教本の魔女
シーヌたちの乗る馬車は、夜中に空を駆けることでとんでもない距離を稼いでいる。
それは、シーヌが空の道を作り、アリスが周囲幻惑の魔法をかけ、走るのがペガサスたちであり、環境が夜だからできる荒業である。
だがしかし。ペガサス……野生のペガサスは、そうやって空を駆けたところで、とんでもなく速いというわけではない。確かに普通に野生で生息する馬や農耕馬と比べたら、体力も積み込める荷物の量も多い、が。ペガサスは軍用馬というわけではない。
空を飛んでなおオーバスのいる地まで2週間かかったのがその証拠であり、軍用馬ならもう少し……2、3日ほど早く着けただろう。もちろん、シーヌたちの魔法技術が高く、休む時間がもう少し短ければ、という前提はなしとしての話だ。
「遠いな。」
アレイティアの隠れ住む屋敷。馬車を使っても、約一月はかかりそうなところにあるとみて、シーヌはわずかに頭を抱えた。
「しかも、馬車での移動だけというわけじゃない。」
ムリカムの配慮は至れり尽くせりだった。ネスティア(セーゲル)、ケルシュトイルの軍はこちらに呼び寄せられている。軍用馬だ、訓練を受けていないペガサスよりは速いだろう。しかも、拙速を尊んだのか、すべて騎兵で構成された軍だった。これなら早くに進めるだろう。
問題は、軍用馬であってペガサスではない……途中の関門を素通りできることもなく、途中の森を飛び越えられるでもない、陸路を進むことを義務付けられた軍であるということだ。
「ペガサスと同速になる、かな?」
結果論的にはそうなるだろう。とはいえ、こうするのが一番安心できる方法でもある。
「行こう、チェガ。」
「おう!」
シーヌたちは、関門を通り抜けるための証書としてムリカムの証を借り受ける。今のこの時世において、ムリカムの紋章は強力……強力すぎる力を持っている。シーヌやデリアたちの持つ冒険者組合の紋章などより数段上の力を、持っていた。
「権力って便利だな。」
「お前、その権力を振るえる立場だろうが。」
デリアのボヤキに、シーヌがツッコむ。言われて久しぶりに思い出したとでもいうように、ハハハとデリアは笑って見せた。
「“救道の勇者”がいないエトリック帝国のシャルラッハに意味があるわけないだろ。俺はもう特権階級でも何でもねぇよ。」
特権階級よりシーヌの旅路の見届けを選んだ少年は、笑うしかないとでもいうように口元が緩む。デリアの決断に、未だ釈然としないものを覚えるシーヌは、しかしそのことを頭から振り払った。
「一ヵ月、か。」
時間がかかりすぎだとシーヌは呟いた。ティキがアレイティアの隠れ家から動かされていないのは、ティキが妊娠中だからだ。母体に負担をかけ、流産になったら。流産はさておき、結果としてティキに子が残せなくなったら、アレイティアとしては困る。
だから、ティキを動かせない今だけが、シーヌたちに残された、ティキを再び手に戻すチャンスであり……同時に、立った一瞬しか、ティキを取り戻す手はない。
アレイティア公爵家は、二千年続く非常に長命な家計である。その出自、“竜の因子”によって受け継がれ、長年にわたって与えられてきた才能、仕事、そして特権。
ゆえに、アレイティアは強い……世界で五指に入る、財力、人材力。それらを駆使し、徹底的にティキを守られれば、ティキを助ける術はない。
オーバス公爵がシーヌの愚行を咎めないことに決めたのは、シーヌがティキの夫だからであるが、それだけではない。ティキが産もうとしている子供が、シーヌとティキの間の子であるからだ。夫婦の証明としてこれ以上なく確かなものであるがゆえに、五神大公はシーヌの愚行を否定しづらい。
では、ティキが子を産んだ後、アレイティアの次期当主の子を妊娠したら、どうなるだろうか。五神大公は、夫以外の子を産ませようとした公爵家を非難するだろうか?
