修羅の苦悩
ミラ=ククル=グリュンはケルシュトイル公国女王、あるいは王妃になると断言されている女である。
その女と結婚を果たした俺は、ホッと大きな息を吐いた。
「もう行くのですか?」
「あぁ。悪いのだろうとは思っているんだけどな。」
それでも、行かなければならない。これから行くのは、チェガ=ディーダの、“友愛の修羅”の戦場だ。
奇跡に呼ばれている感覚というのは、こういうものだったのか。シーヌがずっと抱え、戦ってきたものを、俺が今体験しているというのは感慨深いものがある。
「その前に。」
ミラが、俺を呼び止める。早く行きたいという声が心の中に噴出する。
シーヌに、手を貸さねばならない。
彼はまだ立ち上がってはいないだろう。そんな彼に、何か良くないものが近づいている気がする。
そしてそれは、俺のよく知る、“隻脚の魔法士”が生き返っている事実と関係があるはずだ。
「あなたには、話すべきことがあります。きっと、シーヌ様を……いえ、ティキ様を助ける役に、立つはずです。」
その言葉に足を止める。
シーヌが自失しているなら、危険なのはシーヌだけではない。ティキもまた同様に、だ。
シーヌとティキが万全なら、二人で背中合わせで戦えば敵なんてそういないだろう。だが、片一方なら話が違う。
ティキはシーヌを庇わねばならない。それ上に、身重の上で戦えるはずがない。
「危険なのは、ティキも同じか。」
ゆえに。ティキを助けるための話を、俺は聞いておかなければならない。
俺は、シーヌの自失した姿を見たとき、こいつについていって身を守ってやるべきか、真剣に苦悩した。
そうしたいという想いは強い。俺はこいつの友として、隣で支えていたいという気持ちが大きい。
だが、今の……神山での戦いでグディネの皇子を討った俺が、ミラ=ククル・ケルシュトイルという女と結婚できるチャンスもまた、今を置いて他になかった。
理由は単純である。ワルテリーを維持する女、エル=ミリーナとフェル=アデクトの、執政官としての限界が近いからである。
「言ってしまえば、ワルテリーもベリンディスも、とても優れた政治家なんていないのですよ。なぜなら、国土が小さい以上、これまで一人二人政治家がちゃんとしていれば回る世界だったのですから。」
“神山”、そして隣接する大国の接収。そのせいで管理しなければならない土地、人、金が跳ね上がる。農作物、技術、資源調査、それらにかける諸々を、元々勉強していた数人の政治家で回せる……わけがない。
そして国には、何もせず棒禄だけを得ていた貴族が数家。彼らが、『1つの家だけに権力を与えるな』と騒ぎ立てる。
それを阻むための手として、ワルテリーの第三王子が言った。『既にケルシュトイルとベリンディスが合併をしているのであれば、ワルテリーも乗っかればいいのです』と。
王子が国を売る真似をするのはどうか、とも思うが、第三王子アティスが生きてさえいれば王族の血筋のみは保護される。ワルテリーが気を付けなければならないのはそれだけなので、国王や第一王子が死のうが問題はない。
王子のその提案に、エルが積極的に乗ったのだ。エル、フェル、そしてミラと、リュット学園で学んだ三人が敵対せず、平和に生涯を終えるためには、隣接する二国の力ある政治家よりも同国の主と忠臣の方が都合がいい。
結果として。最後の決死の抵抗をするワルテリーの軍をチェガ一人で無力化するという荒業を用いつつ、その一帯は併合された。
幸いにして、アレクシャール双王国の誕生に批判的な貴族の一派がケルシュトイルに流れてきていたこともあって、人手は辛うじて足りている。少なくとも、シーヌがケルシュトイルを旅立って一ヶ月の間にそれは終わり、チェガが軍部を一人で管理する代わりに束の間の平穏が得られた。
ゆえに。チェガの功績が大きい間、チェガが『怖い』と認識され、彼の手綱を握れるのがミラだけだと思われているうちに結婚しておかなければ、三国合併後の急拡大王国の『王配』の座を欲しがる輩は増えるのだから。
ティキはついてくるか残るか葛藤する俺に対して、告げた。
「結婚しなさい。あなたがシーヌに縛られたままだと、シーヌの重みが増えてしまう。我に帰ったシーヌが、あなたのせっかくの婚期を逃したと聞いたらどう反応するか、わかるでしょう?」
シーヌに最も縛られている女が言うと重みが違う。あきれて大きく息を一つ。
確かに。俺は、シーヌを支えたいと思っているが、シーヌの荷物にはもう、なりたくない。
「わかったよ、ティキ。でも、万が一の時はどうやってシーヌを助ければいい?」
「私が危機だと言えばいいでしょう。ベリンディスはさておき、ワルテリーもケルシュトイルも、……あの『七ヵ国同盟』に所属していた国と国民は、等しく私に恩がある。」
建前としては立派に使える。そう思う。だが。
「俺は軍を一手に担ってる。もしいなくなれば、反乱分子が……」
「『冒険者組合員』を助けにいって、反乱する?ふーん、勝てるつもりなのかな?」
ゾッとした。ティキを怖いと思ったことは再会して以来何度かあったが、今回は別格だった。
世界最強組織、冒険者組合の一員。ティキはそこに名を連ねているだけではなく、『アレイティア』の一員だ……ということを改めて感じ取って。
「そう言うように、ミラたちに伝えておくね?」
実のところ、それが俺の結婚の意思をはっきり固めた瞬間だった。
友達が恋を叶えられないことを、この女は許容しないだろう。そう、思ったからだ。
「遅くなる前に結婚し、国の力も合わせてシーヌを助ける。」
俺は、ミラと交際期間を経ず、即座に結婚した。
そんなティキが友情を感じている、ミラの話。それが、軽いものなわけがない。
ミラの話を、聞き終えて。俺はツゥっと、首筋に汗が伝う感触を、これ以上なく鮮明に感じた。
“群竜の王”と一対一で話し合ったことがある。あの時、俺が感じた彼の威圧感よりも、今の話の方が怖い。
“次元越えのアスハ”と殺しあうつもりで訓練した。あの時よりも、数倍怖い。
「つまり、」
「えぇ。冒険者組合というのは、元々、強者たちの集合ではありません。……万が一のことがあったときに、その全ての人を犠牲にしてでも『五神大公』を止めるための、組織です。」
三千年前から続く長い長い、『ケルシュトイル家』が保有する事実を、俺は今知って。
「シーヌを助けるということは……おそらく、それに喧嘩を売ることだと、心得てください。」
本当に、いきますか?そう聞かれて、俺は。
自分の覚悟が全然足りなかったことを、理解し、受け入れた。シーヌを助けるために向き合うのがもしかしたら世界かもしれない。それほど規模の大きな話だったことに、再度覚悟を決め直した。
「必ず戻る、とはもう言えないな、ミラ。お前には悪いけど、お前以上に、俺はシーヌが大切なんだ。」
妻をおいてでも、友を助けると。俺はずっと決めている。
「でも、全力を尽くす。きっと、帰ってくるさ。」
だから、必ずをきっとと言い換えて。それでも、無事に終わらせるという主張を見せて。
「えぇ。それでこそ、私のチェガです!」
ミラは、そう言って、笑顔で俺を送り出した。




