならない)船長が言っていた。
――見ーてください、この、大きな、蝶っ! モルフォ蝶ですうううーっ! ちなみに「モルフォ」は、ギリシャ語で、「美しい」という意味なんだそうです。ちなみにちなみに、私のあだ名はぁ……モルフォー! 皆さんもそう呼んでくださっていいんですよぉ、モルフォ―!
まったく面白くない。けれど優しい私は微笑を浮かべて、ときには歯も見えるほどの笑顔をつくって、美しいとは決して言えない彼を応援してあげた。彼のような人がそのうちU-turnや海砂利水魚のような愉快な人に変身し、めぐりめぐって自分が笑う日が来るかもしれない、と。情けは人の為ならず。私は誰かのために「善いこと」をするような人間ではない。
スニーカーはやめて革靴を履いた。せっかくだから前々から行きたいと思っていたオーセンティックバーに行ってみようと思っていた。背筋を伸ばして家の扉を開ける。鍵を閉めて外へ踏み出す。
初めての店のどきどきは感じながらも、道のりはよく知っており、何事もなく店についた。ちょっと足元がふらつくのは、たぶん革靴のせいではなくて、安定剤が効きすぎているからなような気がする。ちゃんと四時間、空けたっけ? 飲みすぎてしまったのかもしれない。あるいは、ただのそういう病かもしれない。
「いらっしゃいませえ」
「二階のバー、もう開いてますか?」
「はい。バーですよね。そちらの階段でお上がりください」
その店は三階がレストラン、一階がカフェになっていて、ウイーンコーヒーとプリン・ア・ラモードを食べに何度か行っていた。ぷりん! あら、どうも。あんた、歯向かう気? ハム買う気?
「いらっしゃいませ……」
二階は薄暗くて趣きがあった。分厚い板のカウンター。ウイスキー色の照明。古めかしい臙脂色の絨毯。一階のレトロさキッチュさと別に、大人の香りがした。先客が一人。白髪のおじいちゃま。カウンターの中のバーテンダーさんと会話が弾んでいる。
見極めが大事。会話が途切れ、バーテンダーさんがこちらを向いて目が合ってから、声を発する。それがマナーだ。……はい、いま!
「コンソメの、ブルショット頂きたいんですけど、できますか?」
「ブルショットですね。確認して参ります。少々お待ちください」
美女になった成実は優雅にコートを脱いで、カウンターの端のスツールにするりと滑らかに腰を掛けた。コンソメを使うカクテルは、新宿二丁目のショットバーでは出してくれない。初めてのブルショットがレストラン併設のオーセンティックバーとは、なかなかに乙なもので満足である。まだ飲んでいないのに酩酊している。
「ブルショット、お作りできます。ホットとアイスがございますが……」
日本語の美しい語尾の濁し。煮干しはそんなに美しくない。
「あたたかいもの、お願いします」
「かしこまりました」
白いスーツに蝶ネクタイのバーテンダーは一瞬、奥へ引っ込み、また戻ってきておじいちゃまとゆったりしたテンポの会話を再開した。
そうか、カウンターに座ると喋らなきゃいけないのか……。おいしいお酒を飲みたいだけなんだ、頼むから話しかけないでくれたまえよ……。
どうしてこんなところまで来て、こんなに緊張しなきゃいけないんだろう。喋りたくない、喋りたくない、宅配便だって居留守を使ってマンションのロッカーにいれてもらう、どんなに荷物が重くても、運ぶ労力は喋る労力の数倍は楽だ。駱駝。駱駝のまつげは長いです。マッチ棒が二十本乗ります。駱駝ずアイラッシュイズあームイ・ラルゴ。プエドスぷっとベインテ燐寸おん。ひどいな、これは何語なんだろう、地球語か、混ざると呪文のように聞こえる。祝詞と呪文はちょっと似ている。当然ですもの、怨念こめて口でもごもごもごもごこの世に出づる想いの塊。こわいこわいこわいこわい人が怖いこわいこわい小岩井でまた人身事故です、なんてったって特別特急が猛スピードで通過していく、実はなかなか切れない人間の肉を切断してもらうのにはこれほど都合のよいものはない、空港行きでは実際ない、その実あの世行きの列車なんです、けれど朝の時間帯だけはやめてあげるのがマナーやわ、隊列くんで電車まっとる日本兵たちが不憫やないの。
「お待たせいたしました。ブルショットでございます。スープスタイルで。」
