夫婦の距離
シーヌが目を覚ましたとき、彼の腕を抱き抱えて眠るティキは熟睡していた。
以前はこんなところで寝ることができなかったのにね、と彼女のあどけない寝顔を眺めながら思う。それを成長と取るのか、何か大切なものを失わせたととるかは、彼女のこれからにかかっていた。
重い体をゆっくりと起こし、建てられたテントから顔を出す。静まり返った外の空気は、その時間としては妥当なところだ。
テントの隅に押しやっていた小箱からカチカチのパンを取り出し、中に水を溜め始める。
その時にようやく、ティキも目を覚ました。
「……シーヌ?」
「おはよう、ティキ。ご飯食べる?」
「んー、体流してくるよ。」
つかつかと外に出ると、彼女が何か魔法を使った気配がした。おそらく、煙幕の魔法だろう。
その証拠に、テントの端から黒い何かが少し入り込んでいる。
(起こした現象はやっぱり世界を上書きするんだね……)
でないと、魔法の火が燃え続ける訳がない。
(消そうと思ったら消えるのに……消火の魔法を使っていることになるのかな?)
その辺の魔法理論には穴が多い。だからシーヌは、この魔法というものがもっと大きな何かを秘めているのでは、と感じていた。
僅かな衣擦れの音が止み、今度は水の音が聞こえてくる。煙幕を維持したまま、今度はその中で雨を降らせ始めたのだろう。
手っ取り早い汗を流す方法で、器用だな、とシーヌは笑った。
そこで彼女が裸になっているということは、頭に浮かんだとしても考えない。ひたすら無視を決め込んで、ティキの魔法技術について考える。
(制御が甘いんだよなぁ……)
木と毛皮で建てられたテントの端が濡れ始めたのを見て、シーヌは微かに笑う。
器用でも、何から何まで気がついているわけではないというのは、彼にとって1つ安心感を与えた。
今度はテントの一面から急に熱気が通ってきた。急速に体の水分を蒸発させているのだろうが、テントの中が熱い。
温度を外と同じほどまで下げつつ、パンを小箱の中に放り込んだ。水がパンに染み込めば、干し肉と一緒に朝御飯として食べられるようになるだろう。
「ティキ、熱いよ!」
いつまで経っても止まらない熱気の魔法に、たまらずシーヌは顔をテントから出して叫んだ。
なぜか時を負うごとに熱が上がっていき、流石にテントが燃えそうだったし、ふやかしているパンの水が蒸発しそうだったのだ。
首を出したシーヌは、目をしっかり見開いて硬直した。彼女はテントの正面で体を流していた。
いや、シーヌが驚いたのはそれではない。テント側に煙幕を張っていなかったから驚いているのだ。
つまり。今シーヌの目の前には、熱で体を温めすぎて汗をかき、それを慌てて流し始めたティキの裸体があった。
あまりのことにシーヌは固まったあと、たっぷり十秒以上の時をかけて再起動し、慌ててテントの中に引っ込んだ。
そのまま頭を抱えて蹲る。胸の動悸が抑えられなくて、軽く呻いた。
あまりにじっと見つめていたから、その姿はしっかりと脳に焼き付いている。
バランスがいい体。水に濡れた碧い髪。女性らしい膨らみまで、全くしっかり目に焼き付いている。
「どうして、そんな……。」
こっちだけ煙幕をかけていなかったのか。ティキの背後が暗かったから、ティキの肌白さがしっかりと目立っていた。
微かな衣擦れの音がして、それが止むとともにティキがテントの中に入ってくる。
シーヌは顔を真っ赤にして両手で顔を覆ったまま、微動だにせずにそこにいた。
シーヌの頭が撫でられている。
「何を、やってたんだよ……。」
「だってシーヌ、あれくらいの刺激がないと私の方見てくれないもん。」
答えが答えになっていなかった。ただ同時にそうだね、とも思った。
シーヌはティキとのことより、自分のことばかりを考えている。それが恋愛には良くないと知った上で。
ティキは二人の関係に変化を与えるために、あんなことをしたのだ。その効果は……シーヌの反応を見れば明らかだった。
「それに……夫婦なんだから、これくらい……。」
