天馬の里
気を取り直したシーヌは、ティキを伴って自分の組み立てた柵から外に出た。柵の周りには朝が早いにも関わらず、何頭かのペガサスが近寄ってきている。
馬車の中に置いてあった、秣を彼らに差し出す。代表団の乗る馬にも食料は必要で、これまで通ってきたいくつかの町で、それは定期的に補給してきた。
ここの天馬たちは、基本的に自給自足で食べ物を得ている。だからこそ、外から持ち出された食料には非常に弱い。
その秣が栄養価が高いことを見抜いた一匹が、彼の側まで寄ってくる。大切なのは、このあとの過程だ。
さっと秣を背に隠す。やらない。取れるものなら取ってみろ。そういう目でペガサスを射抜くと、プライドを刺激されたからだろう。
怒りを瞳に宿し、その激情に身を任せてシーヌに飛びかかってきた。
ブオン、と低い音を響かせてペガサスが虚空を弾きとばし、シーヌは宙でそのペガサスを見下ろす。
普段見下ろす人間風情に見下ろされていることの屈辱に、そのペガサスは即座に見下し返すことを選んだ。
他の人間は、基本的にペガサスを力で屈服させて自分が上の立場だと認識させる。だから、空で優劣をつけようとしてくる人間などそのペガサスは初めて見たのだ。
その人間より上を取ると、即座に上を取り返される。また取り返し、取り返される。
気がつけば、空気がだいぶ薄いところまで飛んできていた。
かかった。シーヌは互いに飛びあい続けるペガサスを見てほくそ笑んだ。
ペガサスは空に体を浮かせるために、その大きな翼を羽ばたかせる必要がある。それに対し、シーヌは空気の流れを弄って自分の体を浮かせているだけだ。
呼吸も、魔法で下から突き上げる風を、自分の周りで意識して留まらせている。時折入れ替えているので、呼吸困難に陥ることもほとんどあり得ない。
しかし、ペガサスは違う。ここは空気が薄く、羽を羽ばたかせたところで上昇する量はたかが知れている。どころか、今の高さを維持するだけでもそれなりの力がいるだろう。
羽を羽ばたかせるというのはそれなりに力がいる。力を使うということは、体の中に取り入れなければならない酸素が増えるということだ。
しかし、空気が薄い。酸素が足りなくなり、徐々に羽ばたく力が弱くなる。
もう10分もその高さを維持して、にらめっこをしていただろうか。そろそろ、この我慢比べも飽き始めていた。
だから、彼は決定打を打った。さらに、数メートルほど上昇し、じっと見下ろす。ここまで来れるかという挑発を視線に込めて。
もうかなり、ペガサスの方は辛かった。その高さの維持すらも、もう数分と持たなかっただろう。
だが、売られた喧嘩は買った。ペガサスというのはプライドの高い生き物だ。ゆえに、挑発をされると必ず買う。
さらに上昇し、シーヌの目の前で滞空する。すると、またシーヌが今度は十メートルほど上昇する。
ペガサスはシーヌを睨み付け、再び羽ばたこうとした、直後。
落ちた。見事に、羽に力が入らずに、まっ逆さまに。
それを受けて、シーヌもまっ逆さまに落ちていく。
空気が徐々に濃くなっていく。今ならペガサスが羽ばたいても簡単に飛べるだろう。しかし、羽ばたかない。滑空もしない。
(意識がないね、あれは。)
意識を保つために必要な酸素を、脳に供給できなかったのだ。そのまま落下して当然だろう。
ペガサスの落ちる前に、薄くて柔らかい空気の膜を張る。
二枚、三枚、四枚の膜が破られ、その度にペガサスの落下速度が少し落ちる。
五枚目が破られた頃にして、ようやくシーヌが追い付いた。ペガサスの下に行って支えるのではなく、背に飛び乗る形で。
ペガサスの正しい仲間への勧誘方法。ペガサスを屈服させて、その背に乗る。
言葉にすれば簡単だが、容易なことではない。乗っても振り落とされてはいけないからだ。
今まで何人もが、ペガサスたちの背に不意打ちで飛び乗り、振り落とされては命を落としてきた。
だから人々は力業でペガサスを屈服させる。体力が落ちるまで地面を転がし、プライドをズタズタに切り裂き、そしてその上に乗る。
人間が、この飼い主が自分よりも上。そう認識させなければ、ペガサスは決して人を乗せようとはしないのだ。
これまでの歴史で、何千万という人々がこの戦いに挑戦してきただろうか。そして、何千万という人々が敗北し地を舐めたことだろうか。
一生消えない傷を負ったものは数知れず。体の一部が使い物にならなくなった人間は、さらに多く。
二十人に一人は、必ず命を落とす。そんな怪物がペガサスである。
ここまで来たら勝ったも同然。シーヌはそう確信していた。もう、背中にはとりついた。ペガサスは意識を失っている。
シーヌは空と同化するかのような青い翼を背から伸ばし、そのまま滑空体勢に移行する。
ぐいっと、地面との角度を15度ほどまで下げ、風を翼が切るように操り、シーヌ自身は体を倒して、そのまた地面に直行した。
同時に、風の膜なんかよりも強い、体の内部を滅茶苦茶に揺さぶるような衝撃波を送り込んだ。
ペガサスがそれによって覚醒する。目を開けてすぐに、背中に乗った違和感と迫ってきている地面に疑問を持ったようだ。