目の前に丁寧に出されたは白と青なるスープの器。まあるい丸いスプーンと。琥珀色の液体が透き通って、数千年前の樹液のようで、まあ見たことはないんですけど、本物の琥珀みたいにキラキラしてる。宝石みたいや。かわいらしクルトンも浮いとる。いつか己の身もこんなふうに、小さく小さく四角く四角く切り刻んで、脳漿やら髄液やらと血液をうまいことシェイクだかステアだかしたらば、こんなふうに、こんなふうに、宝石みたいな綺麗な液体とかわいらし何かになるんとちゃうの。ちゃうの? あれ、チャウチャウちゃう? ちゃうちゃう、チャウチャウちゃう。チャウチャウちゃうん? ちゃうちゃう、チャウチャウちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうちゃうちゃう……。
「ソルトとペッパー、お好みで。」
優雅に頷く。成実は美女。鳴海は美女じゃあないんだけどね、愛嬌はある。ウォッカとブイヨンがおいしい。半分ほどをいただいたところで、胡椒に上品に手を伸ばして、少しだけ挽いた。塩には手を付けない、それがおそらく三階にいる料理人への敬意の表し方かと思って。(そして本当に塩など不要だった。)
食事メニューに優雅に手を伸ばす。壁の絵に優雅に視線を移す。バーテンダーには目を向けちゃいけない、目が合えば話しかけられるかもしれぬから。なるほど、ここは日本の都会のようで、アフリカのサバンナだったか。獰猛なヤツが狙っているぞ、気をつけろ! 南アフリカは何語を使うんだろうか、ケニアはよく旅行パンフレットに載っていたなあ、はるばるはるばるケニアまで行って、滝はわかるが、なぜ紫の花々を見なきゃいけない? 日本の花を見尽くしてからならわかるけれども、日本は実はかなり広いぞ、南北にも東西にも広がって、山あり海あり、宇宙あり。
「ソーセージと、バイオレットフィズを。」
「かしこまりました」
うっわあ、あほらし。紫の花を思い浮かべて、お前、とっさに紫のものを飲みたくなったな? そうだろう! くっだらない、実にくだらない、その発想。しかも、しかも、ただのフィズ! 気の利いたものを頼めばいいのに、せっかくのバーなんだから! 家じゃないんだから! え? いえ? いいえ、いえいえ、家々が嫌々をしてイエーイエーと踊りだします。嫌々しながらイエーをやるのは、嫌よ嫌よも好きのうち精神でございますれば、皆々様におかれましては、すーぅっみっかっらっ、すぅーっみっまっで……ずずずいーっっとぉおおお……おぉねぇがぁいぃ、ぁたぁてぇまぁつぅりぃーっまぁーっすぅーっるぅうー! ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち……。
「お先に、お食事のご用意を」
目の前に、白いナフキンとナイフとフォーク。よい前座。こうやって場が整えられていく。舞台もそう、前奏もそう、禅僧はどうだろう、まったく知らない。
お酒もソーセージも大層美味しかった。気分よく意識が遠のいていって、都合のよいことだけ思い出せる。明日はゴミの日? 忘れた忘れた。エアコンの掃除の手配? 忘れた忘れた。学校? 就職? 知るもんか! でも舌を心地よく刺激する、色気とほんの少しのバイオレンスを含んだバイオレットの快感は、しっかりとわかる。ソーセージの皮のプチっと弾ける愉快な感覚と、口の中を満たす肉汁。マスタードの爽やかさと粒つぶの刺激。世界を都合よく変える魔法のご馳走。而してアルコールの酔いと、モルヒネや安定剤はどう異なるのだろう? どれも体に悪くて気持ちよくなる。モルヒネは、悪い人たちが使うイメージだったけど、今時、治療にも使われているとか。アブサンだって養命酒だってイエガーマイスターだって、薬だ。
ずっとこのままふんわり酔っぱらっていたい。この美味しいお酒とやたら美味しいソーセージと、そして他に人がいなければ完璧なのに。バーテンダーさんの視線を避けるのが、しんどい。たぶん向こうもプロだし私が喋りたくない客だというのは察していると思うけれども、いつ、なんどき、急に話しかけてこないとも限らない。昨日までそんな気配などなかった相手と、一緒にテキーラパーティーやって、ズンズンズンズン低温響くミラーボールのきらめきの中、急にロマンスを感じることはある。そうやって、急に話しかけてこないとも限らない。一秒先は闇なのだ。
本当の闇は知らない。いつも目に見える闇にはちかちかちかちか白いつぶつぶした点点があって、それらは時折全体的にゆるやかに移動して、ときどき爆発を見せる。もしかして宇宙も自転している? とってもとっても信じられない速度になるわね、それに耐えている地球の多種多様な生物のタフネスに驚かされる。そしてそれはなんだか、美しい命だと思う。わたしには到底、得られそうにない、生命の強さ。
