空想と現実
その魔法に襲われたとき、グレーは何が起きたのか全く理解できなかった。
目の前の光景が消えうせ、何があるかわからなくなった。
シーヌ=ヒンメル=ブラウと“幻想展開”の勝負をしていたはずだ。なのに、いつの間にか訪れているこの場は……これは、何だろうか。
「暗闇……とは違う。」
シーヌは“地獄”と言った。地獄というには、この場には何もない。……何も、ない。
魔法を放ってみようと手を伸ばし、雷を作り出そうとする……出来ない。なぜか、ここでは自由に魔法が発動できない。
いや、魔法が発動できないだけなのだろうか。そもそも自分は、手を伸ばしていたのだろうか。あれ?腕とは……自分の腕は、どこだ?
「ぬ?」
自分に何が起きているのか、全く理解が出来ない状態である。グレーにわかったのは、それだけ。それに気づいてしまえば。シーヌの“地獄”の侵入は、非常に……早すぎた。
「体の感覚が、ない?」
自分は本当に立っているのか。地面はどこなのか。足の裏はきちんと機能しているのか。
そもそも肉体の感覚は?輪郭ははっきりしているのか?本当は形がなくて、在るのは意識……自分という意識だけなのではないか。
自分の輪郭が薄れる。自分の体の感覚は消えた。耳が聞こえない、目が見えない。臭いがない。自分の唾液の味すらない。空気の微細な振動すら、感じることが出来ない。
地獄というに、ふさわしい。
グレーが一瞬……あるいは、自分というものが虚無の中で溶けていく直前に感じたのは、それだった。
シーヌにとって、地獄とは憎悪と悲しみ、喪失感に苛まされる日々の心の在り方であった。
友を失っていく悲しみを。家族を、平和を奪った敵への憎悪を。そして、大事な者たちが残っていない喪失を。
それが、現在17年近く生きてきたシーヌの日常であり、苦痛であり、彼自身であり、“地獄”だった。
シーヌにとって、復讐に捉われ、復讐に生きる日々そのものが、絶望そのものであったことは言うまでもない。
だが。その地獄は、とある過程を得て大きく変化することになった。復讐の達成。それによる自失。
自分の人生も、価値も、意義も。生きる希望が真横にありながらそれすら見えなくなるほどの絶対的な虚無。決して逃れることが出来ない、人がおそらく一度は通過する、『己とはいったい何なのか』という問いに対する、最悪の回答。
ここに己は在らず。それは、『自分の居場所はここではない』と感じる逃避や、『もっと自分に合う場所があるはずだ』という回避とは致命的に異なる、一。
自分の存在の、生存証明の、失敗。存在証明の、失敗。そもそもにして、自分が今この瞬間、この場に生きていることが、感じられない。証明できない、ではない。証明のための探索手段がない、でもない。
存在手段が絶対的に存在しない。絶対的な無力感。自己否定ではなく、そもそも否定する己はなく。
シーヌが体験した“地獄”とは、筆舌に尽くしがたいが。
ありとあらゆる何もかもがなくなるという地獄だ。そこには虚無しかない。何もない。抗いようのない不確実さ。自分たちが今こうして生きているという、呼吸をしているという自覚を、180度回転させたもの。
“幻想展開”。呑まれたグレーが、完全に意識を地獄の底に囚われるまで、一分近い時を要した。
それを、地獄の中で見ていたシーヌは、ゆっくりと、長い息を吐く。
「思った以上に粘った。」
普通の人間なら、あんな地獄に長いこといることなど出来ない。一分もいることが出来たというだけで、強靭すぎる精神をしているのだろう。
それは、そこにいたことのある人間にしかわからないだろうが。正気の人間が、生きていけるような環境なはずもなく。
呆然としているグレーに、着実にシーヌは歩を進める。グレー=キャンベル=アルス。確かに王道でも邪道でも、シーヌに勝機はない存在だった。
「でも、これで。」
脇腹を、一刺し。“幻想展開”の中でも、もうその“地獄”を一度体験し、その心魂に染み込ませたシーヌにとっては、“地獄”は過去の追体験に過ぎず、ゆえにシーヌが再び自失することはもう、なくて。
とどめとばかりにもう一刺しする前に、シーヌはグレーに蹴り飛ばされた。
“幻想展開・地獄”は、虚無を感じさせる魔法である。あるいは、己の存在そのものを、徹底的にぼやけさせ、虚無と同質にする世界である。
それは確かに、強力な魔法だろう。発動できれば、確実に一瞬、あるいは恒久的に、人間を廃人化することが出来るだろう。
だが、シーヌは致命的な欠点を与えていた。いや、過去の追体験をそのまま世界に顕現させている以上、それが欠点になるのは当然の帰結だ。
痛覚を、刺激した。痛みを感じたグレーは、すぐさま、今が戦闘中であることを思いだす。
思いだしたところで、“地獄”による五感の停止は続いている、が……シーヌは、虚無を味わっているうちに、死に至るほどの痛覚を得たことがなかった。その時どうなったのか、シーヌは知らない。