それから、彼は状況を理解したらしい。自分で翼を広げ、羽ばたき、落下姿勢から上昇姿勢に切り替えた。
シーヌはそれを見て翼を畳む。このペガサスは自分を認めた。それが証拠に、彼は滞空し、旋回行動をとっている。
「あの場所に降りてくれ。」
ティキが一人で立っている場所を指し示す。彼はそれに従って、ゆっくりと地上へ降り始めた。
残されたティキは、目の前に集ってきたペガサスたちを見てどうしようか、と首をかしげた。
シーヌから彼らの手懐けかたは聞いていたが、シーヌのように空でけりをつけようとは思っていなかった。
同じ行動をする人が二人もいたら変だし、シーヌの邪魔をするのも気が引けたからだ。
「……今シーヌと戦っているペガサスさんに私も乗せてもらうとして……。」
ティキはポツリと呟いた。ペガサスさん、というなんだかかわいい呼び名に、そこにいるペガサスたちが微かにざわめく。
今さらであるが、ペガサスは知能が高い。長寿のものは、人間の言葉を覚えるほどである。
ゆえに、そのペガサスたちは、次に続いたティキの一言に、言いようもない屈辱を感じた。
「三頭でいいかな、荷物持ちは。」
「……人間よ。」
御年80を越える、中齢のペガサスが彼女に、何かを押さえるかのように話しかけた。
「なんですか?」
話すペガサスが目の前の中に紛れていたことに驚きつつ、彼女は無邪気に返事をする。
「誇り高き我らペガサスを、よりによって荷物持ちにする、というのか。」
低い声音で、威厳を込めてそう言った。並みの人なら、間違いなく震え上がって許しを乞うたであろう声色だった。
「ええ。旅には武器食料だけではなんとも心許ないですから。」
ティキは動じずに堂々と答えた、怖がる必要もへりくだる必要もない。彼らなど、ティキにとっては恐ろしいものでも命の危険を感じるようなものでもないのだ。
さて。彼女の言った荷物持ち、であるが、彼女にとってはそのままの意味だ。旅で多量の荷物を持ち運ぶことなどないが、それでも必需品はある。
乾燥しているネスティア王国では、風呂に入る習慣はない。汗をかくことがあまりないし、肌荒れが進むからだ。
それでも、毎日着替えは要るし洗濯もしないといけない。魔法でパパッと、といっても限度があった。
開き直った彼らを恐れぬティキの態度に、ペガサスたちは気味の悪さを覚える。
それでも、このまま舐めた態度を貫かれると、ペガサスたちの沽券に関わる大問題だった。
短期な一頭が話すペガサスに先んじて、ティキの前へと駆け出す。それを皮切りに、次々と見守っていたペガサスたちがティキへ向かっていった。
(殺しちゃったらダメだしな)
対集団戦に向いたティキの十八番は、殺すことを禁止するという条件では使えない。
かといって、戦いに殺害を度外視した方法など多くはない。
余談である。この世界に、電気はない。雷は超常現象として取り扱われていて、法則を知るものはまずいない。
しかし、雷という現象がある以上、魔法使いもその現象は模倣できる。雷の形をした何か、なら使える魔法使いも多い。
電気がなく、雷の現象が解明されていなくて、静電気を雷と同種だと思える者もいない。
つまり、電撃や電流といった魔法を使えるのは、一部の強者や知識人のみである。
ティキもその例に漏れず、電気や麻痺といった魔法は使えない。難しい魔法と知らない魔法では、できるできないを論じる以前の壁があるのだ。
ゆえに、ティキが選んだ魔法は、決してそういった無力化の魔法ではなかった。
ただ向かってくる天馬たちを、生み出した蔓で縛り付け続けただけである。
「なぜ、我らを恐れない?」
飛んで襲いかかってきた一頭を雁字搦めにし、後ろから迫ってきた一頭を転がし、真横から迫ってきた一頭を吹き飛ばして遥か先で拘束しながら、ティキはその声を聞いていた。
「だって、怖くないから。」
さらに一頭を転がしながら、ティキは笑った。
「復讐しようとしているときのシーヌは、もっと怖いよ?」
気づけば話せる一頭以外の、三十頭近いペガサス全てが地面をなめていた。
ペガサスが持つ、普通馬の三倍近い膂力をもって蔓の拘束を解こうとし、悉くが失敗していた。
「私はクトリスと戦った。“隻脚の魔法士”ドラッドも見てきたし、“金の亡者”ガラフも強かった。」
クトリス以外は見ていただけだったけど、というのは心の中に押し留めた。
これからは見ているだけじゃないやうにしよう。そう、ティキは思っている。
「彼らに比べたら、あなたたちは、あまりにも怖くなさすぎるよ。」
言った。言いながら高齢のそのペガサスに近寄った。
「お願いね、荷物持ちのペガサスさん?」
可愛い、それでいて悪魔のような笑みを話す彼に向けて、背に飛び乗った。
彼は。話すそのペガサスは、ティキを主として認めざるを得なかった。このとき、シーヌは空のペガサスと共に落下を始めたところである。
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