呼吸するだけで精一杯だ。まあ、酒なんて飲んじゃってるけど、生きてることがあまりにもしんどくて酒飲むだけだ。逃避行である。小岩で電車にぶちぶち引き裂かれるのを選ぶより、通勤に行列するサラリーマンの皆様方にも、親や祖父母のためにも、こうして生きているとも死んでいるともわからぬ日々を送っているほうがよい。それはもう、明らかすぎる現実だ。人々の幸福のために、しんどいしんどい現実を生きていくのだ、きっと私は。なんという自己犠牲の精神! ではなく、おそらく、情けを己の為にかけている。それならいいか。それなら。なんとなく。なんとなく。わたしを苦しめる世界のために何かをするなど許せない。自分のためになら、許せる。同じ行為でも。
バーテンダーと目が合った。先客はいなくなっていた。
「ティフィンで何かロングのものを。ソーダかトニックか……炭酸が入っているもので……」
「でしたら、ダージリンクーラーは如何でしょう? ブラックラズベリーのリキュールと合わせて、レモンジュースとジンジャーエールで満たします」
「では、それを」
「かしこまりました」
もしかしたら私は宇宙人なのではないか? みんなが普通に生きてるこの世の中が、なぜかこんなにも生きにくい。この環境に適応できていないのだ。滅びゆく種だ。土星なのかもしれない、海王星なのかもしれない。太陽と共には生まれなかった。どこか別の巨星が誕生したときに、その塵芥から生まれ出で、ぐるぐるぐるぐる回転してたらいつのまにか太陽の軌道にいた。そんなふうに、私も本当は、別のどこかで生まれて、ふいに地球にやってきたのかもしれない。昆虫だって宇宙からきたとかいうし? ヒトの中にも宇宙からきた個体があったって、おかしくはないんだと思う。
目の前に、使われたリキュールが並べられた。焦げ茶と橙の紅茶ボトルも、シルバーの透ける黒紫の、地球型のクールなブラックラズベリーボトルも、一括りに「リキュール」となる。この不思議。わたしもうっかり括られてしまったのだなあ、地球人に。だからこんなに生きにくいのだ、地球に適応できていない。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
お会計をして店の外に出る。家まで歩くのが面倒くさい。夢ならこのまま、次の瞬間、ビューンと家に着いている気がする。ただ、今夜は都会も満点の星空で、月は紫色に発光していた。よい景色だと思う。人々は気にするでもなく、それぞれ、逆立ち歩きや後ろ歩きや、ブリッジをしながら道を行き交っている。いつもはグレーのサラリーマンも、真っ青、ドピンク、真橙。大きな水玉、太いストライプ。ジャングルに来たような色彩。わくわくしてきた、とても楽しい色使い。日本のようで日本ではない、ここはいうなれば世界。地球。
わたしはひねくれものなので、そんな中でも真っすぐ「普通に」前向きに歩いてみた。なかなかクールだと思う。あえてのしっかり前向き前歩き。まるでとても前向きな人間のよう。とても後ろ向きなのにね、わたくし、ハイハイですら最初はバックしたらしいの。三輪車も。自転車は前向きだったのを覚えているわ。
街路樹は不揃いに自由に枝葉を伸ばし、のびのびと彼らを生きていた。真っすぐではない幹。くねくねぐねぐね、あっちを向いたりこっちを向いたり。子供たちがハンモックを作って紫の月を見上げている。もう寝なさい、とベランダの母親に叱られている。ハンモックから太めの枝へ、そしてベランダへ、驚異的な跳躍力で子供らは家に帰った。あのハンモックに乗りたい。もう少し夜が更けたなら、彼らに気づかれぬようにこっそり登って町を眺めよう。そして、おいしくない宇宙食のアイスをあの秘密基地に置いておいてあげよう。貸借料として。
悲しい気分だと果てしなく長い道のりとなる坂道には、エスカレーターのような、動く歩道のような、ベルトコンベアのようなものが設置されていた。これ幸い、と、飛び乗って、ラクラクと上まで行った。家はもうすぐだ。でも、この不思議な夜が少しだけもったいないから、少し歩こう。いつもほとんど通ることのない近所の道を、ゆっくりぐるり、歩いてみた。
愛しい布団がそこにあるのに、不思議なほど、恋しくなかった。愛が潰えたわけではなくて、依然として炭火のようにじっと燃え続けている愛がある。ただ今夜だけ、少し一人でいたかった。
