第一章 ~『クラリスの好きな人』~
アークライズが風呂から上がると、使用人の老人が彼の着替えを持ってくる。絹でできた子供服は触れただけで高級品だと分かるほどに柔らかい。
アークライズは着替えを終えると、赤い絨毯の廊下を進む。使用人たちはすれ違うたびに十歳の彼に頭を下げる。
「人から敬われるというのは悪くない気分だな」
「アーク様は礼儀正しい良い子だと、皆さん勘違いしていますからねぇ」
「ははは、まるで俺が悪い子みたいな口振りだな」
「でも私、いまのアーク様の方が好きですよ。十歳にしてはマセているところとか、私のことを内心馬鹿にしていそうな態度とか、尊敬できる主人だなぁと感心しておりますから」
「お前、絶対に俺のこと好きじゃないだろ!?」
「まさか。私は志願してアーク様の専属になったのですよ。私よりあなたのことを慕っている使用人はおりませんとも」
アークライズはクラリスと共に廊下を進む。彼女は子供の歩幅に合わせるように、一歩後ろを付いて歩いた。
(口では何と言っても慕っているのは本当なのかもな)
クラリスは対外的にはきちんと主人を敬っている。少し毒舌なのも、彼女なりのコミュニケーションなのだと認めることにした。
「アーク様、なんだか騒がしいですね」
クラリスが心配そうな表情で、額に汗を浮かべて駆けまわる使用人に視線を送る。アークライズも何が起きたのか気になり、使用人の老人に声を掛けることにした。
「随分と慌てているようだが、何かあったのか?」
「アーク様。実は領地の森で魔物が出たのです」
「ダンジョンの外にいる魔物なら雑魚だな」
魔物は基本的にダンジョンの中に住んでいる。しかし一部の魔物はダンジョン外へと這い出てくる。これはダンジョン内で餌が取れなくなる場合や、より強い魔物に淘汰された場合に起こりうる現象だった。
つまりダンジョン外に出てくる魔物は、ダンジョンという過酷な環境で生きていけない弱者なのだ。森に棲んでいる魔物相手なら、弱小冒険者でも十分討伐可能だ。
「魔物を倒すための冒険者は呼んでいるのか?」
「はい。ブリーガル様が、融資先の冒険者を率いて戦っておられます」
「ブリーガル?」
誰だったかとアークライズが頭を悩ませていると、クラリスが彼の耳元に顔を近づける。
「お兄様の名前まで忘れられたのですか?」
「そういやそんな奴もいたなぁ」
「アーク様、本当に大丈夫ですか? 御屋敷のポチでも兄弟の名前くらい覚えていますよ」
「ただの冗談だ。それともう一つ質問だが、融資先という言葉から察するに、兄のブリーガルは銀行員なのか?」
「はい。もちろん、その通りです」
アークライズの質問にクラリスは銀行員であることがさも当然だと頷く。彼女の反応が気にかかったものの、そんな疑問を吹き飛ばすような大歓声に彼は注意を引かれる。
「ブリーガル様が魔物を討伐されて帰ってこられました!」
アークライズが声のした玄関先へ向かうと、そこには丸々と太った黒髪の男がいた。ドンヨリとした覇気のない瞳が支配人たちに向けられている。背後には槍を手にする屈強な冒険者たちと、討伐した大型の獅子の魔物の姿があった。
「ブリーガル様、おめでとうございます」
「あなたは我が領地の希望です」
「おう。ありがとな」
ブリーガルは素っ気ない態度だが、褒められたことは満更でもないのか、口元には僅かに笑みが浮かんでいる。
「アーク、どうだ、兄の凄さを思い知ったか?」
「ブリーガルが後ろの魔物を倒したのか?」
「馬鹿か。俺の職業は金融魔導士――すなわち銀行員だ。魔物討伐という雑事は下々の仕事だ」
「つまりブリーガルの力ではなく、冒険者たちの力なんだよな?」
「それは違う。部下の成果は上司のものだ。冒険者たちが魔物を討伐できたのは、俺が金を融資したからだ。つまり俺が魔物を討伐したに等しい」
ブリーガルの言葉に部下である冒険者たちも納得しているのか、太い首をウンウンと縦に振っていた。
「なんだか、納得できないな」
「アーク様、私たちが活躍できたのはブリーガル様の力です。なにせ私たちがここまでの冒険団に成長できたのは、ブリーガル様のおかげなのですから」
「そうかぁ~、こいつがいなくても何とかなったんじゃないか?」
「いいえ、それはありません。私たちは冒険者となる信念こそ持ち合わせていましたが、現実的な計画を何も持ち合わせていませんでした。ダンジョン攻略の計画立案や、資金の融資、果ては冒険団の経営戦略まで、ブリーガル様にはお世話になりっぱなしで頭が上がりません」
「ほら見ろ。俺の凄さが理解できたか!?」
「そうだね、すごいねー」
「ぐっ、我が弟ながら失礼な奴だ。いままで猫でも被っていたのか?」
「そんなところだ」
「まぁいい。お前の評価などどうでも良いことだ。それよりも……クラリス、どうだ? こんな馬鹿な弟ではなく、優秀な俺の専属使用人にならないか?」
「…………」
「収入も三倍払う。どうだ? 悩む余地はあるまい」
「はい。悩む余地はありませんね」
「そうだろうとも」
「私はアーク様一筋ですから。お断りします」
「な、なんだと」
ブリーガルは誘いを断られたことに衝撃を受けたのか、口を金魚のようにパクパクと動かす。そして捨て台詞のように悪態を吐くと、アークたちの前から離れていった。
「クラリス、お前……俺のことが好きなのか?」
「好きですよ。当然じゃないですか」
「それは男としてか?」
「十歳の子供が何を言っているんですか。ありえませんよ。それに私、きちんと好きな人がいますから?」
「へぇ~、それはブリーガルではないよな?」
「こんな豚……ゴホン、ブリーガル様は私には勿体ないですから」
「お前、いま豚って言わなかったか?」
「メイドの鏡とまで称されたクラリスお姉さんがそんなこと口にするはずありません」
「だよなー、安心したよ」
「ただ好きな人が別にいるのは本当です……私の片思いなんですけどね……」
「俺も知っている奴か?」
「有名な人ですからね。聞いたことはあると思いますよ……」
「誰なのか聞いてもいいか?」
「いいですよ。ただし他の人には内緒にしてくださいね」
「ああ。約束する」
「【黄金の獅子団】に所属していた大賢者のアークライズ様……それが私の大好きな人です♪」
「そ、そうか……」
アークライズは何とも言えない気持ちになりながら空を見つめた。空はどんよりと曇っていた。