シーヌの頭が沸騰しかけた。同時に頭のどこかで「冗談じゃない」という言葉も囁かれた。
「私は、シーヌじゃないから、シーヌの生き方を決められないけど。」
言いつつも、蹲ったまま動かないシーヌの背を抱き寄せて
「私の人生は、私のものだから。あなたがどう願ってどこへ行こうと、必ずあなたと共にいるよ。」
背からぎゅっと力強く、離さないとでも言うように抱き締める力を増やして。それから彼女は、すっと彼から離れた。
そのまま彼の対面側に回って、水が染み始めたパンを触って感触を確認する。まだ食べられるほどではないかな、と呟くと、毛皮の上にごろんと寝転がった。
「……ティキ。」
シーヌが完全に再起動したのは、そのままたっぷり5分も経った頃だった。
「僕は、君とは……」
結婚したことを後悔しそうだった。復讐以外のものが視界に映っている自分を、嫌悪しそうで仕方がなかった。
「シーヌの旅が終わるまでにね。」
ティキはふやけたパンをシーヌに手渡しながら、何かの覚悟を決めたかのようにポツリと言う。
シーヌはそれを聞かない方がいいと本能的に察した。察してなお、聞こうと思った。
それは彼なりの、ティキに対する誠意である。彼の、自分の復讐に巻き込んでしまっていることへの、罪悪感の発露でもある。
だから、パンを口元に運びつつも彼女の言葉を、自分の言葉を挟まず待った。たとえ恨もうと後悔しようと、彼女の意思を尊重しようと思って。
恨み言か、離れないという決意か、一緒に生きてという願望か。どれが来ても、返事は決まっている。
ティキがスゥッと息を吸った。来るか、と思って、口の中のパンを一気に飲み込む。
「あなたの子供は、絶対に産むから。その種はもらうから。」
「いいよ……え、よくない!子供?」
予想の斜め上をいく彼女の台詞に、シーヌはひっくり返った。
さっきのですらダメージが大きかったのに、これは止めだったかもしれない。少なくともシーヌは、完全にティキとの責任から逃げることは出来なくなってしまっていた。
「結婚したし、私はシーヌのこと、好きだから。」
「まだ救ってもらった恩も返せていないけど……シーヌは私を突き放そうとしているのも知っているけれど。」
「私は、あなたと結婚したという、はっきりとした証明が欲しいよ。」
「だから、子供。あなたと私の、子供が欲しい。」
今度のシーヌの沈黙は、そう長くはなかった。何かを諦めたかのような溜め息を長々と吐いてから、ティキの頬に手を伸ばす。
「わかったよ、ティキ。」
その頬に触れて、そっと自分の方に引き寄せて。
「ティキ。僕は、君が大好きだ。」
唇を奪った。シーヌとティキは、結婚生活一月にしてようやく、お互いの恋心を伝えあうことになったのだ……。
「甘い。」
パンを咀嚼しながらシーヌが呟くと、顔を真っ赤にしているティキも何度か頷く。
シーヌも恥ずかしさは尋常ではなかったが、彼は自分の体の血流をある程度魔法で操作できる。
健康には非常に悪いのだが、その技術を発揮しているおかげでシーヌの顔は朱くはなっていなかった。
「甘いね。」
蕩けたような声音でティキが言う。おかげで、さらに噛んでいるパンの甘みが増した気がした。
「こ、このあとなんだけど。」
雰囲気に飲まれかけていたシーヌが、慌てて話を転換する。
もう少しこのままの雰囲気でいたかったのか少しだけティキが不機嫌になったが、無視して話を進めた。
「アオカミは馬にとって毒みたいだから、乗り物を変えようと思うんだ。」
スッとティキの目が細まる。自分の配下を毒と言われたことが、何かの琴線に触れたのだろう。
が、状況自体はわかっているのか、文句を言わずに頷いてきた。
「何に変えるの?」
訊ねつつティキは最後のパンを最後の干し肉と一緒に頬張る。
シーヌは微かに笑って言った。
「いるじゃない、外に。みんな憧れの相棒が。」
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