妥協
「どういうこと、ティキ?」
シーヌは少し声のトーンを落として聞いた。
その中には若干の怒りと、呆れと、そして苦さが混じっている。
「簡単だよ。今、シーヌが彼らに対して、『では僕らも君たちの実力は信頼する』なんていうことは言ってはいけない。」
ティキの表情が、固くなっていた。ティキのそんな、露骨な怒りの表情を初めて見て、シーヌの心にさざ波が走る。
それは、怒りだった。彼女は今、ただ純粋に、怒っていた。
そんなに他人の意見は聞きたくないのかと、シーヌの意見は聞けないのかと、彼の発想のおかげで家に帰らなくて済んだティキは、怒りを覚えていた。
「彼らがこれから言うことを、私は予想できるよ、シーヌ。どうしてなのかはわからないけど、できる。」
それは、奇跡のように唐突に彼女の中で閃いた悪夢。シーヌの意見は通らず、彼ら彼女らにとって都合のいい結果をもたらす可能性のある作戦。
いや、作戦とはもう呼べない。専守防衛等倍返しを旨とする聖人たちの、清く正しい守りの想い。
「実力は認めます。どうか、どうかお願いですから、それをセーゲルの護りに使ってください、でしょ?」
聖人たちは何の反応も示さない。反応をするとそれを認めることに他ならないからではある。
「未熟です。こういうときは、焦った心を見透かされないように、それでも真っ先に否定するべきでした。……勉強不足だよ。」
最後の一言は、呆れと共に吐き出された。
「シーヌが彼らに騙されそうになるのはいい。あなたたちが私たちを利用するのもいい。でも、セーゲルを護りたいならもっと全体を見るべきだよ!」
ティキは、ものすごい剣幕で捲し立てた。そのあと少し深呼吸して、今この場の主導権が自分にあることを確認すると、そっとシーヌの手を握る。
その手はうっすらと汗ばんでいて。少し熱くて、少し鼓動が早いのも、腕だけで伝わるほど強いのも伝えてきて。
彼女が緊張していた。ティキが、緊張したときにシーヌの手にすがってきた。彼はそこまで気を許されたことが嬉しくて、彼の方からさらにギュッと手を握る。
それに勇気付けられたのだろう。ティキは再び、今度は落ち着いて言い始めた。
「籠城戦をとりたい。あなたたちの持つもの的に、気持ちがわからないではありません。」
彼女はそれをまず認めた。相手を否定しようというのだから、相手への理解も示さなければならない、という考えのもとだろう。
「しかし籠城戦は救援が確約されている場合に行うもの。今回の場合は適当ではありません。」
その言葉に、聖人会の面々は愕然とした。シーヌですら、驚きを隠せなかった。
すぐさまその意味を考えはじめる。シーヌが持ちかえった、ネスティア王国のルックワーツ侵攻計画がある以上、救援は確約されたようなものだ。
「いつシーヌがセーゲル救出計画と言いました?王国にとっては国の意に添わないあなたたちも粛清対象に入るはずですよ?」
ティキが重ねた言葉に、シーヌは感嘆した。確かに、王国軍はルックワーツを攻めるつもりだろう。ただし、セーゲルを助けるとは、あの時一言も言っていなかった。
「……それに、ルックワーツ侵攻の計画が本当のことだとは、誰も確認したわけではありませんから。」
ゾッと、した。
背筋が冷たい。心なしか部屋の温度も数度ほど下がった気がした。
「しかし、英雄が部下にそう言ったと、シーヌが聞いてきたじゃないですか!あなたは夫を疑うのですか!」
責めるように、怒るように、アフィータが叫ぶ。シーヌすらをも、彼の得た情報すらをも疑おうとする彼女に、聖人会の面々は皆が眉をひそめる。
「ティキ、それは……詐欺師の本領発揮ということ?」
「うん。『赤竜暴走事件』の真相を考えたら、そうだとしか考えられないよ。」
ティキの言いたいことを、シーヌは理解した。(自分で『竜呑の詐欺師』なんて名付けておいて、情けない……!)
