7.学友の救いの手
チェガの顔を見て、シーヌはどういうわけか安心感を覚えた。彼のことをシーヌは良く知っている。
知り合いに会って、安心して初めて、シーヌは自分もかなりテンパっていたんだと気がついた。
「ナンパなんかじゃないよ。彼女は試験の相方。」
近づいてくる友人に、親しみがこもった声でそう答える。今惚れている人、なんてに言えるほど彼は素直でも恥知らずでもなかった。
「そうか、それにしちゃあやけにこっ恥ずかしいセリフを口にしてなかったか?」
「そ、そうかな?ま、まあ色々あるんだよ。」
チェガが問い詰めるようにシーヌを見つめ、シーヌが逃げるように目を反らす。恥ずかしいセリフを言ったという自覚があるからシーヌは彼の目を見返すことができない。
シーヌは誤魔化されてくれと内心願い、チェガは騙されてやらんぞと意気込む。お互いの緊張が一定に達したときに、シーヌにとっては救いの、チェガにとってはありがたくない女神の手が差し伸べられた。
「あ、あの、シーヌ?その人、誰?」
ティキにしてみれば恐怖が少し和らいだところで、目の前で男二人が長時間見つめ合うという、あまり目に入れたくない事案が発生していたのだから、打ち切らせようとして正解だったろう。
チェガも近づいてティキを見て、おお、と少しだけ唸り声を上げた。
彼は可愛い娘にとても弱い。チェガはティキを見やると、シーヌのことなど頭から消し飛んだのだろう、彼女に見惚れ始めた。
「チェガ=ディーダ。僕のクラスメイトで、友達さ。昔、お父さんを訳ありで助けたことがあってね。それからは色々と助けてもらっているんだ。チェガ、明日の朝ご飯を買いに行かせてよ。」
ティキの手を引いて、チェガの元へと歩き始める。そのときに、ティキをシーヌの僅か後ろに隠すことも忘れない。チェガも応、と答えるとすぐさま先導して歩きはじめる。
「チェガ=ディーダだ。よろしくな、えっと、えー……?」
「この娘はティキ=アツーア。僕のペア。」
「……ペア?」
チェガは試験内容について何も知らない。シーヌも、試験に落ちた人に試験の話をするのは嫌味だろう、と気を使って、在学中は冒険者組合の話はと避けていた。
しかし、もう試験は始まっているし、チェガも家を継ぐことを決めたらしい。まあいいか、とシーヌは思いこむことにして、試験の内容について歩きながら話し始めた。
試験の説明をしながら道中を進む。以前から聞いていた内容、今日走り始めてからのこと、そして今回の試験の説明。いくつもいくつも浮かんでいる、試験中の懸念事項についても、ティキが聞いているのもかまわず話してしまっていた。
ティキは何も口を挟んだりはせず、シーヌの手を握って後ろから付いてくる。シーヌの話は聞こえているだろう。彼が彼女に話した内容よりも多くの問題点が、シーヌの口からポロポロ零れる。
彼女はそれでも、シーヌの手を握って、しっかりした足取りで付いてきていた。
「……また厄介そうな試験だな。しかしシーヌ、お前、お人好しなのか?」
ティキを待っていたという件の話を指しているのだろう。シーヌは少し笑うと、そういうわけではないさ、と答える。ティキの手を放して、二歩分ほどティキと距離を離してからその先を答えた。
「僕の自己満足だよ。僕は自分のためにしか動けない。」
チェガは小さな声で囁かれたそれを聞くと、ああ、と少し遠い目をした。そういやこれがこいつの口癖だった、と思いながら。
「で、どうするつもりなんだよ、この試験。」
足手まといを抱えてクリアできる試験ではないだろうから、どう合格するつもりなのだろうか、と思う。
「落ちはしない。気にしなくてもいいさ。」
先ほどまでどうすれば合格できるか悩んでいたことはおくびにも出さずに、彼は自信満々に断言する。
それが虚勢だということは、チェガはなんとなく理解していた。彼とシーヌの付き合いは、それがわかる程度には長い。
彼の虚勢を気付かなかったことにするためにチェガが取った方法は、シーヌと同じように、話を逸らすことである。やはり似た者同士の友人であった。
「で、ティキさんといつからお付き合いするつもりなんだ、シーヌ?」
本人が二歩ほど後ろにいるにも関わらず、小声でチェガが揶揄するように囁く。あれだけ恥ずかしい言葉を往来で言っていたのだ。そういうつもりは十分にあるのだろう、と思う。
シーヌは気のない相手にあんなことが言えるほど、器用な人間じゃあない。彼女のことを考えずに行動するなら、彼はきっと簡単ではなくともあっさりこの試験に合格できる人間だとチェガは知っている。
だから、あそこまで恥ずかしい話を彼がした以上、シーヌが彼女に特別な何かを抱いているのは間違いない、とチェガは確信していた。
シーヌ自身も、自分については自分よりもチェガがよく知っていることを理解している。だから、自分の感情は知られたものとして話に乗った。
「早いよ、チェガ。彼女は相当な箱入り娘っぽいもん。彼女が恋愛感情を持つような余裕はないさ。」
「へぇ、そうしたい意志があるのは否定しないのか?」
「ま、チェガに隠してもすぐバレるしね。」
先ほどの虚勢もバレているのはわかっている。そういう意味を込めてシーヌがある程度悟ったように笑う。
「ん、じゃあ電撃的なお付き合いはないと思っておくぜ。しかし、シーヌに想い人かぁ。」
ティキにもかすかに聞こえているとは全く思いもせずにシーヌはチェガと歩いていく。後ろを静かに歩くティキの内心はいかがなものかというのは、ティキに聞かれていると思わないシーヌが至ることのない思考だ。
(……え?あれ?え?)
