勇者の始まり
「おーい、マリー!帰ったぞ!」
ウォルニアが奥に向けて声を上げた。その声に、「はーい」と言って女性が出てくる。料理でもしていたのだろうか、開けた扉からは随分と香ばしい匂いが漏れてきていた。
「紹介しよう、マリー。シーヌ=ヒンメル=ブラウ、クロウの生き残りだ。」
ウォルニアのその紹介に、マリーと呼ばれた女性の目が大きく見開かれ、そして、笑みを浮かべていた。
「シーヌ=ヒンメル=ブラウと申します。初めまして、ご婦人。」
「シーヌ殿、彼女はマリー=バルデラ=シャルラッハ。私の妻です。」
「マリーですわ。息子が世話になっているようで。」
嫉妬の念が、シーヌの心に渦を巻く。自分の家族は死んだ中、デリアは父も母もいる家庭で生きてきた。
デリアが悪いわけではない。だからと言って、嫉妬心が抑えられるわけでもない。
今は、人前。デリアに『一日』時間をやると宣言した。以上、今何かを言うわけにもまた、いかない。
「いえ、息子さんには冒険者組合の試験では頼りにさせていただきました。」
社交辞令を交わし合い、互いの目をじっと見る。
(……そう、か。)
そのマリーの瞳を見て、シーヌは理解した。
ウォルニアの妻は、ウォルニアの最大の理解者だ。シーヌとティキとは比べ物にならないほど強い絆で結ばれている。
ウォルニアが死ぬことを決めていることを、彼女は理解している。その理由も、そしておそらく、止めることが出来ないことも。
マリーがシーヌに向ける目は、何より重いものだった。夫への愛情、それを、シーヌへと向けている。
「……安心してください。あなたの望みは、必ず私が果たしましょう。」
「そう、ですか。よろしくお願いいたします。」
シーヌの断言、マリーの礼。状況が状況だ、シーヌが母に言ったセリフ、母がシーヌに返した返答。その重みも、なぜかも理解できなくとも、何かはこの場にいる全員に伝わった。
「母上?」
「デリア、そう。あなたは、受け入れるつもりがないのね。」
デリアがまだ、父を救うつもりでいること。それを理解して、マリーは悲し気な視線をデリアに向ける。
「なぜですか!」
その叫びは、まるで悲鳴のようだとシーヌは思う。同時に、思うのだ。
今日まで、もしかしたら苦しい日々を送ったのかもしれないが。
それはきっと、幸せだったのだろう、と。
机に座ったのは五人だった。ウォルニア、マリー、デリア、アリス、そしてシーヌ。
オデイア、アゲーティル、ファリナは外の宿へと移動した。彼らはシャルラッハ家に首を突っ込むことはしない。
スティーティア夫妻はそもそも論としてデリアに雇われただけの傭兵だ。そして、オデイアはシーヌの付き添いに過ぎない。
ウォルニアがシーヌを害することはない。オデイアがシーヌに付き添う必要はない。だから、当事者だけが、ここにいた。
「デリア。シーヌ殿は、復讐についてなんと語った?」
「何も間違えてはいないんだ、と。それだけだ。」
そうだったかな、とシーヌは考える。その通りだった気もするし、そうでなかった気もする。ただわかっていることは、シーヌは何が何でも復讐を果たすという、ただそれだけだ。
「ではデリア。お前は復讐を、何のためにすると思う?」
「シーヌがやりたいからだって、そう言った。」
「言ったか?」
「お前は俺に、どうして復讐を止めさせたいのかと聞いただろう。俺は父を殺されたくないだけだと答えたら、お前も同じだと答えた。そういうことだろう?」
復讐を果たしたいだけ。確かに、そう捉えられるし、そう言う意味で言ったのは確かだ。同時に、きっとデリアは肝心なところで理解できていない。
ウォルニアも、マリーも。じっと、デリアの瞳を見つめている。どこが間違っているのかわかっているのだろう、そしてそれを訂正するべきか迷っているのだろう。
「死ねば、語れなくなりますよ。」
シーヌはポツリと言葉にする。“歴代の人形師”が作り上げた、家族や馴染みの者たちの人形を思い出す。
もっと話したかった、もっと遊びたかった、もっと共にいたかった。
“歴代の人形師”のやり方は大問題だったものの、しかし、あの光景で何よりも強く理解した。
「死ねば、ただの、屍です。想いも後に残せなくなる。」
“永久の魔女”は、死んだら軌跡すらも失われると感じていた。彼女から流れ込んだ記憶の中で、シーヌはそれを感じ取った。
過去は、記録は残せる。シーヌはそう思う。生きた記憶、記録、そして、想い。
「生きている間しか、遺せない。死んでしまえば、言葉に出来なかった感情は、屍を晒すだけになります。」
そのセリフで、ウォルニアは覚悟を決めたようだった。