そう、そうだ。彼は、ガレット=ヒルデナ=アリリードは、赤竜を殺したと言いつつ、生け捕りにした。骨すら残さず溶かしきったと言い伝えさせておきながら、血だけは流しても、四肢一つ欠けさせずに拘束し、連れ去った。
「何が、言いたいのだ?はっきり言ってくれ。」
エーデロイセが単刀直入に聞いてくる。しかし、これは、聖人会の清く正しき聖人……もとい社会を舐めきったバカに通じる話では、ないかもしれない。
逡巡するかのようにティキが顔を伏せる。否定されて、勝利の芽を完全に潰すかもしれないことを恐れているのだろう、とシーヌは思った。
「ガレット=ヒルデナ=アリリードは、部下に嘘をついている可能性を捨てられません。彼は部下を、豚と同程度にも思っていませんから。」
シーヌは彼女の代わりに告げた。彼女の思考は、その予想は、実に正しいというしかなく。
「嘘だ、そんなことがあり得てなるものか!」
“自由”が慌てたかのように、そして認めなくない心を隠せないかのように叫ぶ。
実際、あり得ると思ってしまったのだろう。
「彼は、世界に嘘を吐きました。赤竜を殺したと謳いながら、実際のところは捕獲した。ただし、そのために支払った犠牲は……部下の命です。」
逆に、逆にだ。100人の部下の命を支払ったからこそ、彼の竜殺しは信用されたのだ。
「そうですか。……いえ、彼なららやるでしょう。」
かつて彼の弟子だった男が、ティキの意見を支持する。セーゲルの主力の一人までが認めてしまったことで、彼らにはその意見に一考の余地が生まれてしまった。
シーヌはクロイサに頭を下げた。予想外の援護射撃ではあったが、かなり大きな影響があったようだ。
「さて、もしもセーゲルに救援がないとなった場合、籠城戦を執るのは正しいことなのでしょうか?」
まだ聖人会は一度も籠城戦を執るとは言っていないのに、ティキの中ではそれを執られるのが確定しているようだ
に、人的被害を受け入れられないのだろう。
これではダメだ、そうシーヌは思った。自分達と彼らの間には、致命的な溝がある。
つまり、守るものが自分達だけなのか、街一つを守る責務を背負っているのか。シーヌたちは彼らと同じ土俵に降りることはできない。
少なくともシーヌは自分の意志で、自分の目的のために動く、冒険者組合員だ。ティキはシーヌに依存して今日を生きていて、シーヌの方ももうしばらく彼女を手放すつもりはない。
セーゲルのために戦うほどセーゲルに滞在していないシーヌたちでは、彼らに対する愛着の欠片たりともないのだ。
だが、命を救われた。命を代償にして、だ。
キャッツ=ネメシア=セーゲルへの敬意のために、シーヌはセーゲルを守らなければならない。
「わかった。わかりました。なら、ワデシャ=クロイサとカレス将軍を貸してください。こっちはこれで、うって出ます。それならどうですか?」
シーヌはギリギリの妥協点を打ち出した。つまり、攻撃できる最大戦力をもってガレットと赤竜を討つ、と。
「お断りしますよ。それに、ガレットとあなたが二人きりになれば勝てる、などはいくらなんでも信用の埒外です。」
“治癒の聖人”までもそう言う。それではこの戦いの意味がなくなる。向こうが一方的に、シーヌたちの実力について信用しただけだ。
「断るのなら、話を反らすのではなくはっきりと理由をつけていただけませんか?」
ティキは遠慮の欠片もなく聖人会を口撃した。
彼女の才能にはびっくりだな、とシーヌは思う。シーヌには足りない人との交渉術において、彼女はシーヌの遥か上を行っていた。
「彼らがいなくなったら、誰が超兵と戦うのだ!」
聖人たちがみっともなく叫ぶ。やはり、ルックワーツと戦うために彼らは必要不可欠のようで。
「シーヌ。キリがないよ。私たちが離反して勝てるつもりでいるのかな?」
サッと聖人会の一同の顔色が青く変わる。それは勝てないと自分で語ったようなもの。
「シーヌ=ヒンメル=ブラウ。」
今まで無言を保っていた“授与の聖人”ガセアルートが口を開いた。
「一対一の状況を作れば、本当に勝てるのですね?」
それは、勝てると言わなければならないことだったのかもしれない。しかし、負ける可能性がないでもなかった。
一瞬の、逡巡。それに気がついたティキは、かれがどうして逡巡しているのか、薄々察した。
シーヌとガレットの邂逅は、二度。彼ら二人の戦いにおいて、未だシーヌは勝利をもぎ取れてはいないから。
彼に自信がないのは、当然と言えば当然だろう。一度は、死んだ身だ。
ティキはぎゅっと手を握った。力を込めて、信頼を込めて、そしてやってみせてという願いを込めて。
シーヌはそれを感じ取って、少しほほを綻ばせる。彼女がシーヌに何かをしようとしたのは、ドラッドの首を落としたときを含めて二度目。
彼女は、大切な場面ではいつも、シーヌに元気とやる気を与えてくれて、安心感を与えてくれていた。
「やるさ。やってやる。クロウの生き残りとして、死んでいった皆の無念を背負ってるんだ。」
覚悟を瞳と声音にのせて、宣言した。シーヌは、必ず、“仇に絶望と死を”与えてやると、この時はっきりと形にした。
「……わかりました。カレス=セーゲル=アリエステンを行かせるわけにはいかない。アフィータ=クシャータでどうですか?」
シーヌの作戦の中で、カレス将軍の役目はワデシャの護りだ。それならアフィータに任せても構わない……彼女自身が近接戦闘が可能ならば、だが。
「おい、ガセア?」
“錯乱”が驚いて声を出した。シーヌもティキも、自分勝手な行動をしようとしているようにしか、彼女らにには見えない。そしてそれは、彼女らにとっては、禁忌事項だ。
「街の全滅と街の兵士の被害を天秤にかけなければいけないのならば、兵士の被害を取るべきです。」
ティキとシーヌの方が、今度は驚いて固まった。
「それに、冒険者組合員にセーゲルが命令することはできません。仕方ない。彼らにこの街の攻撃を任せつつ、私たちは独自に防衛します。」
それならば、お互いの妥協点だった。
「……僕たちは彼らがここに到着して三日後に、独自に出ます。それでよろしいですか?」
「わかりました。それで行きましょう。よろしくお願いします。」
「おい!!ガセア!!」
聖人会が叫ぶ。アフィータとワデシャとカレス将軍のみが、彼らを静観する姿勢を見せていて。
「私は“犠牲の聖女”から指揮権を託された!文句があるならバグーリダ様と私を両方説き伏せよ!」
すごい剣幕だった。聖人会の面々が、完全に静止するほどに。
「「………………」」
聖人会は黙って頭を垂れる。今は完全な身内で
争っている暇はない。それがわかる程度には、彼らも頭が回るようだった。