ティキは完全に思考を止めたかのように戸惑いながら、シーヌたちの後を機械的に追いかけた。彼女が理解できないことと出会うのは今日の間で何回目なのだろう。
しかしながら彼女は、シーヌの数々の言動から、シーヌの想いがある程度事実であることも理解した。さすがの箱入り娘でも、英雄譚や恋愛物語の一つや二つ、知っている。
だから、シーヌの言葉の端々に込められた意味が、恋愛感情を指し示していることは、気持ちを知ってしまえば納得できた。
(……彼と結婚するのは、悪いことでは、ない?)
(私は世間知らずだし……彼はあの最悪の身内たちとは質の違う人だし)
(……だからといって、一生を添い遂げるなんて覚悟はできないけど……)
彼女は冷静になるまでに再びかなりの時間を要した。もうシーヌとチェガは、普通の声で彼の恋愛話とは関係ない、学生生活の思い出話などに花を咲かせている。それも当然、シーヌは卒業式の後、学友たちと最後の挨拶すらまともに済ませられなかったのだから。
まるで卒業式の続きでもするかのように、シーヌとチェガは話し続けている。それは、チェガがシーヌとやりたかったことで、シーヌにとっては現実逃避の手段だ。
そうして、シーヌたちの話が完全に逸れている今だからこそ、ティキはシーヌの想いについて、今後の時分の身の振り方について思考しうる時間を十分に得られる。もし恋愛話を続けられていたら、想われていることに、その確かさに呆然としていただろうから。
彼女は、冷静に立ち返って、シーヌの想いを一つの道具として思考を重ねた。それが貴族的な思考そのものであることは、数えられるほどの物語しか知らず、そもそも人と接することのなかった彼女にはわからない。
そろそろ着くよ、とシーヌがティキに声をかける。その声に、自分が思っていた以上に長く思考に沈んでいたんだ、と気がついた。
シーヌはティキの未来の可能性を救った恩人だ。そうティキは確信している。
だから、人を利用しようとした初めての人が、シーヌであることに自身への嫌悪を抱いた。
何か、品定めをするようにチェガがティキを見た。そんなことは気づかぬふりをしてシーヌは歩を進める。
一軒の店の前。ディーダのパン、と書かれたパン屋の前で、シーヌたちは立ち止まる。
「シーヌ、親父は奥にいるぜ。試験とかの援助は直談判してくれや。」
「お前は何を?」
「まあ、聞かせたくない話もあるだろ?」
誰に、とは言わない。彼は、シーヌがチェガにも話せないことがあることは長い付き合いの中で知り尽くしていた。チェガに話せないことが、会って一日のティキに話せるはずもない。
「……わかった。」
シーヌは家の扉を開けて、迷うことなく閉店された店の奥に入っていこうとした。チェガの父に挨拶に行くために。
「……ティキに手とか出したら縁切るからな。」
そんな可能性を考えて、シーヌは慌ててチェガに凄んだ。彼の可愛い人好きは、たまにそういう事態を招くことがある。
「やるかよ、命が惜しい。」
何もするか、というアピールで、シーヌはやっと安心して家に入った。彼は一度言ったことはよっぽどのことがない限り守る。
ティキは、閉店された店の前で、チェガと二人相対した。彼女にとって初めての、直接話す二人目の、自分の知らない人だ。
「……」
ティキは何を話していいのかもわからずに沈黙する。話題がないなら積極的に話しかけることなどしない、というよりできない。それが世間知らずのティキの現状だ。
「シーヌは暗い過去を抱えていてな。」
チェガが、お互いが共有できる人物の話題を口にする。しかし、いい話ではなかった。そのことに、何を言うつもりなのかティキは訝し気にチェガを見つめる。
「シーヌはあんたに惚れた。その会話があんたに聞こえていたことをシーヌは知らないが。」
すぐさま、一見関係ない、シーヌの話に跳ぶ。惚れてるの部分で、ティキは少しばかり顔を赤くした。
「でもな、あいつはきっと、お前に惚れていても、必要なら切り捨てるだろうよ。あとでめちゃくちゃ後悔することになってもな。」
訝しんだり、照れたりするだけのティキに構わず、チェガは淡々と話を進める。少しずつ、少しずつではあるが話し声から感情が抜け落ちている。
「あんたもシーヌに恩を感じているのはわかる。利用したくないこともな。」
かつてシーヌがチェガの父を助けたのは、父がシーヌにとって利用価値があったからだ。シーヌはそれをチェガに話してはいないが、それを少しだけ感じ取ってはいる。
「あんたの悩みや苦しみに、あるいはシーヌの想いに対しての答えを出すまでに、わざわざ俺が忠告することはない。」
チェガは初めて会った親友の想い人に対して、チェガはあまり興味がない。ティキはまだ、無自覚だろうが、自分しかいない世界から抜け出せていない。
チェガは、自分の手に余る女がどういうものか、よくわかっていた。ティキという彼女は、そのなかでも一級品だ、と彼は思う。
「それでも言っておいてやる。お前、あいつを巻き込み続けるなら、あいつを見ろよ。じゃないと。」
見捨てられるぜ、とまでは言わなかった。言わないまま座り込んだ。
しかし、そのセリフを、ティキは聞いた気がした。彼女にとってそれは、死を意味することだ。そこまでではなくとも、ほとんど同じだけの意味がある。
ティキは自分自身の生き方を見直し始めた。シーヌとの付き合いではなく、自分自身を。
彼女はまだ、自分のことしか見えていない。見る余裕が欠片もない。
チェガはそれを気付きながらも、何も言うことなく座り続けた。
少しだけ冷たい風が、シーヌのいない二人の間を駆け抜けていった。
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