もしもここにティキがいたなら、このシーヌの行動に疑問を覚えたかもしれない。これはシーヌによる、ウォルニアに対する慈悲行為である。これまでのシーヌでは決して考えられない行動だろう。
これまでの復讐も、シーヌは末期の声を聞き届けるくらいはしていた。だが、これは末期の声ではない。どちらかと言えば未練の清算。“仇に絶望と死を”において、絶望の部分には該当しない。
むしろ。言わせない方が、ウォルニアにとっては『絶望』に値する行為であることは歴然……しかしシーヌは、ウォルニアに話すことを許可した。
「まず、だ。私はシーヌ殿の行為が、正しいものであると考えている。」
「なぜ!」
「復讐されるだけのことを、我々はしたのだ。そして、これはシーヌ殿の人生。彼の人生が『そう』と決めたなら、最後まで走るべきである。」
自分が最後の一人だと理解した上で、だろう。外にいる“覇道参謀”もだが、二人は二人で一つだ。同じと言える。
自分一人生き残るわけにはいかない。ウォルニアはそういう主張を平然と行ったうえで、言う。
「デリア。お前は、幸せだったか?」
だった。あえて過去形で、今ではなく、聞く。父と母、妻がいるこの状況で、デリアが言えることなどたった一つ。
「あぁ。幸せだったよ、父上。」
胸に穴が空いたような寒さを味わっている。『幸せ』の部分を聞いて、シーヌはその穴が今も閉じそうにない現象を自覚する。
「だが、シーヌ殿は、そうではない。」
「嘘だ!!妻がいる、友がいる、心配する義父がいる!どこが幸せではないというんだ!!」
その叫びは、おおむね正しい。それは、人間にとって、望むべくもない幸せで。
「では。自分に起こっているはずなのに、どこまでも自分のことに思えない。幸せを幸せとわかっていながら実感できないことは、幸せというのだろうか?」
それが。シーヌが復讐を止められない絶対的で、絶望的な。はっきりと断言できる理由だった。
「は?」
デリアがポカンと口を開ける。何を言っているのかわからないとでも言うように、実際その通りなのだろうとわかるだけの間をおいて、
「何を、言っているのですか?」
それを。言った。
デリアには、わからないだろう。幸せを。当たり前の幸せが自分に起きていながら、どこまでも人ごとのようにしか思えない感覚を、デリアは理解できていない。理解する必要が、ない。
「シーヌ殿は、クロウの生き残りだ。……クロウで、全てを喪った人間だ。」
友、家族、好敵手、初恋。そして、それだけではなく。
「シーヌ殿は、あのクロウの惨劇で、彼自身を失った。命ではない。感情でもない。……シーヌ=アニャーラという人間の、生きた時間を。彼はあの惨劇に、置いてきたのだ。」
デリアは何を言っているか理解できないだろうな、と思う。少なくともシーヌは、理解されたいとは思えない。
こんな幸せに生きてきた少年が理解するには、ここは、地獄に過ぎるのだ。
「わかり、ません。」
「で、あろうな。だが、私は、わかる。」
ウォルニアが言う。デリアとアリスが驚いたように男を見る。そして、シーヌは『そうだろう』という様に泰然とし、マリーは悲痛な表情のまま動かない。
「……私が、“救道の勇者”であった頃、だ。」
なぜウォルニアが理解できるのか。それは、ウォルニアの半生を理解しないことには理解できまいと、彼はその口を開いた。
エリトック帝国バルディエス男爵家の次男として、ウォルニアは生を受けた。
教育は厳しく、しかし、貧乏である男爵家では日々の生活も大変で。
そんな中、彼は“神龍伝説”に、触れた。
「父さん!俺、英雄になりたい!!」
「何を言っておる、ウォルニア。英雄になる?男爵家が英雄になるほどの武功を挙げられるわけがなかろうが!」
「違うよ、父さん!僕は国の英雄になるんじゃなくて、“神龍伝説”の英雄たちみたいに、人が生きる世界のための英雄になりたいんだ!!」
それは、過ぎた願いだった。それは、大きな望みだった。
それは、将軍にならずとも出来る、願いだった。
「そうか。……そうか。なら、日々をしっかりと生きなさい。勉強を疎かにせず、魔法の訓練を繰り返し、武術の鍛錬を欠かさずに行いなさい。もし優秀だと判断すれば、そなたが騎士になれるよう、推薦文を出してやろう。」
騎士。昔の“神龍伝説”の英雄たちのようになるには、人々を守るにはうってつけの職業だと、当時のウォルニアは感じた。
「わかった!ありがとう、父さん!」
「後、礼儀もじゃ!わしのことは父上と呼びなさい!」
「はい、父上!!」
次男だったこともある。男爵家を継ぐ資格のない少年は、英雄になるべく、まずは騎士の道を歩み始めた。