知らないものは、再現できない。再現できないものは、それは。
シーヌの“現実”にとっての、限界点だ。それが発現した瞬間……シーヌとグレーの戦いもまた、限界を迎えた。
「ようやく、理解した、シーヌ=ヒンメル=ブラウ。」
追い詰められ、脇腹に入れられた一撃でもって“地獄”の中でも意識を保てるようになったグレーは、自分の“幻想展開”が通じなかった理由について理解していた。
「全く……我の魔法が通じんのにも納得がいく。確かに、本物の自然災害と直面し、本物の自然災害をその身に浴びてきたというのなら、空想上の災害など屁でもなかろう。」
気づかれた、瞬時にシーヌは“転移”による逃亡……“災禍の具現”をこの荒野に放置し、自分だけ撤退するという方向へと切り替える。
門を開き、体を飛ばし、門をくぐる……シーヌがそれを行いきるまでにかかる時間は、わずか一秒。そして、シーヌとグレーの距離は、わずか10メートルほど。
たった一秒で、グレーから逃げ切ろうとしたシーヌが甘かった。気づけば、シーヌは腕を取られている。
「……教えろ。あの“地獄”は、何だ?」
幻想を喚ぶ魔法使い。だからこそ、決して理解できない幻想、救いのないほどの虚無の渦を扱うシーヌという人物に……その脅威に、初めてグレーは目を向けた。
「あれは……僕の、復讐の末路で。」
末路。そう、目的を果たし終えた後の、何もない虚脱感と絶望感。末路というに、ふさわしい何か。
「ティキを取り戻さないと、きっと帰ることになる場所だ。」
最後の希望だと、シーヌは思う。クロウを失って、復讐のために生き続けてきた人生を失って。最後にたどり着くことのできる場所なんて、本当にとっくに答えが見えているのを知っている。
「そう、か。」
ティキと出会えた『奇跡』を。恋が出来たという、『奇跡』を。あの、どうしようもなく狂おしく囚われ続けた悪夢の日々の中で得られた、唯一無二の安らぎを。
同じものを、シーヌはティキに与えなければと思う。与えたいと願う。そして、もう。自分はこれが、最後のやり直しのチャンスにして、最後の幸せを掴み取るチャンスなのだと。
「僕はティキを失えない。最後のチャンスを失えば、僕はもう、自分の力で幸せを得ることが、得ようと思うことが出来ない。」
はっきりと顔を上げて、シーヌの顔を見るグレーの瞳をにらみつけて。
「どけ、“災禍の具現”。僕はあの地獄に、もう戻りたくはない。」
その言葉に。グレーは、シーヌを掴む腕の力を抜いた。
「お前には、魔法の才能はない。シーヌ=ヒンメル=ブラウ。もしも何かを得たとして。幸せを掴んで、それを糧に成長したとして、お前は防雨権者組合でも千位以上に上ることは決してないだろう。」
断言できた。グレー=キャンベル=アルスは、シーヌの執念や憤怒を知らない。だが、虚無感があれほど恐ろしいと思えた。あれがシーヌの現実であるというのなら、虚無感を覚える以前に感じていた感情は、恐ろしいほどの虚無感と同等のものだったに違いない。
「だが、どこまでもお前の表現する徹底的な現実は、確かに強固な武器であり、同時に……我の感情を変える武器だった。」
空想を操る魔法士、“災禍の具現”。かれはシーヌほどの狂気はない。シーヌほどの感情の高ぶりはない。シーヌほど異常な激動の人生を歩んでいない。
「冒険者組合員第八位“災禍の具現”としてではなく、一人の人間『グレーキャンベル=アルス』として、」
頭に過るのは、先ほど感じた虚無感と、『現実よりも現実らしい』“幻想展開”を乗り越えて見せた絶対的な“現実展開”。
「お前の行く先に、幸が舞い降りることを、切に願う。」
魔法が、“奇跡”が、『世界を塗り替える』『運命を切り替える』ものだとするならば、シーヌの操るものはどこまで行っても魔法ではない。
魔法とは空想の産物だ。幻想の、妄想の。ありえざるモノの産物だ。
『現実』を『再現』する魔法など、魔法ではない。それはただの事実。空想ではなく現実で、妄想ではなく事実で、シーヌはこれ以上の先を行く。
「子供のころから、現実だけを直視してきたのだろう。」
全くの幼少期から出ないことは知っている。6歳で、クロウが滅ぼされた日からであることは、一応資料で読み込んだ。だが、子供は夢を見て育つべきだ。希望に満ちた未来を夢見て育つべきだ。たった6歳から、復讐という殺伐としたものを夢にして歩んでいい道理はない。
「もう、お前は大人になっていくのだろう。だが、魔法使いとは、子供であることから始まるのだ。」
魔法は空想だ。魔法は夢だ、魔法は希望だ。そのルールを無視して、徹底的なまでに現実で戦ってきたシーヌは、ある意味において誰よりも魔法使いの素養がない。
「だが……まだ、夢を見られるのならば。本気で生きてこい、シーヌ=ヒンメル=ブラウ。」
彼はそう言って、地獄に生きた少年の背を、押した。




