ブラウの家庭
妻が妊娠した。よほどのことがない限り、それは夫にとって喜ばしいことである。
少なくとも、多くの人物が農民である以上、働き手が増えることに喜びこそおおけれど、嫌がることはまれである。
その、稀である数少ない例外が、シーヌ=ヒンメル=ブラウ……復讐鬼として生きる少年だった。
(どうするべきだろう。)
決まっている、ティキと喜びを分かち合えばいいのだ。だが、復讐鬼として生きる彼は、もろ手を挙げては喜べない。
(子供がいれば、質になる。)
シーヌにとってかけがえのないものがあれば、復讐されるとき最大の搦手として使える駒になる。ティキがそうされる心配はほとんどない。ティキが人質にされるような状況は、つまりシーヌより敵が強い状況だ。そもそも論としてシーヌは負ける。
だが、子どもがいれば?シーヌを殺すためにわざわざティキを捕まえる必要はない。子供一人で、ティキもシーヌも牽制でき、シーヌを殺すことが容易にできる。
(ずっと、そんな恐怖を与えなければならない。)
ティキに対しても、生まれてくる子供に対しても、シーヌは申し訳なさを覚えてしまう。だからこそ、シーヌはティキの間に子供が生まれないことを微かに望んでいた。
「でも、まぁ。ティキは、嬉しそうだった。」
口に出す。それが全てなのだろう、とシーヌは己の心に結論付けた。
祝福しよう、と思う。それでもって、少しティキと話そう、と。
ケルシュトイル本国へ行くための馬車は、夜のうちに出立した。
昼間に出れば、国民たちに囲まれる。なら夜に出るしかないということだ。
幸いにして、馬車もペガサスたちもケルシュトイル公国の所有馬車だと勘違いされている。シーヌとティキの所有物だと知っている人は、シーヌ、ティキ、ミラ、チェガのみだった。
「あっちで面白そうな催しでもあったら、ミラを呼ぶね。」
「本当ですか!楽しみにしています!!」
「シーヌ、いいのか?」
「チェガも一緒にな。ダブルデート、かな?」
ダブルデートと聞いて、ティキとミラの顔が赤くなる。チェガは笑ながらシーヌの肩をどついた。
「ハズイこと言うなよ!……そうか、決めたのか。」
「決めるしかない、だけどね。不思議と後悔はしてないんだ、僕。」
「だろうな。お前は試験の時からなんでかぞっこんだったからなぁ。」
(それは僕も疑問なんだけどね、チェガ……。)
シーヌは内心で呟きながらも、チェガの馬車に乗り込む。こういうのはついいつ切りあげればいいかわからなくなる。早めに動くに限る、とシーヌは決めていた。
「じゃ、またな。」
「うん、また。」
リーヴァたちが駆け始める。それを眺めながら、チェガは、シーヌの覚悟を応援しようと眺めていた。
友人が父親になることを受け入れた。……孤独であり続けたシーヌの心境の変化は、チェガにとって嬉しい事だった。
「私たちも励んだ方がいいですかね?」
「いや、普通に忙しいだろ。それに、しばらくは新婚生活を楽しんでもいいんじゃないか?」
まだ婚約段階だけどな。チェガはそう付け足して、馬車へと背を向けた。どうせ1週間以内に再会するのだ。まだ別れを惜しむ必要は、なかった。
馬車の中で、少年と少女は静かに揺られていた。
あれから二人とも何も話していない。シーヌはどう切り出すべきか迷っていたし、ティキはシーヌの反応を恐れていた。
馬車なら半日も揺られれば目的地に着く。シーヌたちとしては、それまでに話はしてしまいたい。
「ティキ。」
切り出したのは、シーヌからだった。ティキはきっとではあるが、『堕ろせ』と言われることを恐れている。それは言わないと確約できるのはシーヌ自身だけである以上、彼から切り出すのは当然でもあっただろう。
「僕は、復讐が、怖い。」
復讐は次の復讐を呼ぶ。シーヌだけなら返り討ちに出来る。ティキも、報復されても大丈夫なくらいは強い。だが、生まれてくる子供はそうではない。また、妊娠中の彼女が動き回れない以上、今なら彼女を狙っても殺せてしまう。
「大丈夫だよ、シーヌ。」
だが、ティキは大丈夫だと断言した。ずっとシーヌの復讐に付き合ってきたティキにしてみれば、シーヌのその懸念を知らないわけではない。
元々、ティキと一緒に活動するのも、それで正しかったのか悩んでいたシーヌである。子供が、なんて考えたら、悩むのは当然だ。
「シーヌ。私は、復讐が終わったら、“永久の魔女”のいた森に行こうかと思っているの。」
あの場は元より、誰も入ってはならない神聖な場所だ。少なくとも3,000年近く、そういう扱いにされてきた場所だ。シーヌとティキが生涯を過ごすくらいの期間は、未踏の地としてやっていけるだろう。
「セーゲルでもいいかもしれない。シーヌがもし動けなくなったら、セーゲルにお世話になろうと思ってる。」
セーゲルにはあれだけ恩を売った。ティキとシーヌを、少なくとも二人の子が成長するまでの間匿うには十分すぎるだけの恩は。
「だから、大丈夫。私と私たちの子供を守るだけの人も、場所も、たくさんあるよ。それに」
ティキにとって、言うまでもないこと。ティキにとって大事なこと。
「シーヌとの子は、絶対に、誰にも、殺させないよ。」
それは、ティキとシーヌが夫婦であるということ。二人が、恋心でつながった恋人であるという事実。それが何より、ティキにとって大事なこと。
「シーヌが復讐の泥に自分を埋めていくなら、私が現実に引き上げる。私がシーヌの、生きる理由になる。」
ティキのその覚悟は、シーヌにとってはとても眩しい……眩しすぎるほどに。
「……うん、わかっている。大丈夫。ありがとう。」
とっくに、ティキがその覚悟を決めているのは知っていた。シーヌにとって、嬉しく、そして悲しい誤算。
ティキは決して、シーヌから離れることはない。
「6歳で、命と身体以外の全てを失った。」
宙を見上げながら、シーヌは言う。全てを、失った。希望も、友人も、家族も、お金も、他の何もかもを。
「僕はもう、家族の温かさを、微かな思い出の中でしか思い出せない。」
最初からなければ、あるいは渇望することなどなかったのだろう。希望は、喜びは、幸せは。体験したことがなければ、望むことも決してない。
「復讐は続ける。もう、止めることは出来ない。」
あと、大きな復讐は2つだけ。デリアの父と、アリスの叔父だけ。
「終わったら。僕は、ティキと……家族と、もっとちゃんと向き合うことにするよ。」
それまで待っていてくれないかな、というシーヌの言葉に、ティキはとびきりの笑顔で、シーヌに抱き着きながら答えた。
「もちろん!大好き、シーヌ!!」