急に掃除を始めた。コンロの汚れを落として、山と積まれていた服をきちんと畳んで収納し、電子レンジの中を拭き、トイレと洗面所もぴかぴかに磨いた。
今夜、わたしは生きていた。手を動かしたり汗をかいたり、効率のよい手順を考えたり、磨く運動で腕が疲れてくることだって、不思議なくらい満喫していた。これが正しく生きるということな気がする。ようやく、地球人の仲間入りをできたような気がする。眠って、次の日、目が覚めたなら、どんな世界かわからないけれど。でも今、体を動かして、足の裏でラグのふわふわ長く柔らかい毛を感じたり、洗剤のツンとした臭いに辟易したり、排水口のぬるりを嫌がりながらも果敢にビニールの手で掴んだり、いちいちが新しいことに思えた。
朝(昼)、目を開けると、悲しい予感が頭の片隅にうずくまっていた。数か月ぶりにカーテンを開けると、普通色の空に普通色の太陽がふんぞりかえって俺の目を刺し、僕は繊細と脆弱故に、愛すべき布団、己のホームへの撤退を余儀なくされた。目を閉じると、瞼の裏のちかちかは、味気なく瞬いていた。しばらくしてからテレビをつけると、微笑ましいニュースを読み上げるアナウンサーは、普通色のスーツを着ていた。
昨夜に戻りたい。楽しかった世界に。あの日に戻りたい。鳴海に好きだと告げる以前に。しかし時間は前にしか進めないことは、俺も理解している。
愛を頭まで引き上げ、内側にこもった。本当にこれは愛なんだろうか? 鳴海のそれは、愛だった。確かに愛だった、あの日、告げるまでは。困惑と悲しみが顔に浮かんでいた。滅多に見ない顔だった。初めてだったかもしれない。言いたくて、どうしても言わずにはおれなくなって、体がはじけるように、つい、言ってしまった言葉だった。受け容れられるとは思っていなかったし、予期していたことだったのに、視界が涙でぼやけることが解せなくて悔しかった。
鳴海はもういない。いるけど、あの頃の鳴海は。帰る場所をなくした僕は、この布団にしか生きられない。外に出られない。出られるけれども、ウルトラマンの三分タイマーよろしく、制限を感じる。タイマーは三分のときもあれば、八時間もつときもある。薬を摂ると延長することもあるし、あまり効果のないときもある。タイマーが切れてしまえば、わたしは眩暈や吐き気を感じて、それが駅や街中であっても、うずくまったり、転んで、なかなか起き上がれなくなってしまう。都会では非常に迷惑なモノとなる。わかっているから、なおさら辛い。図太く生まれたかった。母のように。鳴海のように。
鳴海が育ててくれた勇気は、あろうことか恋情と結びつき、最終的に俺から鳴海を奪った。自死のほうへと向かっていたらば様子も違っていたろうに。情けなや。人は愛を手に入れると弱く愚かになるものだ。劇場を出るとき七割の確率でそんなことを思うぞ。生きるには、強く生きるには、愛を手放すのがよろしいか? 俺は布団を蹴った。息が苦しくなったが深呼吸をして態勢を整えようとした。上手くいかなかったので手を伸ばして、布団がわりのタオルを鼻と口に当てた。布は今治。やうやう慣れにし布際、少し縮みて、白めきたる景色のところどころの濃ゆき。くだらないことは考えられるくせに、体は動かん。昨夜は非常に楽しく生きていたのに。
ああ、夢を見たい。しかし願って見られるものでもない。酒を飲めば幻覚が見えるか? 酒もモルヒネも同じか? モルフォ、うつくしいモルヒネは僕をメタモルフォーゼさせてくれるか? 酒はひたすら眠くなる時と妙な元気の生まれる時がある。いずれにせよ同じ事なのだろうか、眠りも幻覚も、夢も幻も。まぼろし。まぼろしだったのか? あれは。まぼろし。マボロシの鳥。それは爆笑問題。ああ、彼らはメタモルフォーゼしていない! タイタンの守護があるからよいのか? 他にも無数の星々したがえ、不思議な魅力の環を形成している? 宇宙の包容力よ。わたしもそこに混ぜてほしい! もう宇宙にいる? そうだった、わたしは今、地球にいるのね! 宇宙にいるということなのね! この無限に広がり続ける神秘的で果てしなく、懐の深い宇宙に!
体が自然と寝返りを打って、口元にあてたタオルが落下した。呼吸は正常に続いていた。かつて愛と呼ばれた布団は爪先の向こうで丸まっていた。瞼の奥で、ぷわあん、と、救世主の爆発を見た。星々は鮮やかな色をきらめかせて、無限のあたたかい闇の中、新たな夢を広げていた。