第一章 ~『地方銀行の経営任されました』~
アークライズが窓から差し込む光で目を覚ますと、隣にクラリスの姿はなかった。
「起きられましたか」
クラリスはアークライズの部屋の机を布巾で拭いていた。起き上がった主人に目覚めの紅茶を淹れる。
「紅茶の砂糖は三つですよね?」
「甘いのは苦手なんだ。なしで頼む」
「……随分と趣向が変わりましたね」
「俺も大人に向かって成長しているということだ」
アークライズは紅茶を受け取ると、わずかに口の中に含む。人肌の紅茶が喉を通る感覚が何とも心地よかった。
「アーク様、起きられたのなら準備をしてください」
「今日は何かあるのか?」
「ご当主様がお呼びです」
「当主……俺の父親か」
「うふふ、アーク様、寝ぼけているのですか?」
「そうかもしれないな」
アークライズはクラリスから渡された紺色の服に着替えると、父親のいる居室へと向かう。
(メルシアナ家の当主、ユリウス・メルシアナ。クラウディアの父親か)
アークライズはユリウスに関する情報を思い出す。彼を一言で表現するなら成り上がり者だ。
ユリウスはメルシアナ家の八男として生まれ、自分より上の序列者が七人もいた。さらに母親が奴隷であったために、メルシアナ家を継ぐことは絶望的だと言われていた。
しかしユリウスは前評判を跳ね返す圧倒的な実力で序列競争に勝ち残り、メルシアナ家の当主の座に着いた。成り上がりのユリウス。知らぬ者はいない三大貴族の一人だった。
「こちらがご当主様の居室です」
樫の木で作られた重厚な扉をノックする。入れ、との声がかかり、扉を開けるとそこには白髪の男がいた。顔には皺と刀傷が刻まれている。
「久しぶりだな、アーク。元気にしていたか?」
「俺は元気だ。ユリウスも元気なようで安心したよ」
「ユリウス……?」
「ア、アーク様……ッ」
クラリスがアークライズの耳元に口を近づけると、「ご当主様と親子だとしても、さすがにユリウス呼ばわりはマズイです」と助言する。その助言がユリウスにも聞こえていたのか、口を大きく開けて哄笑する。
「ユリウスか。まるでアークライズの奴に名前を呼ばれた時のことを思い出したぞ」
ユリウスは機嫌良さげに、自分の足を叩いて大笑いする。アークライズも口元に笑みを浮かべていた。
(ユリウスと会うのも久しぶりだ。懐かしいな、この感じ)
アークライズとユリウスは友人同士だった。その付き合いは長く、娘のクラウディアよりも遥かに古い。アークライズが【黄金の獅子団】に所属していたのも、ユリウスに頼まれたことも一因だった。
「クラリス、お前の教育のおかげか、面白い男に育ったようだな」
「ご当主様……」
「だがアークも十歳だ。親離れをして一人前になる年齢に達したと思わないか?」
「そ、それは……」
「アーク、お前に十歳のプレゼントだ。心して受け取れ」
ユリウスはアークライズに書類を手渡す。表紙にはリバ銀行の譲渡に関してとだけ記されていた。
「リバ銀行?」
「地方都市リバにある地方銀行だ。メルシアナ家の系列銀行の一つだと思ってくれ」
「その銀行がどうかしたのか?」
「喜べ、若干十歳でお前がリバ銀行の頭取だ」
「はぁ?」
アークライズは理解が追い付かず、頭の中が真っ白になる。だがユリウスは気にせずに言葉を続ける。
「それだけじゃないぞ。地方都市リバの領主も任せてやる」
「ま、待て、待て。十歳の俺に領主を任せるなんて正気か?」
「不安なのは分かる。だが領主といってもただの地方都市の長だ。王国全体で見れば、ちっぽけな権力だ」
「それはそうだが……」
「リバ銀行の頭取の座も同じだ。メルシアナ家の系列銀行の頂点など、小さな風が吹けばいつでも吹き飛ぶ砂上の楼閣。そう気負わずとも、気楽にやれ」
「気楽にね……」
「それにリバ銀行が危機に陥れば、メルシアナ家直轄のメルシアナ銀行から援助することもできる」
「不気味なくらい手厚いサポートだな。だがそれなら俺にもできそうな気がしてきた……」
「ま、待ってください、ご当主様」
クラリスが一歩前へ出ると、真剣な瞳でユリウスを見据える。
「どうかしたのか?」
「領主といえば聞こえはいいですが、地方都市リバなんて、島流しに等しいではありませんか。それではアーク様があんまりです」
「地方都市のどこが悪い。立派な街ではないか」
「それでも序列一位と序列二位のご兄弟はもっと大きな領地を任されています。次期メルシアナ家当主を決定する戦いにおいて、規模の大きな領地を任される方が圧倒的に有利です」
最初から下駄を履いた状態で戦えるのならそれに越したことはない。クラリスはアークライズのために必死の形相で懇願を続けると、ユリウスは根負けしたように小さなため息を漏らす。
「ふぅ、仕方ない。本音で話そう。アークに地方都市リバを任せるのは評価を反映してのことだ」
「評価をですか?」
「少し厳しいようだが、メルシアナ家においてアークの評価はかなり低い。魔法も剣も勉学も何もかもが最低レベルだ。地方都市を任せるだけでも、どれだけ家臣たちの説得に苦労したか……」
「ご当主様……」
「私はメルシアナ家の当主だ。故に責任が生じる。感情だけで動くわけにはいかない。地方都市リバで我慢してくれ」
ユリウスは頭を下げる。クラリスは拳を握りしめて、悔しそうに唇を噛みしめる。
「申し訳ございません、アーク様……わ、私が、もっと教育を頑張っていれば……」
クラリスの目尻には涙が浮かんでいた。敬愛する主人を島流しのような目に合せてしまうことに責任を感じていた。だがアークライズはそんなクラリスの反応とは裏腹に、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「地方都市リバか。素晴らしいじゃないか」
「え?」
「寝る間もないほど働くより、地方都市でのんびりと領主生活を楽しむ方が良いに決まっている。夢見たスローライフそのものだ」
アークライズは平穏な日常を過ごしたいと考えていた。そんな彼にとって地方都市での生活は願ってもない提案だった。
「アーク、お前は聞いていたよりも強い男に育っているようだな」
「そりゃどうも」
「私はお前に期待している。餞別代りだ。折角だから何か持っていきたいものを言え。くれてやろう」
「何でもいいのか?」
「私に用意できるものならなんでもいい。金でも、物でも、人材でもな」
巨万の富か、高価な芸術品か、優秀な部下か。どれも魅力的な提案だった。
「なら俺は――」
アークライズが欲しいものを応えようとした時、クラリスが彼の腕をガッシリと掴む。目尻に涙を浮かべて、自分を指差した。アークライズはげっそりとした表情で、小さなため息を吐くと、意を決したように口を開いた。
「……クラリスさんでお願いします」
「ははは、尻に敷かれているようだな。これではどちらが主人か分からん」
「うるせぇ」
「ガンバレよ、アーク。私はお前こそが次期当主に相応しいと考えている」
「無理しない範囲で頑張るよ」
アークライズはユリウスの期待に笑って答える。彼の地方領主としての人生はここから始まったのだった。