「ありえない。それは、ありえない。」
シーヌは理屈ではなく勘で悟っている。チェガは五神大公の義務と存在意義から、そういうものだと知っている。五神大公がまず真っ先にしなければならないことは、“竜の因子”の保有量が極めて多い五神大公の一族を囲い、自由を制限し、五神大公として育て上げること。そのためならば、ティキ一人の監禁くらい、何を目くじら立てる必要があるというのか。
「ティキが子を産んで、アレイティアの長男がティキに手を出すまで。それがタイムリミット。」
そして、残された時間は。予想通りなら、一ヵ月……この軍がたどり着く頃には、ティキの臨月だ。
「急がないと……。」
既に。シーヌは焦り始めていた。
アレイティアの屋敷はもう目前、この山を越えたらたどり着く。
軍はシーヌの焦りに感化されるように速度を上げ、しかしもろもろの事情もあって、縮まったのは約一日分だった。
「わざわざこんな辺境まで、よくやって参りました。」
声が聞こえた。この、先はもうアレイティア公爵の仮住まいしかないような、山に囲まれた土地で、ネスティア王国代表セーゲル軍とケルシュトイル軍という、明らかに兵士であり、物々しい雰囲気を醸し出す集団にかけられた、ずいぶんと余裕のある声。
「アレイティア公爵の手勢のモノか、お前は。」
「はい。アレイティア公爵に仕えております、冒険者組合第8位、“災禍の具現”グレー=キャンベラ=アルスと申します。」
足が、止まった。足だけではない、体もだ。目と鼻の先。軍の先頭から、50メートルもしない間合い。
そこから感じられる圧倒的な圧力……実力の、差。
兵士たちの9割が腰を抜かす。シーヌやチェガたちの頭に、『敵わない』『逃げろ』という言葉が繰り返し響き渡る。誰も動けず、誰もが勝てるビジョン、いや、抵抗できるビジョンが思い浮かばないほどの圧力を、かけてきていて。
「幻想は、必要あるまい。そこまでせずとも、彼我の差は明らかであるゆえに。……アレイティアの命よ。殺しはせぬが、せいぜい心は折れてもらおうではないか。」
突如。本当に、唐突に。何の予兆もなく、炎の槍が打ち出された。いつ魔法が用意されたのか、いつ魔法を放ったのか。いや、作るという過程と放つという過程がほとんど同時に行われていなかったか。
走馬灯、それに限りなく近い思考速度。おそらく、回避できない攻撃に対しての言い訳と言った意味合いの思考が脳裏をよぎり。
「させない!」
その、教科書通り、定石通りと言わんばかりの魔法を、超広範囲の水の壁が阻んで見せた。
「ほう?」
まさか防げる人間がいるとは思っていなかったのだろう、グレーは目を見開いて術者を見つめる。
「アリス=ククロニャ=ロート。話では定型通りの魔法使いと聞いていたが……定型通りなら対処も模範のように美しかったな。」
アリスと同じ魔法速度は、シーヌには出せない。定型から外れた魔法、教科書通りではない魔法で戦う限りにおいては、他の者から得た経験で魔法を操るシーヌに一日の長があるが……様子見のような定型通りの魔法の打ち合いなら、シーヌとアリスなら、アリスが絶対に上だ。
「そうか。一番戦闘で厄介なのは、貴様だったか。」
グレーはそう呟くと、アリスに向けて、魔法を次々と形成し、放ち始めた。
アリスは、実のところ一行の中では一番強い冒険者組合員である。
復讐の執念、何としてでも目標を叶えるという意思の面で、アリスは決してシーヌには敵わない。なぜなら、アリスはそこまでの執念を得る機会など一度もなかったのだから。
義父がアリスを養ってくれていた。恋人が常にアリスの隣で生きてくれていた。環境が常に、アリスの命を、心を守っていくれていた。
そうして大人になったアリスが、一人で生きることが出来るようになったアリスが。シーヌのような、絶対の執念をもって魔法を放つことは難しい。彼女は常に幸せを享受し、幸せを感じて生きてきた、シーヌのように、失われた、感じられなくなった幸せを求めて復讐に手を出す狂気や、それに近い強い意思を向けることはない。
だが、何より幸せを享受し、何より幸せを感じて生きてきたからこそ。その幸せを守るために出来ること……魔法の訓練を、意思や想像力による魔法の具現化を、その反復練習を怠ったことはない。
義父が死んだことは悲しかった。お義父さんになるはずだった男の死も、確かに悲しかったと言えば悲しかった。だが、あの二人は、その覚悟を、そのつもりをしてシーヌに臨んだ。だから、アリスはそれを不幸だとは思わない。
義父も、お義父さんも、望んで死んだ。デリアはその死に価値があったと思おうとしているらしいけど、アリスは本人が納得していたならそれでいいと思う。
土の槍を、同じく土の槍で叩き落とした。火の玉を、水の槍で迎撃した。
敵の攻撃を見た瞬間に、次の攻撃を決定し、迷う暇なく具現化する。ほんのコンマ以下の逡巡が、命取りになる戦い。義父に教えられた、本当の強者との戦い。
「私は。」
デリアはシーヌばかりを見ている。気に食わない。
義父たちの死に価値をつけたい気持ちを理解できない。いや、理解できないわけではないが、そんなものよりも、私を見てほしい。
シーヌが幸せになれば。彼の旅路が完遂すれば、きっとデリアはアリスを見てくれる……きちんと夫婦に戻ることが出来るという希望。それが、今のアリスを動かす動機であり、シーヌについて戦っている理由であり。
「シーヌさんの目的が果たされないと、デリアは私のことを見てくれない。」
たった一つのその信念のためだけに、今こうして、“災禍の具現”という、世界屈指の怪物と渡り合っている。
「……認めよう、我は貴様を舐めていた。」
アリスに悉く迎撃されること5分。シーヌやチェガ、デリアが攻撃を仕掛ける余裕もない、いや、動けば死ぬかもしれないような、攻防戦の果て。
「我が“災禍の具現”たる理由を、見せようか。」
“次元越えのアスハ”をもってして2分も戦えなかった相手に、拮抗し続けていたアリスは、非常に強く、優秀だったと言えるだろう。だが、それはあくまで、“災禍の具現”が慈悲を見せて、加減していたが故に成り立っていた戦闘。
グレーの後ろには、影。おそらく、アレイティアの用意した、対軍用の、軍隊。
それが、視認できる程度の距離で立ち止まる。どうも不自然な状況を遠目で確認し、グレーが本気を出そうとしていることに慄いて、立ち止まっている。
「我が名は!」
「ワデシャさん、アフィータさん。他の奴らを使って、後ろの軍を何とかしてください。……アリス、ありがとう。本気を……“災禍”を出さないグレーには、どうしても勝ち目がなかったから。」
シーヌの呟き。それに、声をかけられた奴も、それ以外も反応する暇がないまま。
「グレー=キャンベル=アルス!“災禍の具現”!……参る!」
その本気を出すべく、冥途の土産とその命を奪う者の名を告げて、
「“転移”」
それは、ファリナ=べティア=スティーティアの“非存在”を“複製”したものを、シーヌなりに『模倣』した技術。“非存在”は今のシーヌと桁外れに相性がいい。シーヌが今持つ最も強い概念は、括り的には“三念”のうちの一つ、“達成”“空虚”“我、在らず”。自分を存在しないものとして定義してなお活動できる魔法“非存在”は、“空虚”と比べて防御面では圧倒的に劣るものの、探知に引っ掛かりにくいという点では同等だ。
それを自身にかけたのち、“転移”でグレーの隣に現れて、グレーの足元を含めた一帯に“転移”をかけて。
シーヌとグレーが落ちたのは、アスハとグレーが戦った、あの荒野だった。




